第14話 月謝に入れない一日
週末の王都の大広場は、色とりどりの天幕が立ち並び、多くの市民でごった返していた。
あちこちから焼き菓子の甘い香りが漂い、古書の紙の匂いと混ざり合っている。
分刻みの予定表が書き込まれた手帳を鞄にしまったフェリクスは、最初は少し勝手がわからない様子で周囲を見回していた。
市場を知らないわけではないだろうに、今日は何を選んでもらおうかと迷っているらしい。店先より、オリヴィアの顔をよく見ていた。
「フェリクス、あそこの屋台を見て。南方の特産品のフルーツケーキよ。王都の店舗には滅多に卸されない珍しいものだわ」
オリヴィアが目を輝かせて小走りで近づくと、フェリクスは慌ててその後を追った。
「先生……いえ、オリヴィア。人混みで逸れないように気をつけてください」
彼は大きな手でオリヴィアの背中を庇うようにしながら、一緒に屋台の店先を覗き込んだ。
「お兄さん、お目が高い! 奥さんと一緒に、切り分けのケーキはいかがですか?」
気さくな店主の言葉に、フェリクスは「おくさ……」と一瞬固まり、それから耳の先まで赤くして咳払いをした。
「あ、ああ。では、これを二つ包んでくれ。支払いは私が……」
フェリクスが反射的に懐から公爵家の刻印が入った革財布を取り出そうとした瞬間、オリヴィアが横からスッと銅貨と銀貨を差し出した。
「ここは私に買わせて。あのお店に行きたいって、先に言ったのは私ですもの」
「では、お茶は私が」
「ええ、お願い」
店主から二つの包みを受け取り、一つを彼へ渡した。フェリクスは大切そうに受け取った後、まだ少し赤い耳を隠すように横を向いた。
広場の隅にあるベンチに腰掛け、二人で甘いフルーツケーキを頬張る。
ただの買い食い。公爵家の豪奢な食卓とは比べるべくもない安いお菓子だが、横に座る彼が「これ、美味しいですね」と無邪気に笑う姿を見ていると、高級な料理よりもずっと心が満たされるような気がした。
お菓子を食べ終えた後、二人は古書が並ぶ区画へと足を向けた。
古い歴史書や、使い込まれた魔法の学術書、そして色褪せた装丁の物語本が所狭しと積まれている。
オリヴィアが楽しそうに背表紙の文字を追っていると、隣を歩いていたフェリクスが、待ち合わせの時から大事そうに持っていたあの「安い紙の包み」を差し出してきた。
「オリヴィア。これ……あなたに受け取ってほしくて」
「私に?」
「はい。たいしたものではないのですが」
彼が少し照れくさそうに包みを開けると、中から現れたのは、美しい透かし彫りが施された木製の「栞」だった。
高価な宝石が埋め込まれているわけでも、金銀の細工が施されているわけでもない。市場の端の職人が作ったと思われる、安価で素朴な、けれど木の温もりが感じられる一品だ。
「先日、あなたが今は物語の本を読んでいると仰っていたので。……もしよかったら、使ってください」
オリヴィアは、その栞をそっと両手で受け取った。
透かし彫りの葉を指でなぞる。机に届く通知とは違い、しまい込まずに、毎日使いたいと思った。
「ありがとう、フェリクス。……とても素敵な栞ね。今読んでいる本に、さっそく使わせてもらうわ」
オリヴィアが心からの笑みを向けると、フェリクスは安堵したように息を吐き、嬉しそうに破顔した。
市場を一通り見て回り、そろそろ帰路につく時間かと思った頃。
「オリヴィア。もしお疲れでなければ……少し、川沿いを歩きませんか」
フェリクスが、少しだけ遠慮がちに提案してきた。
王都の中心を流れる川の河岸には、美しい並木道の遊歩道が続いている。だが、それは手帳に書かれていた「予定」にはなかったはずだ。
「ええ、喜んで」
彼が自ら「予定外の寄り道」を楽しもうとしてくれていることが嬉しくて、オリヴィアは二つ返事で頷いた。
夕暮れの風が吹き抜ける河岸の遊歩道を、二人はゆっくりと並んで歩いた。
仕事のことも、魔法のことも話さない。
「最近、休みの日は何をされているのですか?」
「古い航海記を読んでいます。今日、二冊増えました」
「魔法の研究のため?」
「いえ。海獣が出る挿絵が好きなのです。実物より、ずっと大きく描いてあって」
彼は包みから一冊取り出した。船を丸呑みにできそうな魚が、表紙で大きく口を開けている。
「まあ。あなたなら倒せるかしら」
「本を閉じれば、勝てます」
真顔で言われ、オリヴィアは声を上げて笑った。彼も嬉しそうに笑う。
お互いの何気ない日常の好みを、ぽつぽつと語り合う。
時折、会話が途切れて川のせせらぎだけが聞こえる時間があった。しかし、そこには気まずさなど微塵もなかった。ただ横に並んで歩き、同じ景色を見ているだけの沈黙が、ひどく心地よい。
ふと隣を見ると、フェリクスもまた、穏やかな顔で川のきらめきを見つめていた。予定外の時間を心から楽しんでいる彼の姿に、オリヴィアも自然と笑い返した。
日が沈み、宿舎の前まで送り届けられた時。
「今日は、一日お付き合いいただきありがとうございました」
フェリクスが深く頭を下げてエスコートの礼を述べる。彼はこれで「今日の時間は終わりだ」と、名残惜しそうにしながらも一歩引こうとしていた。
だから、オリヴィアは自分から一歩踏み出した。
「フェリクス。今日は本当に、とても楽しかったわ」
オリヴィアは少しだけ背伸びをして、彼の顔を真っ直ぐに見上げた。
「……もしよかったら。また今度、こうして二人で出かけないかしら」
彼からの誘いを待つだけではない、自発的な次の約束。
フェリクスは一瞬だけ驚きに目を見開き、それから、深く、本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。
「はい。……必ず」
温かい余韻を胸に抱いたまま、オリヴィアは宿舎の自室の扉を開けた。
二人で過ごした幸せな一日の思い出に浸ろうとした彼女の視界に、机の上に置かれた一枚の伝言書きが飛び込んできた。
『ダリア監査官より。旧教材の保存目録に手掛かりがありました。退職時に持ち帰られた補習ノートについて、提出時期と原稿番号を先に教えてください。原本の確認日程も、ご相談したいとのことです』
それは、過去の不正を明らかにし、自分の名前を取り戻すための重要な手続きの連絡だった。




