第8話 先生の名前を消さないで
実演審査の日。王都の公益研修所に設けられた大講堂は、静かな緊張感に包まれていた。
実証事業の講師陣を最終決定するための、公開での実演審査。
壇上のオリヴィアの前には、利害関係を確認された三名の審査員が座っていた。推薦者のフェリクスたち四名は採点に加わらず、今日は傍聴席にもいない。
そして、本来なら特等席に座って然るべき教務監理官のヘルマンは、会場の隅の見学席へ追いやられていた。彼の隣には、恰幅が良く威圧的な初老の男――王立教育評議会の副議長であるセドリック・ベルネが不機嫌そうに腕を組んで座っている。
(彼が、あの注意書きの消えた標準教材の監修者……)
オリヴィアは視界の端でセドリックを捉えながらも、すぐに意識を目の前の受講生たちへと戻した。
今日彼女に与えられた課題は、初対面の三人の成人受講生に対して、同時に「運搬用の魔法札」と「仕分け用の魔法印」の二つの技術を教えることだった。
「では、テキストの四ページを開いてください。まずは運搬札の起動から始めましょう」
オリヴィアの落ち着いた声で、実演審査が開始された。
三人の受講生は、年齢も職業もバラバラだった。
一人は、文字列を追うのが苦手で、テキストを開いただけで目が泳いでいる中年の男性。
もう一人は、魔力を流す力が強く、練習台の遮断器を何度も作動させてしまう若い女性。
最後の一人は、運搬と仕分けの二つの工程を混同してしまい、手順が頭の中で絡まっている年配の男性だった。
一対一の家庭教師とは違う。複数人の異なるつまずきを同時に見極め、導かなければならない。
見学席のヘルマンが「やはり無理だ。定型手順で一斉に教えられないなら、公教育の講師は務まらん」と鼻で笑う気配がした。
だが、オリヴィアは焦らなかった。
「文字を追うのが辛いなら、この図を見てください。魔力の流れは、この水路の絵と同じです」
文字列が苦手な男性には、あらかじめ用意しておいた簡潔な図解を渡す。
「力が強すぎるのは素晴らしい才能ですが、今は少しだけ、細い糸を針穴に通すように想像してみてください」
魔力が強すぎる女性には、感覚的なイメージを伝えて出力を絞らせる。
「焦らなくて大丈夫です。運ぶことと分けること、一度に両方やろうとせず、まずは『分ける』印だけを確実に起動させましょう」
混乱している男性には、指示を完全に分割して一つずつ処理させる。
オリヴィアは決して、一つのやり方を全員に強要しなかった。相手の手の止まる位置を観察し、それぞれの理解の形に合わせてアプローチを変えていく。
やがて、三人の手元で魔法札が微かな光を放ち始めた。
「点きました……! でも、ここからどうすれば」
「では、なぜ今その札が光っているのか、ご自身の言葉で説明してみてください。どこまで魔力を流せば安全か、テキストの図と見比べて」
オリヴィアはすぐに正解を与えない。ただ手順を暗記させるのではなく、「なぜここで魔力を止めるのか」「なぜこの印を使うのか」という『理由』を、本人の口から説明させる。
最初はたどたどしかった三人の言葉が、少しずつ確信を持ったものに変わっていく。
持ち時間の四十分が終わりに近づいた。
手順を混同していた男性が、一度だけ札を取り違えた。けれど、動かす前に印を確かめ、自分で置き直した。
三人とも、運ぶ、止める、分けるという指定の課題を終えることができた。
「……見事だ」
静まり返った講堂で、第三者の審査員の一人が感嘆の声を漏らした。
「器具の限界と停止条件を確かめられています。習熟には反復が要りますが、今回の基準は満たしました」
その高い評価に、見学席のヘルマンが弾かれたように立ち上がった。
「異議あり! そのような個別対応は、統一された標準手順から逸脱している! 試験の公平性を損なうやり方だ!」
ダリアが、事前に配布された要領を開いた。
「採点対象は、安全な操作と理由の説明です。教え方を同一にするという規定はありません」
三名の審査員が採点表を照合した。やがて主任審査員が立ち上がった。
「オリヴィア・ヴァンザール氏。期限付き実証講師の登録を認めます」
オリヴィアは、一度だけ深く息を吸った。
ヘルマンは顔を真っ赤にして黙り込み、隣のセドリックも忌々しげに舌打ちをして席を立った。
オリヴィアのもとへ、担当講師の正式な登録簿が回ってくる。
彼女は署名し、インクが乾くまで、その名前を見ていた。
一年前、辞表の最後に書いたのと同じ名前だった。
すべての審査と手続きを終えて研修所の外に出ると、王都の街はすでに茜色の夕暮れに染まっていた。
正門の脇にある大きな街路樹の下で、黒い外套の青年が一人、背筋を伸ばして立っていた。
フェリクスだ。彼は約束通り審査の場には立ち入らず、こうして外で彼女の帰りを待っていたのだ。
足音に気づいて振り返った彼の顔には、隠しきれない緊張と期待が入り交じっていた。
オリヴィアは彼に歩み寄り、ふわりと笑いかけた。
「……合格したわ」
「っ……!」
「私の名前で、教壇に立てるわ。あなたが切ってくれた札も、役に立ったの」
一番に結果を知らせるという約束。
それを聞いた瞬間、フェリクスは大きく息を吐き出し、まるで自分が世界を救ったかのように心底嬉しそうな、そして安堵の笑みを浮かべた。
「おめでとうございます、先生。……本当に、良かったです」
「ええ。ありがとう、フェリクス」
二人の間に、静かで温かな時間が流れる。
喜びを分かち合ってから、フェリクスは少しだけ居住まいを正し、先ほどまでの緊張とはまた違う、ひどく真剣な面持ちでオリヴィアを見つめた。
「先生。……合格の祝いとして、改めてお食事の席を設けさせてください。そして」
彼は少しだけ言葉を切り、意を決したように続けた。
「それとは全く別に。来週、あなたを誘いたい場所があるのですが」
「今度は、どんな用件なの?」
「あなたと行きたい、それだけでは駄目でしょうか」
フェリクスは、彼女の答えを待っていた。
書類も日程表も出さない手が、夕陽の中で少しだけ握られる。
「……駄目では、ないわ」
答えた自分の声が、思いがけず小さかった。




