第5話 働いた分なら受け取れます
王都へ来て数日。オリヴィアは公庫で、四人への定期送金の停止通知を済ませた。
月末に返す三百九十六枚の受取先も、書面で確かめる。四人とも、相談の期限に彼女が出した結論を受け入れてくれた。
肩の荷が一つ下りた清々しい気分で、オリヴィアは公益研修所の事務室の椅子に座っていた。
「実演通過を条件とする、期限付きの講師契約です。今週からの準備業務には、別に日当をお支払いします」
職員が二つの欄を示した。昨日、受付でもらった条件書と変わりはない。
オリヴィアは給与欄を確かめ、次に指導記録の扱いを探した。一年前、そこを曖昧にしたまま働き続けていた。
「報酬額については異存ありません。確認させていただきたいのは、勤務条件についてです」
オリヴィアは契約書を指でなぞりながら、職員の目を真っ直ぐに見た。
「私が一度に担当する受講生の人数は、最大で何名になりますか? 一人ひとりのつまずきを見るため、多すぎる人数はお引き受けできません。また、実証事業の指導記録には、責任講師として私の名前が正式に残るのでしょうか」
「はい。担当人数は一部屋につき六名までを規定としております。また、指導記録や効果測定の報告書には、考案・実践者としてヴァンザール先生のお名前を明記いたします」
職員の明確な回答に、オリヴィアは深く頷いた。
担当者の答えを余白へ書いてもらい、オリヴィアはもう一度読み直した。
迷いなく羽ペンを手に取り、契約書の署名欄に『オリヴィア・ヴァンザール』とサインを書き入れる。
契約手続きを終え、来週末の審査で使う研修準備室へ向かうと、廊下の壁際で黒い外套の青年が待機していた。
「フェリクス。公務は大丈夫なのですか?」
「部局の打合せが早く終わりました。次の会議まで一時間ほど。手続きは済みましたか?」
「ええ。今度は、誰の記録なのかも書いていただいたわ」
彼は契約書の署名欄へ目を落とし、嬉しそうに頷いた。
「その一時間で、手伝えることはありますか」
「高価な機材は要りません。でも、もしお時間があるなら、少し手伝ってほしいことがあります」
「何なりとお申し付けください」
「手近な紙でいいので、受講生に渡す『確認用の札』を切るのを手伝ってもらえませんか?」
オリヴィアは準備室の机の上に、真っ白な紙の束とペーパーナイフを置いた。
何か大掛かりな支援を期待していたフェリクスは、一瞬だけぽかんとしたが、すぐに「承知しました」と真剣な顔つきで机に向かった。
王国の防衛の要であり、強大な魔力を持つ男が、定規とペーパーナイフを慎重に扱い、紙を手のひらサイズの小札に切り分けていく。その背中はひどく真面目で、少し窮屈そうだった。
オリヴィアは彼の隣に座り、切り分けられた札に一枚ずつ手順を書き込んでいく。
紙を一枚渡すたび、彼の指先がそっと受け取る。さっきまで数字を見ていた目が、いつの間にか彼の手を追っていた。
無言で手を動かすだけの時間が、ちっとも苦痛ではない。
窓から風が入り、一枚の札が浮いた。二人が同時に手を伸ばす。札を押さえた彼の指に触れ、オリヴィアはペンを持ち直した。
「窓を閉めましょうか」
「いいえ。このくらいなら」
彼の手が離れてからも、指先には少し熱が残った。書きかけの文字を確かめるのに、いつもより時間がかかった。
「……随分とたくさん切ってしまいましたね」
三十分後。机の上に積み上げられた小札の山を見て、フェリクスが少し反省したように言った。
「ありがとう。これだけあれば、当分の研修には困りません」
オリヴィアは札を小箱に整理しながら、もう一つの仕事に取り掛かった。研修で使う予定の「標準教材」のテキストの確認だ。
実証研修に参加する成人の受講生たちが、普段どのようなテキストを読んでいるのかを把握しておく必要がある。オリヴィアは分厚い表紙を開き、パラパラとページをめくっていった。
基本の魔力操作、生活魔法の概念、魔石の取り扱い。
一般的な知識が並ぶ中、ある図解のページでオリヴィアの手がピタリと止まった。
「……これは」
「どうかしましたか?」
オリヴィアは図の隅を指した。「神学院で使っていたものと似ているの。こんなに広く配られていたなんて」
それは、魔力の『量』『順序』『停止条件』の三つの関係性を、歯車の噛み合いに例えて視覚的に示したフロー図だった。
文字を読むのが苦手な人間でも直感的に理解できるように工夫されたその図の構成は、オリヴィアにとって見覚えがあるどころの騒ぎではなかった。
(私が十年前、彼らの補習用に手書きで作った図と……そっくりだわ)
当時、神学院から四家合同の家庭教師として派遣されたオリヴィアは、一人ひとりのつまずきに合わせて大量の個別プリントを作成していた。この歯車の図解は、まさにコンラッドのために彼女が夜な夜な書き上げたものだ。
偶然の一致だろうか。だが、線の引き方や矢印の配置までが、記憶にある自分の手癖と酷似している。
しかし、不自然な点があった。
オリヴィアは教材の巻末にある「作成者」や「監修者」の欄を確認したが、そこに彼女の名前はどこにもない。
それだけではない。オリヴィアが当時プリントの端に必ず赤インクで書き添えていた、「器具ごとの個体差に対する、魔力調整の注意書き」という一番重要な安全面の説明が、この標準教材の図からはすっぽりと抜け落ちていたのだ。
神学院の部門報告で名前が消えたことは知っている。その先で、どんな版へ姿を変えたのかは知らなかった。今ここにある冊子には、器具の条件まで残っていない。
「……先生?」
テキストを見つめたまま固まっているオリヴィアを案じ、フェリクスがそっと声をかけてきた。
「以前書いた注意書きが、見当たらなくて。器具票と照らしてみたいの」
フェリクスは開いたままのページを覗き込んだ。
「安全確認の担当者へ、私からも伝えます」
オリヴィアは頷き、抜けていると思う箇所に紙を挟んだ。自分の記憶だけで決めず、まず実物を確かめる。




