第46話 先生ではない名前で
婚礼の朝。王都の小高い丘に建つ、歴史ある白亜の礼拝堂は、澄み切った初冬の空の下で静かな祝福の空気に包まれていた。
礼拝堂の奥にある控え室で、オリヴィアは鏡の前に立ち、小さく息を吐き出した。
彼女が身に纏っているのは、滑らかな絹で仕立てられた純白のウェディングドレスだ。華美な装飾は抑えられているが、熟練の職人による繊細な刺繍が施されており、彼女の落ち着いた雰囲気を最大限に引き立てていた。
「……とても、綺麗よ」
介添えを頼んだ同僚のニナが、オリヴィアの髪に薄紅色の花飾りを添えながら、自分のことのように目を潤ませていた。
「ありがとう、ニナ先生。なんだか、まだ夢を見ているみたい」
オリヴィアが少しだけ照れくさそうに笑った時、控え室の重厚な扉が静かにノックされた。
「入るわよ、オリヴィア」
ダリア監査官が扉を開け、その背後から一人の男性を招き入れた。
公爵としての、そして宮廷魔導長としての最高礼装に身を包んだフェリクスだった。普段の落ち着いた私服姿も良いが、黒を基調とし、銀の意匠が施された軍服風の礼装を纏った彼は、息を呑むほどに精悍で美しかった。
フェリクスは控え室の中央に立つオリヴィアの姿を認めた瞬間、文字通り言葉を失い、その場に釘付けになった。
「フェリクス……? おかしいかしら」
「い、いえ……! あまりにも美しくて、言葉が見つからなかっただけです。本当に……あなたが私の妻になってくれることが、未だに信じられないくらいに」
少しだけ赤面しながら素直な感嘆を漏らす彼を見て、オリヴィアの緊張もふっと和らいだ。
「大袈裟ね。でも、嬉しいわ」
フェリクスは歩み寄り、ひざまずくような優雅な動作でオリヴィアの右手を取った。
「さあ、行きましょう。私たちの、大切な人たちが待っています」
「ええ」
エスコートされながら控え室を出る。
礼拝堂の大きな両開きの扉が、ゆっくりと開かれた。
ステンドグラスから降り注ぐ色とりどりの光の中、参列者たちが一斉に立ち上がり、二人を温かい視線で迎え入れた。
そこにいるのは、何百人もの見知らぬ貴族や権力者ではない。二人がそれぞれの足で歩んできた人生の中で、本当に大切に思い、共に困難を乗り越えてきた人々だけだった。
祭壇へと続く赤い絨毯を、ゆっくりと進む。
最前列では、辺境伯ラウルが妻のエダと共に穏やかな笑顔を向け、コンラッドは軍人らしい姿勢で真っ直ぐに二人を見守り、シリルは感極まったように何度も瞬きをしていた。
少し後ろの席には、ミル村から駆けつけてくれたマルタが、目を細めて頷いている。その後ろには、水門の危機を共に乗り越えたトマや、作業班の面々の姿もあった。
神父の前へと進み出た二人は、静かな堂内で、永遠の愛と互いを尊重し合うことを誓い合った。
神父が、事前に二人で確認した誓約を読み上げた。
「喜びの日も、困難な日も、互いの意思を聞き、同じ家へ帰る者として歩むことを誓いますか」
「誓います」
フェリクスの声に、オリヴィアも声を重ねた。
婚姻の届けには、相談して決めた通り、仕事で使うヴァンザールの名も併記されていた。オリヴィアはその文字を確かめ、隣の彼を見た。
彼が、そっと彼女の手を取る。
「オリヴィア」
先生、と続くことのない呼び声だった。
何度も聞いたはずなのに、今日はまた胸が熱くなる。
「ええ、フェリクス」
彼の指輪を指へ通す。剣を握る手に、小さな輪が収まった。
自分の指輪へ目を落とし、それから彼を見上げると、彼も同じものを見ていた。
二人で笑った。
誓いの口づけが交わされると、堂内は割れんばかりの温かい拍手と歓声に包まれた。
拍手の中で、フェリクスがもう一度、彼女の名を呼んだ。オリヴィアは笑って頷き、繋いだ手を離さずに参列者の方へ向き直った。
長い祝辞や退屈な夜会は用意されていなかった。
式の後は、中庭で参列者たちと語り合い、美味しい食事と酒を楽しむささやかで温かい時間が流れた。
夕暮れ時。すべての行事を終えた二人は、馬車に乗って『新しい家』へと向かった。
到着したのは、別邸の北側にある、小さな住居棟だった。門の向こうの街路からは、研修所にも通いやすい。本館の公務の部屋とは、庭を挟んで離れていた。
玄関を開け、温かなランプの火を灯す。
少し広めの書斎の奥には、オリヴィアが自分の収入で修理したあの愛用の机が、しっかりと居場所を得て置かれていた。
「……帰ってきましたね、私たちの家に」
フェリクスが外套を脱ぎながら、感慨深げに部屋を見渡す。
「ええ。とても静かで、いいお家ね」
オリヴィアは彼に向き直り、その広い胸にそっと額を預けた。フェリクスが愛おしげに彼女の背中を撫でる。
「疲れませんでしたか?」
「少しだけ。でも、とても幸せな疲れよ」
「明日は、何時に起きましょうか」
フェリクスに尋ねられ、オリヴィアは少し考えた。
「決めずに眠ってみたいわ。新課程は休暇の後だし、準備もニナ先生たちと済ませたもの」
「では、私も」
彼が笑い、机の隣へ自分の本を置いた。海獣が大きく口を開けた航海記だった。
「まだ、その本を?」
「結末は知っています。でも、好きなので」
オリヴィアは頷き、彼がくれた栞を、自分の本に挟んだ。
明日も、その次の日も、ここで続きを読める。
灯りを消す前に、オリヴィアはもう一度、隣にある彼の本を見た。




