第44話 月謝では買えない返事
約束した休日。王都の喧騒から少し離れた高台にある、秋の名残の草花が咲く静かな庭園。
オリヴィアとフェリクスは、貸し切りにされたその庭園の小道を、肩を並べてゆっくりと歩いていた。
水門の危機と公開審査という大きな嵐が過ぎ去り、二人の間には、これまでにないほど穏やかで澄み切った空気が流れている。
庭園の奥、王都の街並みと大河を一望できる見晴らしの良いテラスに差し掛かった時。フェリクスは足を止め、オリヴィアの方へと向き直った。
落ち着いた色の私服を着た彼は、襟元を一度直した。オリヴィアと目が合うと、照れたように手を下ろす。
「オリヴィア。先日のお返事が、ずっと嬉しくて。今日は約束通り、私から、改めて申し込みます」
フェリクスは深く息を吸い込み、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「月謝を送る手紙なら書けたのに、会いたいと書くのは難しかった。返事が来なかったら、と考えてしまって」
フェリクスが少し笑った。
「今は、朝起きたら、あなたに会える暮らしが欲しいのです。私も疲れた日は寄りかかって、あなたが話したくない日は、一緒に黙って本を読む。村で過ごした午後を、何度でも続けたい」
フェリクスは一歩踏み出し、オリヴィアの両手をそっと、大切に包み込んだ。
「恩師としてではなく、一人の女性として。あなたを誰よりも深く愛しています。……どうか、私の妻になってくれませんか。これからの生涯、同じ家に帰り、共に生きていく相手として、私を選んでいただきたいのです」
フェリクスの指が、彼女の手を少し強く握った。
その言葉は、秋の風に乗って、オリヴィアの心の最も深い場所まで真っ直ぐに届いた。
オリヴィアは、彼の手の温もりを感じながら、胸の奥から溢れ出しそうになる熱い感情をぐっと堪え、静かに微笑んだ。
「……ありがとう、フェリクス」
そして、彼女もまた、逃げることなく彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「あなたとなら、何も起きなかった日のお話も、毎晩できると思うの」
「私があなたを選ぶのは、あなたが不器用でも誠実に私と向き合ってくれたから。私が失敗しても、隣に並んで歩いてくれたからよ。……ただ、今のあなたと一緒に生きていきたいから。喜んで、お受けします」
その瞬間、フェリクスの端正な顔が、まるで少年のような圧倒的な喜びに綻んだ。
「……っ、オリヴィア!」
彼はオリヴィアを引き寄せ、力強く、だが決して痛くはない絶妙な力加減で抱きしめた。
オリヴィアも背伸びをして彼の広い背中に腕を回し、その温かい胸の鼓動を耳で聞きながら、ふふっと小さく笑い声をこぼした。
「でもね、フェリクス」
「はい……?」
オリヴィアは彼の腕の中に収まったまま、少しだけ悪戯っぽく彼を見上げた。
「月に銀貨二十枚も積んで、しかも追加で百枚も出そうとしなくても……ただ『会いたい』って言ってくれたら、どういう意味か、もっと早く聞けたかもしれないのに。本当に、回りくどい人だったわね」
その指摘に、フェリクスは耳の先まで真っ赤にして、恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。
「お、お恥ずかしい限りです……。あの時は、用件とお金に逃げることしか思いつかなくて。お金より、言葉を用意する方が難しかったのです」
「ふふっ、いいのよ。あの月謝のおかげで、私たちはこうしてまた向き合うことができたんだから」
笑うと、彼の腕にも少し力が戻った。オリヴィアは、その腕をほどくのを少しだけ待った。
抱擁を解いたフェリクスは、上着のポケットから小さなベルベットの箱を取り出した。
「これを、あなたに」
箱が開かれると、そこには一つの指輪が収められていた。
公爵家の財力を誇示するような、ごつごつとした巨大な宝石ではない。オリヴィアが研修所でペンを握り、受講生たちに魔法を教える日常でも邪魔にならないような、控えめだが最高品質の透明な石があしらわれた、上品で繊細なデザインだった。
彼女の仕事と暮らしを誰よりも尊重する、彼らしい贈り物だ。
「美しいわ……。ありがとう、フェリクス」
フェリクスがオリヴィアの左手を取り、薬指にそっと指輪を滑り込ませる。
先日の家の見学の帰り、二人で寸法を確かめていた指輪は、秋の陽射しを弾いてキラキラと輝いていた。
「オリヴィア。愛しています」
「ええ。私もよ、フェリクス」
言葉を交わした後、二人は自然に身を寄せ合い、誓いの口づけを交わした。
唇が離れても、二人はしばらく額を寄せたままでいた。庭園を出るまで、彼は何度も彼女の指輪を見ては笑った。
フェリクスとの婚礼へ向けた準備と、研修所での新しい成人基礎研修の開始へ向けた準備。オリヴィアの日常は、前向きな忙しさに包まれていく。
そして、この喜ばしい知らせは、かつての教え子たち――辺境伯となったラウル、軍務局のコンラッド、王立学院のシリル――のもとにも届けられた。
三人からは、すぐに祝いの返事が届いた。ラウルの便りには、エダと娘の名も並んでいた。




