第39話 謝罪だけでは戻らない名前
ヘルマンが面会を求めた日の午後、オリヴィアは監査の聴取室へ入った。
元上司は立ち上がりかけ、ダリアに促されて座り直した。机の上には、今朝提出したという書類がある。
「ヴァンザール君。……いや、ヴァンザール先生」
その呼び直しに、オリヴィアの足が一瞬止まった。
先生、と呼べるのなら、なぜあの時は名前を残せないと言ったのだろう。
彼女は椅子へ座った。希望して同席してもらったフェリクスが、隣の席につく。
「すまなかった。七年前、君の補習記録から名前を外す改訂に加担した。一年前、君が報告書の名前について抗議した時も、説明しなかった。私の保身だった」
ヘルマンは頭を下げた。
「今ならわかる。君の指導法は、ただの工夫ではなかった。どうか許してくれないか。私の罪が軽くなるよう、君からも口添えを……」
オリヴィアは、机の下で手を握った。
役に立ったなら、それでいいではないか。
あの時の言葉を覚えている。何も言い返せなくなり、持ってきた報告書を鞄へしまったことも。
ヘルマンが、返事を待って顔を上げた。
「私は、名前を残してほしかったのです」
最初の声が、少し掠れた。オリヴィアは言い直さず、そのまま続けた。
「誰が書いたか、あなたは知っていた。私が細かいことを言っているように扱わず、あの時に説明してほしかった」
「それは、本当に……」
「謝罪は伺いました。でも、口添えはいたしません」
ヘルマンの口が止まった。
「あなたの責任を決めるのは、私ではありません。まず公開審査で、あなたが何を知り、何をしたのか話してください。私の名前を、記録へ戻してください」
机の下で握っていた指を、一つずつほどいた。
彼が困っている。それを自分が片付けるために、今日ここへ来たわけではない。
ダリアが書面を彼へ向けた。
「供述の内容を確認しましょう。ご自身の判断で行った箇所と、指示された箇所を分けてください」
ヘルマンはしばらく黙り、それから紙へ手を伸ばした。
オリヴィアは、その手が動くのを見ていた。
廊下へ出ると、窓から夕方の光が差していた。
フェリクスが隣へ来る。オリヴィアは、彼が何か言う前に手を取った。
「怒っていたの。ずっと」
「はい」
「顔を見たら、もっと上手に話せると思っていたわ」
「言いたいことは、言えましたか」
オリヴィアは扉を一度振り返った。
「……ええ。今日は」
それだけ答えると、急に目の奥が熱くなった。フェリクスが手巾を差し出した。彼女は受け取り、目元へ当てる。
慰めの言葉が来るまで待たなくてよかった。もう少しそばにいたくて、彼の袖を掴んだ。
「少し、歩きたいわ」
「私も、誘おうと思っていました」
彼は彼女の鞄を受け取り、歩幅を合わせた。
「調査のことは、今日はここまでにしませんか。あなたと、話したいことがあります」
「どんなこと?」
「これから、帰る場所のことです」
オリヴィアは足を緩めた。フェリクスも立ち止まる。
名前を取り戻すための審査は、まだ先だった。それでも、今、この続きを聞きたかった。
「ええ。聞かせて」
彼が微笑む。オリヴィアは借りた手巾を畳み、彼と一緒に外へ出た。




