第37話 最強の人が眠るまで
水門の危機が去った直後の操作室で、オリヴィアはフェリクスの手に触れた瞬間、言葉を失った。
「フェリクス……あなた、手が」
どんな魔獣を前にしても決して揺るぐことのなかったはずの、王国最強の魔導長の手。その大きく無骨な手が、オリヴィアに包み込まれた状態で、微かに、しかし止めることができないほど小刻みに震えていた。
「……お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
フェリクスは微かに顔をしかめ、その震えを隠すようにオリヴィアの手を優しく握り返した。
「一晩中、防壁の維持に魔力を注ぎ込み続けたせいで、少し魔力切れを起こしているようです。雨に濡れて、身体も冷えてしまいましたから」
オリヴィアは副官を見た。彼が呼んでいた救護係が、フェリクスの体調を確認する。
魔力の消耗と冷えがある。濡れた服を替え、温かいものを飲み、休むようにと言われた。彼は頷いたが、まだ扉の外へ目をやっていた。
何を気にしているかは、聞かなければわからない。
「フェリクス、休養のために用意された客室へ行きましょう」
「ですが、まだ事後処理が……」
「事後処理はコンラッド様や技師長さんがやってくれます。……お願いだから、今は私と一緒に来て」
オリヴィアが懇願するように見上げると、フェリクスは抵抗するのをやめ、静かに頷いた。
水門管理局の奥に用意された客室は、簡素だが暖炉に火が入っており、温かな空気に満ちていた。
濡れた軍服の外套を脱がせ、フェリクスをソファに座らせたオリヴィアは、彼に厚手の毛布を掛けた。
救護係が用意した飲み物を渡し、オリヴィアは隣に腰を下ろした。手を握ると、彼がようやく息をついた。
「フェリクス」
オリヴィアが彼の名前を呼ぶと、ソファの背もたれに深く寄りかかっていたフェリクスが、ゆっくりと首を巡らせて彼女を見た。
「……オリヴィア」
「もう、大丈夫よ。あなたは役目を立派に果たしたわ。避難した地区では、亡くなった方も行方のわからない方もいないそうよ。私も、ここにいる」
オリヴィアがそう告げると、フェリクスの瞳が微かに揺れ、深く息を吐くのとともに、張り詰めていた緊張の糸がふっと解けたのがわかった。
「……怖かった」
その一言は、戦いの指示を出していた時よりもずっと小さかった。オリヴィアは続きを待った。
「あなたの指示を信じてはいましたが……もし、もし私の魔力が先に尽きて、水圧でゲートが吹き飛んでしまったら。あなたが、私の目の前で波に呑まれてしまったらと想像すると……恐ろしくて、気が狂いそうでした」
彼はオリヴィアの肩に、こてんとゆっくり頭を預けた。
村の窓辺で寄せ合った時よりも、ずっと重く感じた。オリヴィアは少し座り直し、力の抜けた彼の身体を支えた。
その背中へ、そっと腕を回した。
「……どうか、私が眠るまで。こうしてそばにいてくれませんか」
「ええ。どこへも行かないわ。……ずっと、そばにいる」
フェリクスは目を閉じ、オリヴィアの肩に顔を埋めたまま、ゆっくりと深く呼吸を繰り返した。
オリヴィアはずり落ちかけた毛布を引き上げ、彼の手を包み直した。
窓の外では雨が上がっていた。朝日が足元へ差し込んでも、しばらく動かずにいた。
やがて、フェリクスの震えは完全に収まり、規則正しい寝息だけが客室に響き始めた。
午後。
オリヴィアは、ソファで深い眠りについたフェリクスの穏やかな寝顔を、隣に座ったままいつまでも見つめていた。
(……少し、痩せたかしら)
彼が眠りから覚めたら、きっとお腹を空かせているだろう。何か温かくて消化の良いものを作ってあげたい。
そんな日常の些細なことを考えながら、オリヴィアの思考は自然と『未来』へと向かっていた。
いずれ結婚し、共に暮らし、同じ家へ帰る未来。フェリクスがいつか尋ねてくれた、「静かで、私の机が置ける家」での暮らし。
今回の水門の危機を共に乗り越えたことで、その未来の輪郭は、より確かなものとして彼女の心に結像していた。
まだ、記録の調査は終わっていない。ダリアへの追加の説明は、休息を取った明日でよいと言われていた。
彼の妻になりたいと思う気持ちと、自分の名前を取り戻したい気持ちは、どちらもあった。一方が片付くまで、もう一方を押し隠す必要はない。
オリヴィアは、眠る彼の前髪をそっと払った。今は休もう。目を閉じると、彼の穏やかな寝息がすぐそばで聞こえた。




