第36話 教わったのは止まる勇気
計測係から届いた数値を、技師長は図面へ書き込んだ。
「起動側の接続部です。損傷した系統は切り離す。点検済みの予備回路へ替えれば、低い出力で段階的に開けられます」
第三操作室の技師が復唱し、作業に入った。
停止を知らせたトマの声が、まだ耳に残っていた。彼が止まってくれたから、今、直す場所がわかった。
オリヴィアは第三操作室の札を、作業中へ替えた。
しばらく、通話器には工具の音だけが聞こえた。
オリヴィアは窓の外を見た。青い光は薄くなったようにも見える。だが、副官の報告は変わらなかった。
「保持中。魔導長は応答できます」
今、名前を呼びたかった。
代わりに、オリヴィアは作業中の札を押さえた。
「予備回路への切替完了。試験値、範囲内です」
第三の技師が数値を読み上げる。本棟の技師長が照合した。
「再起動を許可。まず低い範囲まで。開度は一段ごとに確認する」
ニナを通じて班長へ指示が渡り、トマが起動の担当を復唱した。
技師長からフェリクスへも、新しい切り替え手順が伝わる。
「中央を開いた後、実測の水位に合わせて、防壁の保持範囲を縮めます」
「了解しました」
フェリクスの声は掠れていた。
実行の合図が出た。
今度は、中央ゲートの始動灯が安定した。
トマが手を離し、開度担当へ交代する。班長が目盛りを確認し、一段分だけ開かせた。
重い金属の音が、操作棟の床まで伝わってきた。
「中央、第一段階に到達」
「下流側の水位、想定内」
技師長が計器を追い、次の指示を出す。
ひとつずつ、返答が揃っていった。
補助側へ寄っていた濁流が、主流路へ戻っていく。使っていた遊水池も、受け入れ限界に達する前に流入を減らせた。
フェリクスの光の壁が、ゆっくり範囲を狭めた。
「基部の負荷、低下。監視を続けます」
誰かが声を上げた。すぐに別の担当者が、次の計器の値を読んだ。
喜ぶのは、まだ少し後だ。
しばらく監視を続け、技師長が最後の確認を終えた時、窓の外は明るくなり始めていた。
「補助側の保持、解除できます。魔導長、ありがとうございました」
青白い光が、雨の中でほどけた。
避難所へ、水門の状態が安定したという知らせが届いた。
全員をすぐ帰すわけにはいかない。道路と家屋の確認が続いている。それでも、夜明けまで川を案じていた人たちの顔が、少しずつ上がった。
倉庫から来た作業班が、調理場へ食材を渡していた。保冷箱で傷ませずに運んだ分を、炊き出しの担当者が大鍋で煮る。
ラウルの領地から納まっていた穀物と燻製肉も、その中に入った。
「熱いから、両手で持って」
作業員が器を渡すと、毛布に包まった子供が母親を見上げた。
湯気の向こうで、二人が笑った。
本操作棟では、コンラッドから報告が入っていた。避難対象地区で、死亡者と行方不明者は確認されていない。建物の被害と、避難中のけがの確認は続いているという。
オリヴィアは椅子へ腰を下ろした。
足に力が入っていたことに、初めて気づく。
「ヴァンザール先生」
技師長が来て、頭を下げた。
「操作を止める報告が、届く形になりました。助かりました」
「技師長さんが、止めた人を責めずに受け取ってくださったからです」
彼は頷いた。
「今日のことは、点検と訓練の両方に残します」
扉が開いた。
フェリクスが、副官とともに入ってきた。濡れた軍服が重そうだった。オリヴィアを見つけると、彼は真っ直ぐ近づき、そこで足を止めた。
「……終わりましたね」
「ええ。お疲れ様、フェリクス」
オリヴィアは彼の手を取った。
冷たかった。
そしてその手は、包んでもすぐには止まらないほど、震えていた。




