第32話 先に逃げ道を作る
午後、市の防災責任者から避難指示が出た。
対象は大河の下流、第三・第四居住区。川沿いの道がまだ通れるうちに、住民を高台へ移す。
コンラッドは応援輸送の指示書を受け取り、地図へ三本の線を引いた。
「荷車は東側の道へ。西の階段は徒歩の避難者を優先します。足の悪い方の迎えは、町内の名簿と照合を」
伝令が地図の写しを抱えて出ていく。
「食料は足りますか」
オリヴィアが尋ねると、彼は別の票を示した。
「ダーラム領から、今季の備蓄が納品されています。市の備蓄担当が払い出しを承認しました。私たちは、受取数量を確かめて運びます」
ラウルが食卓で話していた、冬の備えだった。
受取票には、荷車の台数が次々と書き込まれていった。ラウルの名がある穀物の袋も、今夜、高台へ届く。
「毛布は家族ごとの受取数を残してください。足りない場所へ回します」
コンラッドの声に、担当者が頷いた。
倉庫では、先日教えた作業班が保冷箱を並べていた。
「先生! 新しい連中にも、これを見せています」
班長が、壁の確認札を示した。器具の番号と停止の印。庫内温度の確認。作業交代の時にも同じ箇所を確かめられるよう、油に強い紙へ写してある。
ニナが隣で数量を記していた。
「調理場へ送る箱と、ここに残す箱を分けています。食材が混じらないように、札の形も変えました」
オリヴィアは頷いた。ここで自分が改めて全部を教え直す必要はない。
「次の班に、引き継げますか」
「ええ。班長さんと確かめました」
外では雨脚が強くなっていた。
子供を抱いた女が、荷を積む車を避けて立ち止まる。作業員がすぐに通路を空け、高台へ向かう人の列を通した。
箱を運ぶだけでなく、人を先に通す。その一つ一つが、避難を進めていた。
夕方、管理局から要請が届いた。
避難者がいる地区を迂回して、常設の連絡路から本操作棟へ入れる。そこで、操作員への伝達整理を手伝ってほしいという。
オリヴィアとニナは法人の責任者に行先を届けた。倉庫の引継ぎを済ませ、技師長が指定した作業だけを引き受ける。
「ニナ先生、一緒にお願いできますか」
「はい。私も、用語の確認表を持っていきます」
本操作棟の入口で、フェリクスと顔を合わせた。濡れた外套の肩に、雨粒が残っていた。
「ここから先は、係員の案内で。屋外の通路は使わないでください」
「わかったわ。あなたは?」
「防壁側へ。部下と持ち場を確認します」
彼は手袋をはめかけ、ふと止めた。
オリヴィアの手を取る。いつもより短く、確かめるような握り方だった。
「終わったら、一緒に休みましょう」
「ええ。今度は、本の続きをあなたが話してね」
フェリクスが小さく笑った。けれど、手はすぐには離れなかった。
「どうしたの?」
「……もう少し、握っていたくなりました」
オリヴィアは握り返した。彼の指に力が戻る。
「続きは、帰ってからね」
「はい」
彼が手を離し、手袋をはめた。オリヴィアは案内の係員に頷いてから、操作室へ向かった。
夜、避難地区の確認が続く中、補助水門の警報が鳴った。
運転を止めていた駆動部に、増水の力がかかっている。主系統では水を流し続けているが、観測値は予測を超え始めていた。
「補助ゲートの保持機構に異常!」
技師長が計器へ向く。
オリヴィアは作りかけの確認表を押さえた。紙の端が、自分の指と一緒に震えていた。




