第3話 三人の恩返しと一人の用事
王都の公益研修所で行われた成人教育事業の年次説明会は、大盛況のうちに幕を閉じた。
候補者の紹介で自分の名前を呼ばれ、オリヴィアも立ち上がった。拍手の中には昨日の補助係の姿もある。彼が小さく会釈してくれたので、オリヴィアも笑って返した。
「先生! お会いできて嬉しいです!」
人混みを掻き分けて真っ直ぐにこちらへ向かってきたのは、立派な体躯を豪奢な礼服に包んだ青年だった。
北方領地を治める辺境伯、ラウル・ダーラム。十年前、母親を亡くして荒れていた彼に、食事と睡眠の重要性から教え直したかつての教え子だ。
「ラウル様。遠方からのご出席、お疲れ様です」
「様だなんて、昔のようにラウルと呼んでくださいよ。今日は妻のエダも連れてきたかったのですが、娘が少し風邪気味でしてね。タウンハウスで留守番をしているんです」
二十六歳になり、一国を支える大貴族となった彼は、大らかな笑顔で家族の近況を語り始めた。娘が最近ようやく言葉を覚え始めたこと、妻がオリヴィアに会いたがっていること。
「先生が王都に滞在している間に、ぜひ我が家の食卓へいらしてください。エダも、私が昔どんなふうに先生に叱られていたか聞きたがっていましてね」
「ふふ、あまり過去の恥ずかしいお話はしない方がよろしいのでは?」
オリヴィアがくすりと笑うと、ラウルは照れくさそうに頭を掻いた。
ラウルは手帳を開いた。会議の予定より先に、娘の薬を受け取る時刻が書いてある。オリヴィアの視線に気づくと、彼は照れたように手帳を閉じた。
「おいラウル。公の場で大声を出して先生を困らせるな。貴殿の領兵の訓練ではないのだぞ」
ラウルの背後から、静かだがよく響く声がかけられた。
軍務局の制服を一切の皺もなく着こなし、几帳面な足取りで現れたのはコンラッド・エイベルだった。
「コンラッド様。お久しぶりです」
「お久しぶりです、先生」
コンラッドは軍人らしく、踵を揃えて美しい敬礼を見せた。かつて文字列の指示を追うのが苦手だった彼は、オリヴィアが図解を用いた授業を行ったことで才能を開花させ、今では軍の兵站課長という要職に就いている。
「先生の昨日の見事な実演、噂で耳にしております。実は我が軍務局でも、兵站に関する新たな基礎研修を検討しておりまして、ぜひ先生のお力をお借りしたい」
「私でよろしければ、お話は伺いますが……」
「法人を通して、正式にご相談します。まず、部下がどこで困っているかをまとめて参ります」
コンラッドはその場で手帳へ書き留めた。十年前、文字だけの課題の前で黙り込んでいた彼が、今は部下のために相談を持ちかけてくれる。
「ああっ、二人ともずるい! 僕が一番に先生に話しかけようと思っていたのに!」
最後に小走りで現れたのは、王立学院の研究者特有の重いローブを翻したシリル・ノルデンだった。
二十五歳になった彼は、教育法研究室の主任を務める若き俊英だ。かつて、一度の失敗で答えを黙り込んでしまう癖があった彼は、オリヴィアから「間違いの過程も記録してよい」と教わったことで、研究者としての道を切り拓いた。
「先生! 昨日の訓練灯の点灯プロセス、素晴らしいアプローチだと聞きました! テキストの言語表現と認知の不一致を、三段階の視覚的な札で分割して解決するなんて! ぜひ、先生の思考過程を研究資料として閲覧・記録させていただけませんか!」
早口で捲し立てるシリルの瞳は、純粋な学問への探求心と、恩師への学術的な連帯感でキラキラと輝いていた。
その温かさに胸を熱くしながら、オリヴィアは居住まいを正した。
「ラウル様、コンラッド様、シリル様。皆さんが立派に活躍されている姿を見られて、本当に嬉しいです。……そして、この一年間、皆さんから毎月送っていただいたお金のことですが」
オリヴィアが切り出すと、三人は少しだけ姿勢を正した。
「詳しいお礼と、今後の清算……返金のご相談をさせていただきたいのです。近いうちに、市公庫の面談室でそれぞれお時間をいただけないでしょうか」
「……そうですか。先生がそうおっしゃるなら、従います。ですが、私たちは本当に先生のお役に立ちたくて……」
ラウルが少し残念そうに眉を下げる。コンラッドとシリルも、無言で頷きつつも寂しそうな顔をした。
「お気持ちだけで十分です。私は……もう一度、自分の名前で、静かな教室を持ちたいんです。皆さんが私を助けてくれようとしたように、今度は私が、自分の足で立ちたいのです」
オリヴィアが真っ直ぐな瞳で告げたささやかな希望に、三人の元教え子たちは顔を見合わせた。そして、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「ええ。先生の新しい教室、応援しています」
三人はそれぞれの言葉で激励を残し、自身の仕事へと戻っていった。
彼らの背中を見送り、オリヴィアが小さく息を吐いたときだった。
ずっと少し離れた柱の陰で待機していた黒い外套の青年が、音もなく近づいてきた。
「お疲れ様です、先生」
「フェリクス。ずっとあそこで見ていたの?」
フェリクスは三人が去った方を見て、それから彼女へ向き直った。
「皆、話し足りなそうでしたね」
「あなたも?」
オリヴィアが尋ねると、彼は一度だけ頷いた。
「フェリクスには、何か私に用件があったの?」
オリヴィアが尋ねると、彼は少しだけ視線を彷徨わせ、それから観念したように微かに微笑んだ。
「いいえ。私には、彼らのような立派な用事はありません」
彼はオリヴィアの目を真っ直ぐに見つめ直した。
「私はこの後、公務がありません。用事の終わった後の夕方、少しだけ一緒に過ごせませんか」
「用事がないのに、一緒に?」
「はい。ただ、先生の隣を歩きたいんです」
その言葉に、オリヴィアの胸の奥で小さな音が跳ねた。どうして彼だけが、こんな風に恩返しでは説明のつかない目で見つめてくるのだろうか。
「……ええ、いいわよ。私も今日はもう予定はないから」
オリヴィアが了承すると、フェリクスの顔にパッと安堵と喜びの花が咲いた。
「では、少し落ち着いた裏通りを歩きましょうか。先生のお好きな焼き菓子の店も近くにあります」
機嫌よく歩き出そうとするフェリクスの背中を見ながら、オリヴィアは「その前に、明日の予定を確認しておかないと」と呟き、鞄の中から書類の束を取り出した。
それは、市公庫で三人と面談するための書類。そして、一番上に束ねられていたのは、フェリクスに今月の追加分百枚と、定期分を返却するための『預かり金返還同意書』だった。
オリヴィアがその書類を取り出した瞬間。
振り返ろうとしたフェリクスの視線がその紙の束を捉え――楽しげだった彼の笑顔が、一瞬だけ、凍りついたようにスッと消えた。




