第2話 王国最強にも教えられないこと
王都に着いた日の午後、オリヴィアは公益研修所の実習室を訪ねた。
今日は事前見学だ。正式な実演審査は来週末。それまでに課題と勤務条件を確かめることになっている。
扉の向こうから、金属を叩く音がした。
「……頼むから、点いてくれ」
作業台で、若い男が訓練灯を睨んでいた。補助係の採用に向けた練習だという。灯りは一瞬だけ明滅し、すぐ消える。
「魔力がないわけではありません」
安全器具の確認に来ていたフェリクスが、男の許しを得て同じ灯りへ手をかざした。柔らかな光がつく。
「こうして少しずつ流して、蓄力の印が緑になったら止めるのです」
男は彼の指先と自分の手を見比べた。
「その、少しずつが……」
「君の出力に合わせて、もう一度」
フェリクスが灯りを消して台へ戻す。男が試す。光は、また途切れた。
見事な手本でも、見えない魔力の動かし方までは伝わらないらしい。
「次へ進めたまえ。全員を待たせている」
声に振り向いて、オリヴィアは足を止めた。
神学院時代の上司、ヘルマン・ライスが、見学者の名簿を手に立っていた。
「久しぶりだね、ヴァンザール君。君もこの事業に応募したのか」
「はい。今日は、準備の様子を見せていただきに」
「村の個人教授とは違う。一人に時間を使いすぎれば、残りを教える時間がなくなる。その点は承知しておきたまえ」
彼の視線は、逃げるように台を離れた男へ向いていた。
オリヴィアも男を見る。器具から離れたのに、右手だけがまだ固く握られている。
「先生」
フェリクスが小さく呼んだ。
「今の説明では、届きませんでした。何が足りないのでしょう」
かつては何度もそう尋ねられた。今は、自分のためではなく、目の前の人に教えるために聞いている。
オリヴィアは担当講師へ声をかけた。
「列の外の机を、お借りできますか。ご本人がよければ、少し話を伺いたいのです」
男は最初、失敗の言い訳をするように早口で話した。
「手順は覚えました。何度も読んで。それでも、適性がないのなら……」
「どこから点かなくなるか、一緒に確かめてもいいですか」
オリヴィアが椅子を引くと、男はためらいながら腰を下ろした。
訓練灯には過剰な魔力を切る遮断器がついている。担当の技師に低出力の設定を確かめてもらってから、手順を一つずつ聞いた。
「『魔力を流し、直ちに停止条件を念頭に置く』でしょう。だから、流して、すぐ止まれと思って……」
「止める時は、何を見ていますか」
男の指が、冊子の『直ちに』という文字で止まった。
灯りを見ていない。止める時機を決める前に、止めようとしていたのだ。
オリヴィアは、白紙を三つに折った。
『少しずつ流す』『蓄力の印を見る』『緑の範囲に入ったら流すのをやめる』
点灯するための蓄力と、その後の照明は別の仕組みだ。魔力を送るのをやめても、蓄えた分でしばらく光る。緑の印を確かめることを、最初に器具の前で説明した。
「まず、この順序でどうでしょう。止める印は、この灯りではここです」
男は紙と器具を交互に見た。
「止まれ、と先に考えなくていいんですか」
「止める場所を決めてから、始めます。終わりの用意をすることと、今やめることは違いますから」
最初の一回は、やはり早かった。
男が顔を曇らせる前に、オリヴィアは紙を指した。
「今は、どこまでできましたか」
「流して……印を見る前に、止めました」
「では、次は印も見てみましょう」
二回目。小さな印が緑へ入り、男の手が離れる。
灯りは消えなかった。
男は両手を膝へ下ろし、それでも光る灯りを、しばらく黙って見つめていた。
「……俺が点けたんですね」
「ええ」
喜びの声は小さかった。その分、オリヴィアの胸に残った。
「皆さんのところで、もう一度試しますか。今日はここで終えても構いません」
男はしばらく考え、折った紙を取った。
「これ、持っていってもいいですか」
「もちろん」
作業台へ戻ると、次の人の練習はもう終わっていた。担当講師に声をかけ、男はもう一度灯りを点けた。
今度は少し時間がかかったが、紙と印を順に確かめて、自分で止めた。
「何を変えたのかね」
ヘルマンが尋ねる。男は折り紙を広げた。
「俺、止める準備をしろってところで、もう止めてたんです。こちらの先生が、一緒に順番を確かめてくれました」
担当講師が練習記録へ書き込む。
「教えてくださった方のお名前も、記してよろしいですか」
オリヴィアは、その欄を見た。
「オリヴィア・ヴァンザールです」
ヘルマンは何か言いかけて、やめた。
一年前、彼女の名前は部門報告から消えた。今、たった一枚の練習記録に、その名前が書かれている。
合否はまだ先だ。それでも、来てよかったと思えた。
廊下へ出ると、フェリクスが三つ折りの紙の写しを見ていた。
「持ち帰っても?」
「あなたには簡単すぎるでしょう」
「私が教える時に使いたいのです。できない理由を、聞く前に実演してしまいました」
オリヴィアは彼を見る。彼もまた、今日ここで覚えたことを持って帰ろうとしていた。
「では、どうぞ。どなたかに合わなければ、変えてくださいね」
「はい」
その返事が昔と同じで、少し笑ってしまった。
彼は翌日の事業説明会の名簿を渡してきた。そこには、手紙で見慣れた名前が三つ並んでいた。
辺境伯ラウル・ダーラム。軍務局兵站課長コンラッド・エイベル。王立学院教育法研究室主任シリル・ノルデン。
「三人とも、明日ここに?」
「はい。年次の説明会なので、それぞれの担当で。先生もいらっしゃると知ったら、喜ぶでしょう」
オリヴィアは鞄の中の帳簿を思った。
ちょうどいい。顔を見て話したいことは、四人全員にある。




