第1話 最強の教え子と今月の月謝
「……月謝が、私の生活費を追い越しているわ」
オリヴィア・ヴァンザールは、市公庫から届いた入金通知を裏返した。裏を見ても、銀貨百二十枚という数字は変わらない。
月に二十枚あれば暮らせるミル村で、これは半年分だ。
送り主は元教え子のフェリクス・ロッシュ。六週間前、北境の防衛戦と公認の実戦試験の実績によって、王国最強と認められた宮廷魔導長だった。
そんな人に、もう教える魔法などない。家庭教師の契約も、十年前に報酬を受け取って終わっている。
なのに、退職した一年前から送金が始まり、半年前には月十枚が二十枚になった。今月は、さらに百枚。
添えられた手紙には、机の修繕と冬支度に充ててほしい、とある。
オリヴィアは机の引き出しを引いた。途中で少し引っ掛かる。押し戻してから右側を持ち上げると、いつものように開いた。
「直したいとは書いたけれど、百枚とは書いていません」
専用の帳簿に入金額を写す。四人分の合計は四百九十六枚。全額、公庫の送金者別口座に預かったままで、一枚も使っていない。
帳簿を閉じた、その時だった。
「危ない!」
窓の外で誰かが叫んだ。
広場の荷馬車が傾き、積まれた木箱が崩れ落ちていた。すぐ下に、配達の荷を受け取りに来た子供がいる。
オリヴィアが窓を開けるより早く、木箱が空中で止まった。
一つ、二つ。箱は子供の頭をよけて地面へ降りる。最後に、箱からこぼれた林檎がひとつ、行商人の掌へ戻った。
「お怪我はありませんか」
黒い外套の青年が、子供と目の高さを合わせていた。
日に焼けた淡い色の髪。記憶より広くなった肩。驚いて泣き出した子供に、自分の手巾を差し出す仕草。
三年会わないうちに、こんなふうに笑う人になっていた。
「フェリクス?」
青年が顔を上げた。
一瞬、息を止めたように見えた。それから彼は、窓の中の彼女を見つめたまま、嬉しそうに笑った。
「先生。お久しぶりです」
オリヴィアは、机の上の入金通知を振った。
「ちょうど、あなたにお話があったところです」
王国最強の笑顔が、少しだけ引きつった。
居間の椅子は、二十七歳になった彼にはいささか小さかった。
オリヴィアが紅茶を置く間も、彼は背筋を伸ばし、膝の上に両手を揃えている。その姿には、まだ十六歳で初めて補習に来た頃の面影があった。
「北境から、お戻りだったのね」
「昨日、王都へ。今日は休みをいただいたので、その……こちらへ」
「わざわざ半日かけて?」
「顔を見たかったのです。お手紙だけでは、わからないこともありますから」
思いがけず真っ直ぐな言葉に、紅茶を注ぐ手がわずかに遅れた。
三十一歳のオリヴィアは、この一年、写本の校正と村の読み書き教室で暮らしてきた。忙しくはある。寂しいと書いたこともない。
それでも、会いに来てくれたのは嬉しかった。
「私は元気よ。ご覧の通り、ちゃんとお菓子も買っています」
焼き菓子の皿を寄せると、フェリクスはようやく肩を緩めた。
「それでは、百枚の件は……」
「別のお話です」
彼の肩が戻った。オリヴィアは笑いをこらえる。
「お気持ちは嬉しいの。でも、使う予定のないお金を、いつまでもお預かりはできません。王都で、きちんと相談しましょう」
四人からの月謝については、最初の半年が過ぎた時、一度相談していた。教室を広げる費用にという提案があり、オリヴィア自身も迷ったため、もう半年だけ預かることにしたのだ。返したければいつでも返せる。その期限が今月だった。
結局、彼女が欲しかったのは大きな教室を買うお金ではなかった。
オリヴィアは、入金通知の下からもう一通の手紙を取り出した。
「ここから招かれたの。成人技能研修の実証講師ですって」
王都の公益教育法人。王妃の助成を受け、成人向けの新しい研修を試す事業だった。
神学院を辞めた時、もう組織の中で教えるのはごめんだと思った。自分の授業記録をまとめた報告書から名前が外され、抗議しても、補習程度の工夫に個人名は要らないと言われた。
それでも招請状の課題を読むと、余白に授業の案を書きたくなる。
「先生なら、きっと関心を持たれると思いました」
フェリクスは鞄から事業資料を出した。
「私の部局も、訓練器具の安全確認に協力しています。講師の候補を尋ねられたので、お名前を挙げました。採用は、法人の実演審査で決まります」
「推薦してくださったのね」
「勝手に名を挙げたことは、お詫びします。見学だけでも、もちろん断られても」
「資料を見せて」
オリヴィアの声に、彼はすぐ書類を差し出した。
成人の補助係が魔法器具の操作を覚えられず、仕事の配置から外れている。読み上げられる手順を暗唱できても、いざ器具の前では動けない。
覚えることと、使えること。その間に、何があるのだろう。
気づくと、オリヴィアはペンを取っていた。
「……自分の名前で、教壇に立ちたいわ」
フェリクスはしばらく彼女を見てから、静かに頷いた。
「はい。その授業を、私も見たいです」
返金の話には怯えた顔をしたくせに、今は迷いのない顔だった。
「明日の乗り合い馬車で王都へ行きます。まず、授業の見学と採用条件の確認。それから、公庫へ」
「では、帰りの予定を合わせます。隣の席をご一緒しても?」
「ええ。ただし、座席を一台分買い占めないこと」
「二人分だけにします」
返事があまりに生真面目で、オリヴィアは吹き出した。
彼も笑った。手紙でよく知っているつもりだった人の、知らない笑顔だった。
出発の支度に立つ前に、帳簿の最後へ一行だけ書き足す。
『追加分について、本人と相談。明日、王都へ』
十年前に終わった授業の続きではない。今度は、彼女自身が欲しい仕事を見に行く。




