第27話 何もしない午後の練習
村での休暇の三日目、家具職人が修理を終えた机の引き出しを押した。
音もなく、奥まで滑る。
「もう、右を持ち上げなくていいですよ」
オリヴィアは自分でも開け閉めしてみた。いつもの引っ掛かりがなく、思ったより手が先へ動く。
「まあ……こんなに軽かったのね」
フェリクスの紹介状を見せて頼んだのは、王都の工房から近隣へ出張していた職人だった。引き出しの桟を直し、天板の深い傷だけを整え、蜜蝋を塗ってもらった。角の小さな焦げ跡は残っている。
オリヴィアは研修所の給与から修理代を支払い、領収書を手帳へ挟んだ。
「紹介してくれてありがとう、フェリクス」
「今度は、開くたびに私の失敗を思い出さずに済みますね」
「焦げ跡は残したから、それは難しいわ」
彼はその跡へ指を触れ、困ったように笑った。
職人たちが帰り、昼食を済ませた後の午後。
新しくなった机の横にある小さな丸テーブルに、紅茶とお茶菓子を用意して、二人は並んで椅子に腰掛けていた。
教えるべき受講生もいない。急いで片付けなければならない事務仕事も、実証試験の準備もない。完全な休日だった。
だが、紅茶を一口飲んだ後、オリヴィアはふと手持ち無沙汰になり、視線を泳がせた。
神学院で教えていた十年間も、この村で暮らしていた一年間も。彼女は常に「誰かの役に立たなければ、ここにいてはいけない」という強迫観念を抱えて生きてきた。抗議しても受け取ってもらえなかった頃、授業さえ続けられればよいと思おうとしていた。
フェリクスと恋人同士になった今でも、ふとした瞬間にその古い癖が顔を出す。
「……なんだか、落ち着かないわね」
オリヴィアは空になったティーカップの縁を指でなぞりながら、ポツリとこぼした。
「どうかしましたか?」
「今の私……あなたに魔法を教えているわけでもないし、軍務の手伝いができるわけでもない。何の役にも立っていないわ」
そう口にした瞬間、少しだけ怖くなった。役に立たない自分は、彼にとって退屈な存在になってしまうのではないかという不安。
しかし、フェリクスは嫌な顔一つせず、ただ優しく目を細めた。
「私は今、とても楽しいのですが。退屈に見えましたか?」
彼はオリヴィアの手からティーカップをそっと取り上げ、テーブルの上に置いた。
「では、今日は『何もしない練習』をしましょう」
「何もしない練習?」
「はい。今日は、お互いに無理に話を探さないことにしませんか。読みたい本があれば読んで、眠くなれば眠る。そういう午後も、過ごしてみたいのです」
フェリクスは少し悪戯っぽく笑い、自分の椅子をオリヴィアの椅子のすぐ隣へと引き寄せた。
肩と肩が触れそうな距離。
フェリクスは鞄から本を出し、読み始めた。オリヴィアも一冊を手に取る。最初は茶が減っていないかと気にしていたが、頁をめくる音につられて、自分の本へ目を戻した。
風が窓辺の葉を揺らしている。
いつの間にか、同じ段落を三度読んでいた。眠いのだと気づいたところで、フェリクスが声を落とした。
「目を閉じても大丈夫ですよ」
「せっかく会いに来てくれたのに」
「私も、少し眠くなりました」
彼が先に本を閉じた。オリヴィアは笑って、その肩へ頭を預ける。彼も少しだけ、彼女の方へ傾いた。
茶のおかわりは、後でよかった。
沈黙が長く続いた後、フェリクスがふと、独り言のように口を開いた。
「王都での実証事業が落ち着いたら……オリヴィアは、どんな家に住みたいですか?」
オリヴィアは少しだけ考えてから、横にある修繕されたばかりの机を見た。
「そうね……。あまり広すぎなくていいの。ただ、静かで、この机が置ける部屋がある場所がいいわ。休みの日に、ゆっくり本が読めるような」
「静かで、あなたの机が置ける家。……良いですね。日当たりの良い部屋を見つけましょう」
フェリクスは真剣な顔で頷き、それから少しだけ身を寄せて、彼女の肩に自分の肩を預けてきた。
「あなたの机は、その部屋でも窓辺ですね」
「あなたの椅子も、隣に置いていい?」
彼が頷いた。オリヴィアは目を閉じた。窓辺の葉が揺れる音を聞きながら、次に何をするかは考えずにいた。
やがて夕暮れ時になり、村での穏やかな休日が終わろうとしていた。
王都へ戻る馬車の手配を進めるフェリクスを横目に、オリヴィアは鞄の中に荷物を詰めていた。
最後に手に取ったのは、古い引き出しから見つけ出した、あの『赤い糸で綴じた補習ノート』だ。
留守の間に王都から短い返報が来ていた。水門管理局は同じ冊子の使用を確認し、現行の点検票と照合を始めたという。続報の連絡先を研修所へ戻しておく。
ノートの原本は、ダリアが用意する閲覧日に持参する。王都でまた仕事が待っている。その前に、今日は二人で夕飯を食べて帰ろう。
ノートを鞄へ収めると、フェリクスが夕飯の店を尋ねてきた。オリヴィアは、彼と入ってみたかった店の名を答えた。




