第26話 古いノートと今の仕事
翌朝、オリヴィアは赤い糸のノートを机に開いていた。
昨日見つけた原稿番号は、先にマルタから送ってもらった発送控えと一致した。番号だけはすでにダリアへ知らせてある。これで、原本を重ねて確かめられる。
「これは、私の字ですね」
隣からフェリクスが指す。端の余白に、少し乱れた字で質問が書き込まれていた。
『強く流した方が早いのに、なぜ止めるのですか』
「ずいぶん、同じことを聞きました」
「ええ。納得するまで、何度もね」
次の頁には、壊れた練習箱の絵がある。その下に、小さな文字で『器具の限界と、使う人の限界は違う』と書いてあった。
フェリクスが頁を押さえた。
「自分にできる分だけ流せばいい、と考えていた頃です」
「私も最初は、少なくしてとしか言えなかったわ」
記録には、うまくいかなかった授業も残っていた。消して書き直した線。ほかの講師へ質問した内容。初めからよい説明ができたわけではない。
それでも、次の日のために残していた。
昼前、二人は村の水路管理小屋へ向かった。
王都の訓練器具については、安全確認と教材の訂正が進んでいる。けれど、共通の基礎図解がどこまで転用されているかは、調査中だった。村の作業員が持っているという新しい冊子も、確認させてもらいたかった。
「例の基礎魔法の手引きかい。これだよ」
顔馴染みの作業員が棚から出したのは、ポンプの整備書とは別の薄い冊子だった。
オリヴィアは二冊を並べた。
機械ごとの操作と点検を定める整備書には、調整済みの値を確認するよう書いてある。一方、基礎の冊子には、一定の量を流す図だけが載っていた。
「これを、同じ手順として読んでしまう方はいませんか」
「入ったばかりの者は迷うね。だから、ここでは技師の点検票を先に見せてる」
作業員は壁に貼った確認表を示した。きちんと日付が更新されている。
オリヴィアはほっと息をついた。
「ほかでも、同じようにできていればいいのだけれど」
フェリクスが冊子の発行番号を控えた。
「王都の管理局へ、同じ版を使っているか照会しましょう。停止や点検の要否は、現場の技師に判断してもらいます」
「お願い。私のノートでは、設備の安全まではわからないもの」
「先生が気づいたのは、説明が抜けていることです。それを調べてもらう理由には、十分でしょう」
彼は管理小屋の連絡所を借り、王都へ照会を出した。作業員も、自分たちが迷いやすかった箇所を添えた。
二人きりの散歩には、少し仕事が混じった。それでもオリヴィアは、帰り道で自然に彼の腕を取った。
「休みなのに、ありがとう」
「帰ったら、続きを聞かせてください。昨日の本の、逃げた花婿はどうなったのですか」
「捕まるのよ。別の結婚式で」
「……学んでおきます」
真顔の返事に、また笑ってしまった。
家へ戻ると、マルタが工房宛ての便りを届けてくれていた。机の修理は、村へ来ている職人が明日見てくれるという。
「そのノート、見つかったんだね」
「ええ。糸を見て思い出しました。昔、王都のお店で綴じてくださったの、マルタさんだったわ」
「この工房印なら、そうだね。元の工房を畳む前の仕事だ」
マルタは背を開き、綴じ糸のかかり方を確かめた。
「ただ、糸だけで何年前のものかはわからないよ。年月は、提出した先の受領記録を見なくちゃ」
オリヴィアは頷いた。
授業が終わった十年前の春に控えを神学院へ提出し、その後、教材は七年前に評議会の名で採択された。どこで何が消されたかは、その間の記録で追う必要がある。
マルタが、一枚だけ細い紙の折り返しを指した。
「この図、描き直した紙を貼り込んであるね」
「最初に止める条件を書き忘れて。後から、足したんです」
その折り返しを開くと、赤い注意書きが現れた。
自分が一度省いて、教え子の失敗を見て足したもの。その条件が、現在の冊子にはない。
オリヴィアは折り返しを元に戻し、ノートを包んだ。
「名前も、この注意も。どう扱われたのか、確かめてきます」
マルタは頷き、包みの紐が緩くないか確かめてくれた。




