第25話 恋人を村へ連れて帰る
翌週に取った休暇の朝。王都から片道半日の距離にあるミル村へ続く街道を、一台の馬車が進んでいた。
車体に貴族の紋章は刻まれておらず、内装も上質ながらひどく落ち着いた作りの、目立たない馬車だった。
それは、村の人々を大仰な名家の行列で驚かせないようにという、フェリクスなりの細やかな配慮だった。
「……なんだか、とても緊張してきました」
並んで座る馬車の揺れの中、フェリクスが小さく息を吐いて呟いた。
「北境で魔獣の群れと対峙した時より、ですか?」
オリヴィアが少し意地悪く微笑むと、彼は苦笑して頷いた。
「ええ。何しろ、あなたの暮らしている大切な場所へ、初めて『恋人』としてお邪魔するのですから。村の方々にどう思われるか、粗相がないかと気が気ではありません」
王国最強の宮廷魔導長が、恋人の実家に挨拶へ行く青年のように顔を強張らせている。その不器用さが愛おしくて、オリヴィアは自然と彼の手を取り、その大きな手のひらに自分の指を絡ませた。
「大丈夫よ。ミル村はとてものんびりした場所だし、私の大事な人だと紹介すれば、皆温かく迎えてくれるわ」
「……はい」
繋いだ手から伝わる温もりに、フェリクスは少しだけ肩の力を抜き、嬉しそうに目を細めた。
交際を始めてから初めての遠出。お互いの想いを確認し合い、ただの男女として隣に座っている。その初々しくも甘い空気が、馬車の中に満ちていた。
昼前にミル村へ到着すると、二人は馬車を村の入り口に停めさせ、歩いてオリヴィアの自宅へ向かった。
「おや、オリヴィアじゃないか。王都から戻ったのかい?」
自宅のすぐ近くで声をかけてきたのは、隣人で元製本職人のマルタだった。六十四歳になる彼女は、オリヴィアが毎月の入金通知を帳簿と照合していたのを知っていた、数少ない現実的な友人だ。
「マルタさん、ただいま戻りました」
オリヴィアは挨拶を交わすと、隣で居住まいを正している長身の青年を振り返った。
「こちらは、フェリクス。……私の、恋人です」
はっきりとそう紹介した瞬間、フェリクスは耳の先まで赤くして、マルタに向かって深く、そして完璧な礼儀作法で一礼した。
「以前は広場でご挨拶しただけでした。フェリクス・ロッシュと申します。今日は、オリヴィアに連れてきてもらいました」
マルタは目を丸くして、仕立ての良い私服を着たフェリクスと、どこか誇らしげなオリヴィアの顔を交互に見比べた。
「へえ……。あんた、ずっとあの月謝帳を悩ましそうに睨んでいたのにね。でもまあ、あんたが自分で選んで連れてきた人なら、間違いないんだろうよ」
「……素晴らしい方ですね」
「ええ、とても頼りになるご近所さんよ」
マルタは「茶葉が切れていたら持っておいで」と手を振った。二人は笑って礼を言い、自宅の扉を開けた。
久しぶりに戻った我が家は、少しだけ空気が淀んでいたが、窓を開け放つとすぐに秋の澄んだ風が通り抜けた。
オリヴィアが荷物を置いていると、フェリクスが部屋の隅にある古い木製の机に目を留めた。
引き出しは、相変わらず途中で引っ掛かった。オリヴィアが右端を持ち上げると、フェリクスは思い出したように頷いた。
「オリヴィア。以前お話しした、机の件ですが」
フェリクスは外套のポケットから、一通の封筒を取り出して差し出した。
「王都にある、古い家具の修繕を得意とする腕の立つ職人の工房への紹介状です。……もちろん、代金の支払いや修理の依頼のタイミングは、オリヴィアご自身の名義で自由にできるように手配してあります」
オリヴィアは紹介状を受け取り、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
紹介状には、出張での見積りもできると書かれていた。オリヴィアは工房の連絡先を手帳へ写した。
「ありがとう、フェリクス。今回の休みのうちに、お願いしてみるわ。引き出しを無理に開けるのも、そろそろおしまいね」
「ええ。……きれいに直ると良いですね」
フェリクスは優しく微笑み、オリヴィアのすぐ目の前まで歩み寄った。
誰もいない、静かな村の家。
窓の外からは遠くで鳥の鳴き声が聞こえるだけの、二人きりの穏やかな空間。
「……ここには、あなたの暮らしの温かさがありますね」
フェリクスは少しだけ声を潜め、オリヴィアの頬にそっと右手を添えた。
「こんなにも豊かで、静かな生活を送っていたあなたに……私を選んでいただけたことが、今でも夢のように嬉しいのです」
彼の大きな手が、愛おしむように頬を撫でる。
「夢じゃないわ。私が、あなたと生きることを選んだのよ」
オリヴィアが真っ直ぐに見上げて答えると、フェリクスの瞳に、ひどく甘く、熱を帯びた光が灯った。
「……触れても、いいですか」
オリヴィアは彼の袖をつかみ、少し背伸びした。
触れた唇は、思ったより温かかった。彼が離れてからも、指は袖を離せなかった。
「……もう一度は、欲張りでしょうか」
尋ねる声が近い。オリヴィアは首を横に振り、今度は自分から彼を引き寄せた。
しばらくの甘い余韻の後。
オリヴィアは少しだけ赤くなった顔を誤魔化すように、ポンと手を打った。
「さ、さて。今日村に戻ってきた一番の目的を果たさなければ」
「ダリア監査官から依頼された、昔の補習ノートの原本探しですね」
フェリクスも柔らかな表情のまま袖をまくり上げ、「私も手伝います」と意気込んだ。
二人は並んでまず書棚に残る発送控えを分けた。マルタに先に送ってもらった控えの番号は、ノートの見返しと照合する必要があった。
「こっちの箱には、古い写本の控えしかないみたい。そっちの棚はどう?」
「ここには……神学院時代の参考書だけのようです」
しばらく埃と格闘した後、オリヴィアは先ほどフェリクスが見ていた愛用の机の、一番奥の深い引き出しを開けた。
「……あったわ」
オリヴィアの指先が、束になった紙の感触を捉えた。
埃を払って取り出したそれは、赤い糸で丁寧に綴じられた、少し色褪せたノートだった。
十年前。彼女がフェリクスやラウルたち四人のつまずきを記録し、一人ひとりに合わせた図解や注意書きを夜な夜な手書きで記していた、まさに『原型』そのもの。
見返しの隅に、発送控えと同じ原稿番号があった。オリヴィアはその数字へ指を置いた。




