第24話 今のあなたが好きです
試験を終えた夕方、祝いの茶話会の喧騒を背に、オリヴィアは足早に王都の街を歩いていた。
日が落ちて街灯に魔力の火が灯り始めた公園の入り口に、見慣れた長身のシルエットが立っている。
「フェリクス」
声をかけると、彼は弾かれたように振り返った。
部局で働く時の軍服でも、先日の祝賀会の礼服でもない。彼が身を包んでいるのは、上質だがどこか柔らかさを感じさせる私服だった。
「お待ちしておりました、オリヴィア。……本日の主役を、こんなふうに連れ出してしまってよかったのでしょうか」
少しだけ遠慮がちにそう言うフェリクスだったが、その声には隠しきれない喜びと期待が滲み出ていた。
「ええ。ニナ先生も受講生の皆さんも、快く送り出してくれたわ」
オリヴィアは微笑み、彼の隣に並んだ。
今日は帳簿も報告書も宿舎へ置いてきた。手袋の縫い目を指で押さえ、彼に伝える言葉を、心の中でもう一度繰り返す。
「少し、歩きましょうか」
「はい」
フェリクスに促され、二人は公園から続く石畳の小道をゆっくりと歩き始めた。
そこは数週間前、審査の翌週に並んで歩いた道だった。
少し進むと、あの日のように、馬車の轍で石のタイルが剥がれた大きな段差が見えてきた。
フェリクスが自然な動作で先に段差を降り、振り返って右手を差し出す。
あの日、オリヴィアはその手を取ることを一瞬ためらった。教え子にエスコートされることへの違和感と、彼の手の大きさに気づいてしまったことへの戸惑いがあったからだ。
だが今日、オリヴィアは一切のためらいなく、彼の手の上に自分の手を重ねた。
しっかりと握り返してくれた彼の手は、やはり少し硬いタコがあり、大人の男性の心地よい熱を持っていた。
「フェリクス」
段差を降りた後も、オリヴィアはあえて手を離さず、そのまま彼と並んで歩きながら口を開いた。
「今日は、私から誘ったのに、また迎えに来てもらってしまったわね」
「待っている間、返事を想像していました。悪い方は、考えないように」
フェリクスは少し笑い、それから彼女へ向き直った。
「オリヴィア。あなたの気持ちを、聞かせてくれませんか」
フェリクスは繋いだ手に少しだけ力を込め、祈るような声で尋ねた。
オリヴィアは彼を見上げ、ゆっくりと、ごまかすことなく言葉を紡ぎ始めた。
「待たせてしまって、ごめんなさい。……あの日、あなたが庭園で伝えてくれた気持ちへの、お返事よ」
オリヴィアは一度深く息を吸い込んだ。
「私はずっと、あなたのことを『十年前の教え子』という枠の中で見ていたわ。あなたが立派な魔導長になっても、私にとっては世話を焼くべき生徒だった。だから、あなたが私を一人の女性として見てくれていると気づいた時、とても戸惑ったの」
フェリクスの表情が、微かに緊張で強張る。
「でもね。この数週間、あなたと過ごして分かったことがあるの。あなたは、昔の先生という偶像を押し付けて、無理やり私を飾り立てようとはしなかった。私の歩幅に合わせて歩き、私の暮らしを尊重し、私が仕事で間違えた時も、ただ静かに隣にいてくれた」
オリヴィアは繋いでいた彼の手を両手で包み込むようにして、自分の胸元に引き寄せた。
「私を惹きつけたのは、十年前の可愛い教え子としての記憶じゃないわ。今、私の目の前で、不器用ながらも誠実に私と向き合おうとしてくれている、大人の男性としてのあなたよ」
オリヴィアは、彼に向かってとびきりの笑顔を向けた。
「王国最強の魔導長でも、公爵でも、元教え子でもない。……ただの、今のあなたが好きです。一人の女性として、あなたとお付き合いしたいわ」
風が止んだように、周囲の音が消えた。
フェリクスは大きく目を見開いたまま、瞬きもせずにオリヴィアを見つめていた。やがて、その端正な顔が、言葉にならないほどの圧倒的な喜びに歪む。
「……夢を、見ているようです」
震える声でそう零したフェリクスは、オリヴィアの両肩をそっと引き寄せ、そのまま力強く抱きしめた。
「フェリクス……っ」
「オリヴィア……本当に、あなたが、私を……」
少しだけ苦しいほどの強さ。けれど、決して痛くはない、愛情に満ちた腕の力。
オリヴィアもまた、彼の広い背中に腕を回し、その温もりを全身で受け止めた。
背中に回した手を、もう少しだけ強くした。彼の胸に頬を寄せると、髪の上に安堵したような息が触れた。
名残惜しそうに身体を離したフェリクスは、まるで宝物を扱うような優しい手つきで、オリヴィアの頬に触れた。
「ありがとう。……私の生涯をかけて、あなたを大切にします」
「嬉しいわ。私にも、あなたを大切にさせてね」
オリヴィアが笑いかけると、フェリクスも恥ずかしそうに破顔した。
「……そうだわ。フェリクス、次の休日は予定が入っている?」
オリヴィアは少しだけ背伸びをして、新しい提案を口にした。
「次の休日ですか? いえ、特にはありませんが」
「それなら、私の住んでいるミル村へ、一緒に来てくれないかしら」
「村へ、ですか」
「ええ。公爵としてでも、昔の教え子としてでもなく。……今度は、私の『恋人』として。私がいない間、私の暮らしを支えてくれていた人たちに、あなたを紹介したいの」
その言葉に、フェリクスは再び言葉を失い、それから、今日一番の深い喜びを瞳に湛えて深く頷いた。
「はい。……喜んで、ご挨拶に伺います」
王都の夜風は少し冷たかったが、恋人として繋ぎ直された二人の手は、どこまでも温かかった。




