第22話 教壇から降りて踊る夜
その週末。王都の迎賓館に設けられた豪奢なホールは、眩いシャンデリアの光と、着飾った人々のざわめきに満ちていた。
運営法人の設立記念の会には、成人教育事業に携わる講師たちも招かれていた。
オリヴィアは、少しだけ壁際に下がり、同僚のニナと共に微発泡の果実水を口に含んでいた。彼女が今日選んだのは、華美な装飾を排した、深い紺色の品の良いドレスだった。先日彼に「お綺麗です」と褒められたワンピースよりは格式高いが、貴族たちの絢爛豪華な衣装に比べれば、明らかに質素な装いだ。
会場の中心では、この事業の有力な後援者として、フェリクスが多くの貴族たちに囲まれていた。
漆黒の礼服に身を包んだ彼は、宮廷魔導長としての威厳と、公爵家当主としての洗練された立ち振る舞いで、次々と挨拶に訪れる者たちに完璧な対応を見せている。
「……やはり、ロッシュ公爵様は住む世界が違いますね」
ニナが少し気後れしたように呟いた。
知らない人の視線を感じ、オリヴィアはグラスを持ち直した。にこやかに会釈してくれる人もいる。どこへ立てばよいのかわからず、ニナと顔を見合わせた。
ニナの皿には、倉庫の班長が法人へ届けてくれた果実があった。自分たちも、この事業で働いている。オリヴィアは小さく息を吐き、背筋を伸ばした。
やがて、ひとしきりの挨拶を終えたフェリクスが、群がる人々を巧みに躱し、迷いのない足取りで真っ直ぐにこちらへ向かってきた。
周囲のざわめきが、ふっと静まり返る。
身分差の視線が突き刺さる中、フェリクスはオリヴィアの目の前で立ち止まると、一切の躊躇なく恭しく一礼し、右手を差し出した。
「オリヴィア。……一曲、いかがですか」
ここで彼の手を取れば、身分違いだとはしたない噂を立てられるかもしれない。
けれど、そんなことはもう、彼の誘いを断る理由にはならなかった。
「……ええ。喜んで」
オリヴィアが手袋越しに彼の手を取ると、フェリクスの顔にパッと輝かしい笑みが浮かんだ。
フロアの中央へとエスコートされながら、オリヴィアは小さく息を吐いた。
「フェリクス。私、社交のダンスなんてほとんど経験がないわ。……足を踏んでしまうかもしれない」
神学院で教えていた十年間、ダンスを踊る機会など一度もなかったのだ。緊張で少しだけ指先が強張るオリヴィアに対し、フェリクスは彼女の腰にそっと手を添え、安心させるように囁いた。
「大丈夫です。ステップのことは気にせず、私にすべて任せてください」
ゆったりとした円舞曲が流れ始める。
フェリクスが一歩を踏み出し、オリヴィアの身体が自然とそれに引き寄せられた。
十年前、四家合同の補習授業で、魔法の基礎の手順を手取り足取り『教え、導いていた』のは彼女だった。あの頃のフェリクスは、魔力の扱いに戸惑い、彼女の指示を仰ぐ生徒でしかなかった。
しかし今、教壇を降りた彼女は、彼に身を委ね、ステップを『教わる』側になっている。
フェリクスのリードは完璧だった。
オリヴィアが足運びをためらいそうになる瞬間、彼女の背中を支える手が僅かに力を込め、次のステップへと滑らかに誘導してくれる。まるで、彼女自身がもともとダンスの名手であったかのように錯覚してしまうほど、よどみなくフロアを回っていく。
「とても、お上手ですよ。オリヴィア」
少しだけ身を屈め、耳元で彼が甘く囁く。
「あなたが、上手に導いてくれるからよ」
オリヴィアが顔を上げて微笑むと、至近距離にある彼の瞳が、ひどく熱っぽい光を放った。
周囲の貴族たちの雑音や冷ややかな視線など、もう完全に消え去っていた。今この瞬間、世界には彼と彼女の二人しかいない。
二度目の回転で、裾が彼の靴に触れた。オリヴィアが息を呑むと、彼は小さく首を振った。
「大丈夫。次は、こちらへ」
声に合わせて動くと、また音楽へ戻れた。見上げた彼の顔が近い。失敗したことより、その近さに頬が熱くなった。
(もう一曲、踊っていたい)
背中を包み込む大きな手の熱を感じながら、オリヴィアは静かに心を決めた。
試験が近づき、会う時間が短くなった時、寂しかった。もう一曲と思う今の気持ちも、答えの一つなのだろう。
来週。自分が立ち向かうべき大きな挑戦が終わったら、必ず自分の口から、彼に恋の返事をしよう。
曲が終わると、フェリクスが一礼した。オリヴィアも礼を返し、彼と一緒にバルコニーへ出た。
「お疲れ様でした。とても楽しい時間でした」
バルコニーの夜風に吹かれながら、フェリクスが名残惜しそうに微笑んだ。
「ええ。ありがとう、フェリクス。……あなたに任せていたら、ちっとも怖くなかったわ」
オリヴィアが真っ直ぐに見つめてそう告げると、フェリクスは驚いたように息を呑み、耳まで赤くして黙り込んでしまった。
彼が何か言葉を紡ぐ前に、オリヴィアは少しだけ表情を引き締め、口を開いた。
「フェリクス。先日、あなたが庭で伝えてくれたことだけれど」
「……はい」
「来週の実証試験が終わった日に、会ってくれる? ちゃんと、あなたに返事をしたいの」
そこで一度言葉を切り、彼の目を見た。
「試験の結果がどうでも、会いに行くわ。これは、そのお祝いとは別の約束よ」
その言葉に、フェリクスは深く頷いた。「いつまででも待ちます」という彼の瞳は、これからの未来への期待で輝いていた。
「その、来週の試験のことなのだけれど」
オリヴィアはバルコニーの手すりに触れ、夜の王都を見下ろしながら静かに告げた。
「来週行われる第三者立会いの実証試験は、私が出した条件で行われることになったわ」
「条件、ですか?」
「ええ。試験の間、私は一切教室に入らない。……ニナ先生と受講生たちだけで、課題を突破してもらうの」
フェリクスは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに彼女の強い意志を理解し、その手にそっと自分の手を重ねた。
「教室の外でお待ちになるのですね。終わったら、私との約束も忘れないでください」
「忘れないわ」
オリヴィアは答え、手すりの上に重なった彼の手を、少しだけ握り返した。




