第20話 先生が間違えた授業
翌日。王都の公益研修所の一角には、実際の水門を縮小した「模擬水門」の練習室が設けられていた。
水門管理局で見習いをしている十九歳の青年トマは、緊張で顔を強張らせながら、その巨大な操作盤の前に立っていた。
これまでの基礎課題で、彼は魔力を安定して流し、止める技術を確実に身につけていた。だが、目の前にある現場仕様の操作盤は、基礎用の訓練器具とはボタンや魔石の「配置」が全く異なっていた。
トマの指が、右から三番目の魔石と、盤面の見出しの間で迷った。
無数に並ぶ計器を前に、トマの手が完全に止まる。
背後には、彼の順番が終わるのを待っている他の成人受講生たちが並んでいる。彼らの視線が、トマの背中に重くのしかかった。
待っている人を振り返り、彼は慌てて右から三番目へ手をかざした。
――ビィィーッ!
耳障りなエラーのブザー音が鳴り響き、盤面の赤いランプが激しく点滅した。
「あっ、ちがっ……!」
失敗した。その事実にパニックに陥ったトマは、エラーを解除しないまま別の魔石へさらに魔力を注ごうとした。
「トマさん、待って!」
異変に気づいたオリヴィアが駆け寄り、操作盤の安全装置を下ろして魔力の流れを強制的に遮断した。
「大丈夫です! 分かりましたから、次はできます!」
トマは血の気を失った顔で、必死に取り繕うように叫んだ。後続を待たせる恐怖から、完全に『分かったふり』をして、力任せに作業を進めようとしている。
「いったん休みましょう。ほかの皆さんも、ニナ先生の方で確認を続けてください」
台から離れ、二人で並んで座ると、トマはようやく顔を上げた。
「基礎の時は、右から三番目だったから……同じだと思って」
オリヴィアは前回の記録を見た。『手順を説明できた』。その説明は、どの魔石かを位置で答えたものではなかったか。
同じ盤でできたことを、別の盤でも使える理解だと受け取っていた。
「……ごめんなさい、トマさん」
オリヴィアは、彼と同じ目の高さで頭を下げた。
「私の教え方が、間違っていました」
「え……? せ、先生?」
「一つの盤でできたので、わかったと思ってしまったの。私も、別の配置で確かめるべきでした」
実習担当の技師を呼び、二つの模擬盤に対応する図を出してもらう。どちらにも機器番号と、対応する操作箇所が記されていた。
「この番号なら、こちらの図を見ます。見つからない時は、操作せず係員に聞いてください」
技師の説明を、オリヴィアはトマと一緒に確認した。機械の裏を開けたり、見える配線から推測したりする必要はない。
「次は、何を開ける課題でしたか」
「第二ゲートです。でも、この図の、どこが……」
トマは途中で口をつぐんだ。オリヴィアは答えを先に示さず、待った。
「先生」
トマは大きく息を吸い込み、強がりを捨てて真っ直ぐにオリヴィアを見た。
「俺、まだ図の見方がわかりません。もう一度、教えてください」
分からないことを、分からないと正直に言える。それがどれほど大きな成長かを知っているオリヴィアは、「ええ、一緒に確認しましょう」と力強く頷いた。
その日の夕暮れ。
研修所の誰もいない廊下の窓辺で、オリヴィアは一人、深い自己嫌悪に沈んでいた。
トマはまだ、別の盤を一人では扱えない。現場の担当範囲を広げるには、管理局の訓練と認定も要る。その手前で課題が見えたのはよかった。
それでも、できたと言って安心してしまった自分が悔しかった。採点欄に押した印を、何度も思い返していた。
「オリヴィア」
静かな足音とともに、低い声が鼓膜を揺らした。
顔を上げると、私服姿のフェリクスが立っていた。彼はオリヴィアの沈んだ表情を一目見るなり、微かに眉をひそめた。
「……何か、ありましたか」
待ち合わせの食事へ向かう気になれず、オリヴィアは今日の見落としを話した。
フェリクスは最後まで聞いて、壁際の長椅子を示した。「少し座りませんか。食事の時間は、変えられます」
「フェリクス」
オリヴィアは、彼が否定も同情もせずにそこにいてくれることに救われていた。
「……少しだけ、隣にいてくれないかしら。慰めなくていい。ただ、隣に」
「……はい」
フェリクスは頷き、彼女と長椅子へ腰を下ろした。
しばらく、廊下を行き交う人の足音を聞いていた。オリヴィアが膝の上で握った手をほどくと、彼の掌がすぐそばにあった。
「今日は、楽しいお話ができそうにないわ」
「ええ」
「……それでも、会えてよかった」
フェリクスの指が、彼女の指に触れた。
「私もです」
うまくいった日のように褒めてはくれなかった。代わりに手を握り、彼は、彼女が話し始めるのを急がず待っていた。
オリヴィアは、もう一度だけ今日の教室を思い返した。トマを見ている時、ほかの五人はニナが見てくれていた。自分がいつも前に立たなくてもよかったのかもしれない。
次の授業で誰が前に立つか、ニナと相談してみよう。
やがてフェリクスが時計へ目をやり、彼女に顔を戻した。
「店の予約を遅らせてもらいます。今日は、食べられそうなものを少しずつ選びませんか」
「ええ。私も一緒に行くわ」
立ち上がる時も、繋いだ手は離れなかった。
週明け。実習室の準備をしながら、オリヴィアはニナに提案した。
「ニナ先生。今日の授業のメインの進行は、あなたに任せてもいいかしら」
「えっ? 私が、ですか?」
「ええ。私は少し一歩引いて、見学席から六人全体の様子や、つまずきの兆候を客観的に見たいの。サポートには入るわ」
驚くニナに、オリヴィアは静かに微笑んだ。
オリヴィアは、教壇に置くはずだった自分の記録紙を、最後列の席へ運んだ。




