第17話 六人の違うつまずき
翌週。王都の公益研修所に設けられた実習室に、重苦しい緊張感が漂っていた。
今日から、成人技能研修の実証事業が本格的にスタートする。教壇から見渡す六つの席には、年齢も職業も全く異なる六人の成人受講生が座っていた。
職人のような日に焼けた手をした中年の男性や、事務服を着た若い女性。そして、王都の水門管理局で見習い技師をしているという、トマという十九歳の青年。
彼らに共通しているのは、魔法という見えない力への強い苦手意識と、「公的な研修の場で失敗して、無能の烙印を押されるのではないか」という恐れからくる、カチコチに強張った表情だった。
その緊張に拍車をかけている要因が、教室の隅に一つある。
黒い軍服姿の宮廷魔導長、フェリクス・ロッシュ公爵その人だ。
彼は部局の技師と、訓練台の低出力遮断器を確認していた。練習用の小さな器具だから設けられる、出力の上限だった。
だが、王国最強の男が同じ空間にいるだけで、ただでさえ身構えている受講生たちは息を詰まらせてしまう。
確認を終えると、フェリクスは担当技師に後を任せて退室した。扉が閉じて、六人の視線が教壇へ戻ってきた。
大きなプレッシャーの元が去り、受講生たちが微かに安堵の息を吐いたのを見計らって、オリヴィアは口を開いた。
「初めまして。実証講師のオリヴィア・ヴァンザールと、ニナです」
オリヴィアは隣に立つ同僚のニナを紹介し、教室全体を見渡して微笑んだ。
「皆さんはきっと、魔法のテキストを開いて、定型通りに唱えるのが苦手なのだと思います。ですからここでは、全員に同じ手順を、同じペースで強要することはしません」
その言葉に、受講生たちが少しだけ顔を上げた。
「机の上には、光らせるだけの『調整灯』や、軽い木箱を浮かせる『運搬札』など、いくつか異なる基礎の課題を用意しました。まずは、自分が一番やりやすいと思うもの、面白そうだと思うものを選んで触ってみてください」
課題の選択権を委ねられ、受講生たちは戸惑いながらも、それぞれ興味を持った器具に手を伸ばし始めた。
だが、水門見習いのトマだけは、どの器具を触ればいいか迷い、両手を膝の上で固く握りしめたまま動けずにいた。
「……間違えて壊してしまったら、どうしよう」
消え入るような彼の呟きを聞き逃さず、オリヴィアはそっとトマの机の傍らに歩み寄った。
「トマさん、でしたね」
「あ……は、はい。すみません、俺、物覚えが悪くて……昔から、手順通りにできないんです」
「いいえ、謝る必要はありませんよ」
オリヴィアは彼を否定せず、目線を合わせるように少し身を屈めた。
「間違えることや、途中で手が止まることは、決して悪いことではありません。あなたがどこで分からなくなったか、どこでつまずいたのかを見つけるのが、私たち講師の仕事ですから」
失敗を見せてもいい。分からないと言っても、怒られたり見捨てられたりしない。
その事実が伝わった瞬間、トマの肩からスッと余計な力が抜け、強張っていた表情が和らいだ。彼は小さく頷き、目の前の調整灯へとおずおずと手を伸ばした。
そこからは、六人の違うつまずきとの対話だった。
ニナと手分けをして教室を回りながら、オリヴィアは彼らの魔力操作の癖を観察していく。
ある者は、結果を急ぐあまり「魔力を流す」ことと「停止条件」を混同していた。ある者は、テキストの文字を読むことに気を取られ、手元の器具の反応を見ていなかった。
オリヴィアは彼らがなぜできないのか、その生い立ちや才能のせいにはしない。ただ目の前の事実だけを拾い上げ、視覚的な札を渡したり、手順を短く区切ったりして、本人に理由を説明させながら軌道修正を行っていく。
初日の二時間の授業が終わる頃。
全員が一つずつ、今日できたことを記録した。まだ灯りを保てない人もいる。トマの欄には、自分から「もう一度」と頼めた、と書かれた。
「お疲れ様でした。また次回、お会いしましょう」
トマは頭を下げて教室を出た。最後に残った女性は、点かなかった灯りを一度振り返った。
「次も、これを使っていいですか」
「ええ。続きを、一緒に試しましょう」
女性は器具の番号を控え、まだ少し硬い顔で頷いた。
「最初は、話してくださるかも心配でした。次に試すことが、六人分できましたね」
ニナが感嘆の声を漏らしながら、片付けを手伝ってくれる。
「ええ。灯りが点いた人も、別の器具で確かめてみましょう。今日の一回だけでは、まだわからないもの」
オリヴィアは良いスタートが切れたことに、確かな手応えと充実感を覚えていた。
片付けを終えて研修所の外に出ると、茜色に染まり始めた空の下で、フェリクスが待っていた。
「お疲れ様です、オリヴィア。……初日の授業、いかがでしたか?」
彼が気遣わしげに尋ねてくる。
「ええ、とても良い時間だったわ。受講生の方たちも、皆真剣に取り組んでくれたから」
「お歩きになりますか。それとも、馬車を呼びましょうか」
フェリクスが門の外を見た。
オリヴィアは少し考え、彼の横へ並んだ。
「歩きたいわ。先日の食堂の先に、まだ見ていない通りがあったでしょう」
「ええ。宿舎には少し遠回りになりますが」
「疲れてはいるけれど、まだ帰りたくないの」
オリヴィアは鞄を胸に抱き、少しだけ上目遣いに彼を見た。
「もし急ぐ用事がないのなら……ただ、私と一緒に歩いてくれないかしら」
フェリクスは一瞬だけ驚きに目を見開き、それから、言葉にならないほどの深い喜びをその端正な顔に滲ませた。
「……喜んで」
彼は優しく微笑み、オリヴィアの歩幅に合わせて、ゆっくりと石畳の道を歩き出した。
翌日。
オリヴィアとニナが昨日の指導の振り返りを行っていると、研究室のローブを翻したシリルが、バンッと勢いよく準備室の扉を開けて飛び込んできた。
「先生! 昨日の指導記録の写し、拝見しました!」
彼は手にした羊皮紙の束を興奮気味に振り回している。
「初日から、六人とも次の課題を見つけるなんて! 先生の観察は、やはり特別です。熟練者だけに許される方式として申請すれば――」
「その前に、記録のここを見て、シリル」
オリヴィアは、まだできなかったことの欄を指した。




