第16話 残高ゼロの約束
約束した週末。王都の行政区画に位置する市公庫の面談室は、分厚い石壁に囲まれた静謐な空間だった。
フェリクスが椅子を引くと、公庫の担当官が最後の書面を持ってきた。四人分の返還先と同意書が、金額ごとに揃っている。
二人の間にあるのは、預かり金口座の閉鎖を示す最終の処理書類だけだ。
オリヴィアは、事前に四人から取り寄せていた『預かり金返還同意書』をテーブルに広げた。
「では、最後の確認をしましょう」
オリヴィアの声も、どこかいつもより柔らかだった。
「フェリクス、定期分の百八十枚は、こちらの口座でよろしいですね」
「はい」
彼が自分の受領確認へ署名する。ラウルの九十六枚、コンラッドの七十二枚、シリルの四十八枚は、本人たちが指定した口座へ、それぞれ書面に基づいて返された。
担当官が四通の処理済み通知を並べた。合計三百九十六枚。預かり口座に、もう残るお金はない。
「これで、残高はゼロです」
オリヴィアが自分専用の帳簿の最後の行に『全額返還済。残高〇』と書き込むと、フェリクスはそれを見つめて、小さく息を吐き出した。
「終わりましたね」
「ええ。長々と事務手続きに付き合わせてしまって、ごめんなさいね」
「とんでもない。……ただ、少しだけ、不思議な気分です」
フェリクスは自身の大きな手を見下ろし、ぽつりとこぼした。
「先生の役に立つ教え子としての『役目』を、一つ手放したような気がして。少しだけ、手持ち無沙汰というか」
彼の手元から書類がなくなった。オリヴィアは帳簿を閉じ、鞄にしまった。次に話すことには、これを出さなくていい。
面談室を出て、王都の街へ踏み出す。
空は高く澄み渡り、並木道の間を吹き抜ける季節の風が心地よい。
「フェリクス」
並んで歩きながら、オリヴィアは前を向いたまま口を開いた。今日、この場で必ず伝えようと決めていたことだった。
「この手続きの後、あなたを誘おうと思っていたの」
「あなたから?」
「ええ。それで、朝から店を変えたり、やっぱり戻したり。……用件を作る方が、楽だったのね」
彼の好意を疑っているのではない。ただ、自分から会いたいと言うだけのことが、こんなにも難しかった。
彼女の率直な言葉を聞いたフェリクスの瞳が大きく見開かれ、やがて彼は片手で顔を覆うようにして、深く、深い息を吐き出した。
「……オリヴィア」
彼は覆っていた手を下ろし、少しだけ困ったような、それでいてひどく安堵したような笑みを浮かべた。
「奇遇ですね。私も全く同じことを考えて、ひどく緊張していました」
「緊張?」
「はい。私も、今日の手続きが終わったら次のお誘いをと思っていました。断られたら、別の日を尋ねればいい。それだけなのに、扉の前で練習してしまって」
彼は自嘲するように笑った。
「来るまでの馬車でも、二度ほど言い直しました」
魔導隊を率いる人が、食事への誘いを練習していた。
そのあまりにも不器用で真っ直ぐな告白に、オリヴィアは堪えきれずに吹き出してしまった。
「ふふっ……私たち、同じことを考えていたのね」
「……お恥ずかしい限りです」
フェリクスもつられて笑い出し、二人の笑い声が静かな通りに響いた。
笑いがおさまると、フェリクスは改めてオリヴィアを真っ直ぐに見つめた。
「もう、あなたに会うための口実も、月謝という言い訳もありません」
「ええ。残高はゼロよ」
「だから、私の意思だけで尋ねます。オリヴィア……また私と、出かけてくれますか」
その問いに、オリヴィアは満面の笑みで頷いた。
「もちろんよ。……それで、さっきのお店の話だけれど」
「はい」
「来週の週末は、どうかしら。今度は、私に予約をさせて」
オリヴィアが自発的に次の約束を提案すると、フェリクスの顔にパッと輝かしい光が差した。
「はい。予定を確認して、今夜お返事します」
待ち合わせの場所を決め、時刻は今夜の返事で確定することにした。
帳簿の最後の残高欄に、零が残った。その下ではなく、彼女は手帳の方へ次の約束を書き入れた。
*
フェリクスと別れ、宿舎の自室へ戻ったオリヴィアの心は、驚くほど晴れやかだった。
窓の外には、夕暮れの王都の景色が広がっている。
週が明ければ、いよいよ成人技能研修の実証事業が本格的にスタートする。
今度の受講生について届いた資料には、年齢も職業も違う六人の経歴があった。
手が止まる理由も、きっと違う。一度でうまくいくとは限らない。オリヴィアは質問したいことを一人分ずつ書き留めて、そこでペンを置いた。
「来週は、何を着ていこうかしら」
机の上に置かれた月謝帳をそっと引き出しの奥にしまいながら、オリヴィアは小さく呟いた。
教室の外には、月謝も用件も抜きにして会える彼との、私的な時間が待っているのだから。




