第2話:『燃える大坂、見知らぬ天井』
1. 救民の狼煙
天保八年、二月十九日。
凍てつくような早朝の空気に、突如として轟音が響き渡った。
「放てッ!」
平八郎の鋭い号令とともに、洗心洞から放たれた大砲の弾が、奉行所の門を粉砕した。
それは、飢えに苦しむ民たちの、数年分の怒りが爆発した音だった。
「救民!」
掲げられた白旗には、力強い墨文字でそう記されていた。
平八郎を先頭に、門弟や農民たちが次々と走り出す。彼らの手には、槍や刀、そして農具が握られていた。
彼らが目指すのは、私腹を肥やす豪商たちの蔵だ。
「蔵を破れ! 米を民に返せ!」
平八郎の叫びは、燃え盛る炎とともに大坂の街に広がっていく。
あちこちで蔵の扉が打ち破られ、溢れ出した米を、民たちが泣きながら両手で掬い取った。
「これで食える!」「大塩様、万歳!」
その光景を見て、平八郎は一瞬だけ、救われたような気がした。
2. 皮肉な火影
だが、運命は残酷だった。
民を救うために放った火は、折悪く吹き荒れた強風に煽られ、瞬く間に市街地へと燃え広がった。
「火を消せ! 民の家を守れ!」
平八郎は必死に叫んだが、炎の勢いは止まらない。
救おうとしたはずの民の家々が、赤黒い波に飲み込まれていく。泣き叫び、逃げ惑う人々。その姿は、彼が最も避けたかった「地獄」そのものだった。
さらに、身内からの密告により、幕府軍の対応は早かった。
最新の装備を整えた正規軍が、次々と平八郎の軍を包囲していく。
「反賊・大塩を討て!」
かつての仲間、かつての部下たちが、今や自分を殺そうと刃を向けてくる。
「……私のしたことは、ただの過ちだったのか」
返り血を浴び、煤にまみれた平八郎の頬を、一筋の涙が伝った。
半日に及ぶ激闘の末、平八郎の軍は壊滅した。
3. 爆炎の中の自決
潜伏すること一ヶ月。
平八郎と養子の格之助は、油を撒いた隠れ家の中で、ひっそりと包囲されるのを待っていた。
「格之助、済まぬ。お前まで巻き込んでしまった」
「いいえ、父上。私は、最期まで『知行合一』を貫いたあなたを誇りに思います」
外からは、無数の足音と、自分を捕らえようとする役人たちの罵声が聞こえる。
平八郎は、懐から火薬を取り出した。
自分の体さえ、証拠として残さない。武士としての、そして学者としての、最後の矜持だった。
「もし、来世というものがあるのなら。……次こそは、誰も飢えぬ世を」
平八郎が火を放つ。
凄まじい爆発。全てを白く塗りつぶすような光。
熱い、熱い、熱い――。
彼の意識は、燃え盛る炎の中で、永遠の眠りにつくはずだった。
4. 異世界の冷気
「…………ん?」
ふと、平八郎は違和感を覚えた。
熱くない。
それどころか、肌を撫でるのは、不自然なほどに「冷たく、心地よい風」だった。
(死後の世界は、これほどまでに涼しいのか……?)
ゆっくりと目を開ける。
まず目に飛び込んできたのは、見たこともないほど白く、平らな天井だった。
そこには、太陽の欠片を閉じ込めたような、眩い「光る板」が張り付いている。
「お目覚めですか、総理?」
横から、聞き慣れぬ声がした。
見ると、妙にピッチリとした黒い服を着た男が、困ったような顔で自分を覗き込んでいる。
「…………総理? 拙者を、そう呼ぶのか?」
自分の声を出して、さらに驚いた。
かつての凛とした、芯のある声ではない。
まるで、湿った湿布を喉に詰めたような、ねっとりとした、締まりのない声。
「何を仰っているんですか、石悪総理。また寝ぼけていらっしゃるんですか? ほら、テレビを見てください。支持率がまた下がって、過去最低の0.8%ですよ」
5. 鏡の中の怪物
「いしわる……? そうり……?」
平八郎は、フラフラと立ち上がった。
体が、重い。
足が、地面にめり込むような感覚。
かつては風を切り、山を駆けた自分の体が、今は鉛のように鈍い。
彼は、壁にあった大きな鏡の前に立った。
そこに映っていたのは――。
「……な、なんだ、この怪物はッ!?」
そこにいたのは、
鼻の下を伸ばし、上目遣いで、だらしなく口を半開きにした、
ブヨブヨに太った、醜い中年男だった。
三段に重なった腹の肉。
ボタンが弾けそうな、安っぽい寝巻き。
そして、その目。
かつて「修羅」と呼ばれた自分の眼光は消え、そこにはただ、保身とズル賢さだけが透けて見える、締まりのない瞳があった。
「おのれ……おのれぇぇっ!」
平八郎は、鏡の中の自分――現代の日本を牛耳る「石悪総理」に向かって、絶叫した。
「これは何の呪いだ! 拙者を、このような脂の塊の中に閉じ込めるとは……不届き千万!」
伝説の義将、大塩平八郎。
今、最悪の肉体をもって、令和の世に再誕。




