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大塩平八郎、令和に立つ —デブ総理の中身が義士だったので、知行合一で国を救ってみた—  作者: 桐生宇優


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第1話:『救民の号砲 ―学問を捨て、修羅へ―』

挿絵(By みてみん)

1. 終わりの始まり


天保八年、二月。大坂。


この町は、死んでいる。


「……あ、あぁ……」


道端に力なく座り込んだ母親が、虚ろな目で自分の指を噛んでいる。

その腕の中には、もう泣く力さえ残っていない、骨ばかりの赤子がいた。母親は、自分の血を少しでも飲ませようとしていたが、枯れ果てた体からは一滴の血も出ない。


そんな地獄の中、背筋を一本の刀のように伸ばして歩く男がいた。


大塩平八郎


かつては大坂町奉行所の与力として不正を暴いた男だ。今は職を辞し、私塾「洗心洞」で**陽明学**を教えている。


「先生、もう見ていられません……」


後ろを歩く門弟の安部野五左衛門が、声を震わせた。


「奉行所の蔵には米が唸るほどある。なのに、なぜあのお役人たちは、江戸への点数稼ぎにばかり走り、民を殺そうとするのでしょうか」


平八郎は、何も答えなかった。

ただ、その拳を白くなるほど強く握りしめ、前だけを見据えていた。


2. 知行合一の断罪


「学問とは、知識を蓄えるための道具ではない」


塾に戻った平八郎は、並み居る門弟たちを前に、地響きのような声で語り出した。

彼が信奉する「陽明学」の真髄――それは知行合一ちこうごういつ


「正しいと知っているのに、それを行わないのは、まだ知らないのと同じことだ」という実践哲学だ。


「……私は、知っている。民が餓え、死んでいくことを。そして、それを救う方法が、目の前の蔵に眠っていることも」


平八郎は、机の上に置かれた古びた書物を見つめた。

そこに並ぶのは、先人たちが説いた「仁義」や「正義」の言葉。


だが、窓の外から聞こえてくるのは、食べ物を求めて争う民の、獣のような叫び声だった。


「先生、私たちの学問は、この叫びを止めることができるのでしょうか?」


弟子の悲痛な問いに、平八郎の心は激しくきしんだ。


エリートとして生きてきた。知識こそが世界を救うと信じてきた。

けれど、今、目の前の命一つ救えない自分は、ただの「言葉の奴隷」ではないのか?


3. 本を売り、覚悟を買う


その日の午後、平八郎は決断した。

彼は、命よりも大切にしていた数千冊の蔵書を、すべて売り払ったのだ。


「先生! おやめください! これは先生の魂そのものではありませんか!」


門弟たちが泣いてすがり付く。

だが、平八郎は冷徹なまでに言い放った。


「本など、ただの紙の束だ!」


平八郎の瞳には、熱い涙がたまっていた。


「民が一人、道端で凍えて死ぬたびに、この本に書かれた『正義』の文字は、私を嘲笑あざわらう。こんなもののために、子供を見殺しにする学問など、この世にはいらん!」


書物は金へと変わった。五百二十両。


平八郎はそのすべてを、米に変えて民に配った。


しかし、噂を聞きつけた数千人の民が押し寄せ、米は一瞬で尽きた。

焼け石に水。個人の慈悲など、この巨大な腐敗の前には無力だった。


4. 決別


平八郎は最後の手を打つべく、奉行所へ向かった。

しかし、現役の奉行・東町奉行の跡部は、豪華な食事を前に、平八郎を鼻で笑った。


「大塩殿、本を売って金を配るなど、売名行為もいいところだ。民が飢える? 結構なことではないか。それで人口が減れば、米も足りるようになる」


「……跡部様、本気で仰っているのですか?」


平八郎の声が、低く震えた。


跡部は、酒をあおりながら、面倒そうに手を振った。


「だいたい、大坂の米は江戸へ送るものと決まっておる。将軍様に捧げる米を、汚い民に食わせるわけにいかんだろう? 帰れ。二度とその汚い面を見せるな」


その瞬間。


平八郎の中で、何かが音を立てて壊れた。

いや、新しく生まれ変わった。


「言葉は、もう尽きた」


奉行所を出た平八郎の背中は、夕日に焼かれ、巨大な影を落としていた。

その影は、もはや温厚な学者の形をしていなかった。


5. 檄文げきぶんの夜


その夜、平八郎は暗い蔵の中で、一通の書状を書き上げた。

自らの指を噛み切り、白紙の紙に血で書き殴った、命の叫び。


救民きゅうみん


挿絵(By みてみん)


「天よ、見ておれ。私は、学問を捨てる。人の道を守るために、私は鬼となる」

平八郎の背後には、覚悟を決めた門弟たちが並んでいた。


彼らの手には、密かに集めた槍、刀、そして火縄銃。

蔵の奥には、黒光りする大砲が据えられている。


「……明日、夜明けとともに。大坂に火を放つ」

平八郎は、月光に照らされた刀を静かに引き抜いた。


「腐った蔵を焼き、民に希望の火を灯すのだ。たとえ、この命が灰になろうとも」


静寂の中、決起のときを待つ。

平八郎の鋭い眼光は、すでにこの世の先を見つめていた。

それは、数千の民が立ち上がり、大坂が炎に包まれる「地獄の門」が開く音だった。

史実解説:

1. 天保の大飢饉てんぽうのだいききん と 「地獄の大坂」

物語の冒頭で描かれた死の町の惨状。これは決して誇張ではありません。

1833年(天保4年)頃から始まった異常気象(冷害、大雨)により、日本全土は空前絶後の食料不足に陥りました。

特に「天下の台所」と呼ばれた大坂は、本来なら米が集まる場所です。しかし、飢饉によって米価が平時の数倍に高騰。貧しい民衆は、物語にあるように土や草の根を口にし、道端には餓死者が溢れました。記録では、1日に150人以上が亡くなる日もあったと言われています。

2. 陽明学ようめいがく と 「知行合一ちこうごういつ

平八郎が門弟たちに説いていた学問です。

当時の幕府公認の学問は「朱子学しゅしがく」で、これは「秩序や身分を重んじる」ものでした。一方、平八郎が学ぶ陽明学は、「心のままに行動すること」を重視する、極めて実践的で、時には危険な思想でした。

その中心思想が「知行合一」です。「正しいと知っているのに、行動に移さないのは、まだ本当に知っているとは言えない」という教えです。

平八郎にとって、「民が飢えている」と知っていて、与力というエリートの立場(あるいは隠居後の学者の立場)に安住することは、自らの信念に対する最大の裏切りでした。


3. 「本を売る」 — 魂の切り売り

平八郎は、奉行所や豪商に窮民救済を何度も訴えましたが、無視されました。

絶望した彼は、第1話にある通り、命よりも大切にしていた自らの蔵書(洗心洞の全蔵書)をすべて売り払います。その額は、当時の金で五百二十両。現代の価値に換算すると、数千万円から1億円近いとも言われる巨額です。

彼はこの金で「施行札せぎふだ」を作り、民衆に配って米と交換させました。しかし、大坂中の飢えを救うには、あまりに一時的な処置でした。この私財を投じた救済さえも、奉行所からは「売名行為」として非難されたと伝わっています。

4. 悪徳奉行・跡部良弼あとべ よしすけ と 豪商の買い占め

物語で平八郎を冷笑した東町奉行・跡部良弼。彼もまた、実在の人物です。

彼は飢饉の最中、大坂の民を救うどころか、豪商(鴻池など)と結託して米を買い占め、それを江戸への「就任祝い」として送り、自らの出世を優先しました。

民が目の前で飢えているのに、米が江戸へ送られていく――。

この「人災」とも言える状況が、平八郎の「静かな怒り」を、武力決起という「修羅の道」へと変えた決定的な要因でした。

5. 檄文げきぶん — 血のメッセージ

第1話のラストで平八郎が書き上げたのは、決起の趣意書である「檄文」です。

実在するこの檄文は、約2000字に及び、奉行や豪商の不正を激しく弾劾し、「天に代わりて不義を討つ」という決意が述べられています。

彼はこの檄文を近隣の村々に飛ばし、民衆に挙兵への参加を呼びかけました。この夜、彼は家族とも離縁し、家財を売って武器を購入するなど、文字通り「灰になる」覚悟で、翌朝の号砲を待ったのです。


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