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第三十六話 ロガリアの紅茶

ロガリア使節団からの招請状は、昼を少し過ぎた頃に届いた。

ベルヴァーニュ使節団の執務室では、ジャン・ルヴェル書記官の報告からほぼ一日が過ぎていた。

それでも執務室の空気は、まだ片づいていなかった。


アルジュー侯はロガリアの招請状を手に取り、短い文面を読み終えてから低く鼻を鳴らした。

「ロガリア人は、他人の戦争を茶会にするのが好きらしい」


ド・サン=クレール少佐は、すぐには答えなかった。

文面は、ひどく穏やかだった。

"よろしければロガリアの紅茶を一杯、ご一緒したい"と。

これ以上ないほど社交的な書き方だった。


「断れると思うかね」

侯が言った。


「いいえ」

少佐は短く答えた。


「ならば、せいぜい紅茶が冷める前に行くとするか」

侯は即座に言った。

声には苛立ちが残っていたが、その判断だけは速かった。


社交の言葉で呼ばれる時ほど、話の中身は社交では済まない。

ペンブルック卿は紙片を読んだのだろう。

それは、おそらくこちらにとって拙いものだった。

その上で、公式協議の場ではなく自分の執務室へ呼んでいる。


つまり、まだ公式にはしないということだった。

ド・サン=クレールは招請状の末尾へ視線を落とした。

ロガリア使節団書記官の整った筆跡が、余白を少しだけ広く残している。


その余白が、かえって嫌だった。

まだ書かれていないだけで、書く場所はもう用意されているような心地がしたからだ。





ロガリア使節団の執務室には、実際に紅茶が用意されていた。


白い陶器のポットと銀の茶匙の側には、小さな砂糖壺。

薄く切られた焼き菓子が見事に三段の菓子台に整えられている。

そこだけ切り取るのであれば、午後の茶席としては申し分なかった。


部屋には、ペンブルック卿とロガリア書記官がいた。


ペンブルック卿は立ち上がって二人を迎えた。

動作は遅い。年齢のせいもあるだろう。

椅子の肘掛けに一度だけ指を置き、体重を逃がしてから背を伸ばす。

その遅さには、相手を待たせるための作為はなかった。ただ、急がない者の速度だった。


「侯爵閣下。少佐。お越しいただき、ありがとうございます」

 

アルジュー侯は礼を返した。

二人が腰を掛けたところで、ペンブルック卿自身がポットを傾けた。

手元はわずかに震えている。


「本日は、あくまで非公式の確認としてお聞きいただきたい」

「確認、ですか」

「ええ。紅茶の席ですから」


その言葉に、カップの湯気を見ていた。

淹れたての紅茶の香りは、ほとんど不愉快に近かった。

細い湯気が、机の上で一度だけ揺れる。


ペンブルック卿は、脇に置かれていた一枚の紙を手に取った。

「昨日から今日にかけて、少々込み入った紙の動きがありました」


侯の目が細くなる。

「紙の動きとは、随分と婉曲的ですな」

 

「はい。王宮内小応接室。王女殿下付き古参侍女マルト。ロガリア書記官立会い。ベルヴァーニュ使節団付書記官ジャン・ルヴェル殿同席。ノルトマルク側記録官としてライフェンベルク大尉同席」

淡々と、卿は読み上げていく。

「その場で、王女殿下からライフェンベルク大尉宛の私的な御挨拶状一通が差し出され、内容未確認のまま同大尉が私信として受領。受領時刻、差出人、宛先、内容未確認の旨は議事録付属記録に記載。その後原本保全の上、受領経緯付きで当使節団へ移管されました」


侯の顔は動かなかった。

だが少佐は、侯の指がカップの皿の縁へ触れたのを見た。


侯は低く言った。

「よくお調べで」

 

「調べたのではありません」

卿は経緯書を置いた。

「記録が、こちらへ参りました」


その返しの方が、嫌だった。

この老人は、探ってすらいない。

紙が勝手に集まってくる場所に座っているだけだ、と。


「本日は茶会と伺いましたが。卿は、我々を何の席へ呼ばれたのですかな」

侯が言った。


ペンブルック卿は紅茶へ視線を落とした。

「ご認識の通り紅茶の席です。まだ、そうしておきたい」





ペンブルック卿は、そこで紙片を机の中央へ置いた。


おそらく、あれが件の私信とやらだろう。

突きつける動作ではなかった。

ただ、静かに置いた。


「王女殿下より、このような紙が出ております」


三枚綴りの、薄い紙だった。

侯は紙片を手に取った。


三枚目のところで、指が一度だけ止まった。


その一瞬で、中身の向きだけは分かった。

正確な文言ではない。けれど、どの方向に悪いかだけは分かる。

王女が黙っていなかったのだろう。


「これは、本当に殿下の御筆跡ですかな」


侯は筆跡という手すりへ移った。

まだ手を掛けられる場所はあるように見えた。

ペンブルック卿は、茶匙を指で少しだけ動かした。


「私が今ここで筆跡を判じることはいたしません」

「しかし、そうでなければこちらの文書の正確性は」

「ええ。そうでなければ、確認が必要でしょう」


侯の目が少しだけ動いた。

少佐はカップの取っ手から指を離した。


「王女殿下が、ノルトマルクの一大尉へ私信を出す。それ自体が不自然ではありませんか」

「不自然であるかどうかは、殿下御本人に伺えば済むことでしょう」


どうあっても、そこから逃れられないと少佐は悟った。

偽書だと言えば、本人確認になる。

私信が不自然だと言えば、やはり本人確認になる。

王女の状態を問題にすれば、医師の所見と近侍の証言が必要になる。

どこへ向けても、最後には王女本人の言葉へ戻される。


卿の言葉は乱暴ではない。越権とも言い切れない。

ただ、確認しましょう、と言っているだけだった。

だからこそ始末が悪い。乱暴であれば抗議できる。侮辱であれば怒れる。

だが「確認」は怒りを乗せるにはあまりに細く、しかも折れにくかった。


その細さに、先に焼き切れたのは侯の方だった。


「ペンブルック卿」

侯の声は低かった。

「ロガリアは、いつから我が国の宮内庶務まで監督する立場になられたのですかな」

「監督ではありません。仲介です」


「仲介とは、ずいぶん広い言葉ですな」

侯はカップの脇に指を置いた。

「王女殿下の私信。ノルトマルク大尉の受領記録。我が使節団の説明。それが今、すべてこの紅茶の卓に載っている。ロガリアの仲介とやらは、海を越えて、他国の侍女の袖の中まで広がるらしい」


ペンブルック卿は何も言わなかった。

ただ穏やかに微笑んでいるように見えた。


「海の向こうの方々は、いつもそうだ」

侯の声が、そこで少しだけ上がった。

「大陸の火が小さいうちは、海から眺めておられる。火が大きくなれば、水を差しに来られる。そして消えかければ灰の置き場所まで指図なさる。今がその灰の頃合いですかな」


部屋が静まった。

ペンブルック卿は、カップを置いた。

白い髭の下で、小さく息を吐く。

紅茶の湯気が、ゆっくりと薄くなった。


そして反論も、怒りもしなかった。

まるで、その種の言葉を何度も聞いたことがあるようだった。


侯の言うことは、間違っていない。

ロガリアは後から来た。

ノルトマルクとベルヴァーニュが兵と金と面子を削り合った後で、この古い外交官が紅茶を持って現れ、紙の順序を整えている。

腹が立たぬ方がおかしい。

だが、腹が立つことと、勝てることは別だった。


やがて、ペンブルック卿が口を開いた。

侯の言葉には、一言も触れなかった。


「侯爵閣下。一つ、伺ってもよろしいか」


侯は何も答えなかった。

代わりに自分が口を開いた。

「ペンブルック卿。ロガリアはこの紙をもって、我々の説明を否定なさるおつもりですか」


卿は首を横に振った。

「いいえ。否定は、協議室で行うものです」


そこで、卿は咳をした。

短いものではなかった。

胸の奥から続けて出る咳で、卿は白いハンカチを口元に当てたまましばらく言葉を止めた。

ロガリア書記官が水差しへ手を伸ばしかけたが、卿は指先で小さく制した。


部屋の三人は、ただ待った。

咳が収まるまでの十数秒は、この席で最も長い沈黙だった。

卿はハンカチを下ろし、息を整えてから続けた。


「……失礼を。ここでは、その必要を減らしたい、と申し上げるつもりでした」


一瞬だけ息をついた。

本当に一瞬だった。

公開の場で叩かれるわけではない。

ロガリアは、この紙片を直ちに協議室へ持ち出すつもりではない。

だがすぐに、その安堵は薄くなった。

文言を選ばせてもらえるのは、すでに不利な場所に立っているからだ。


「この紙を明日の協議でそのまま出せば、貴国の保護請願の説明は厳しく問われるでしょう」


初めてこちらを明確に刺した言葉に、侯がやっと口を開いた。

「それは、脅迫ですかな」


「いいえ」

卿はすぐに答えた。

「日程の確認です」


そこで、ふと気づいた。

ロガリアの書記官は、部屋に入ってから何も書いていない。

ペンは持っている。だが紙の上には置いていなかった。


「あくまで、本日は交流のための茶会だと」

「ええ、そう申し上げております」


その言葉に、やはりペンブルック卿は穏やかに応じた。

そして一度だけ息を吐いて続けた。


「保護請願という語を、しばらく脇へ置かれてはいかがかな」


侯の口元が、わずかに歪んだ。

「脇へ?」

「ええ。王都混乱下における安寧確保。弔問使節団としての暫定的措置。そういう言い方も、世の中にはあります。王女殿下御本人の意思は、ロガリア仲介の下で確認する。王宮北翼の警備権限は、協議の進行に応じて整理する。貴国随伴部は、使節団安全確保の名目で段階的に再配置される」


卿の声は穏やかだった。

穏やかすぎて、かえって逃げ場がない。


頭の中で、いくつかの文が勝手に組み替わっていった。

王女殿下の安全確保に協力した。

北翼警備を整え、直接の危険を防いだ。

弔問使節団として、王女の安寧に関心を持った。

そこまでは残せる。


だが、王女本人の意思確認だけは先送りすることもできない。

王女不在の説明を、ベルヴァーニュ側だけで続けることもできない。


カップを持ち上げた。

紅茶は冷めていた。

飲んでも味がよく分からなかった。

侯は、まだ紙片を見ていた。


「我々に虚偽を認めろという事か」

「虚偽という語を使わずに済ませるための席です」


その一言で、カップを置いた。

音は小さかったが、自分にはやけに大きく聞こえた。


断罪されないために呼ばれた。

それは事実だった。

だが断罪されないためには、自分たちの口で言葉を捨てねばならない。


保護請願。その語を脇へ置く。

それは今回の出兵理由の芯を、自分たちの手で机の端へ退けるということだった。


侯は、ただ無表情でソーサーを指で掴んでいた。

面子と、ロガリアへの怒り。

その両方を手放せずにいる。


「閣下」

小さく言った。

侯は目だけをこちらへ向けた。


「ここで残せるのは、請願ではありません」

侯の眉が動いた。

「保護の体裁です」


部屋が静まった。

紅茶の香りだけが、まだ残っている。


「王女殿下の意思確認を拒めば、この紙片がそのまま協議の中心になります。認めれば、少なくとも我々は王女殿下の安全確保に協力した使節団でいられる」

言いながら、少佐は自分の声が少し乾いているのを聞いた。

「認めなければ、この後の戦局がどう転んだにしろ、我々はまずこの紙片から説明を始めることになります。王女殿下の請願ではなく、我々の判断で帝国の兵を動かしたのだと。勝っても負けても、その第一行は残ります」


「我々が、私欲で帝国を動かしたと?」

叫んでいないのが不思議な程の声だった。


少佐は、答えるまでに一拍置いた。

そうではない。

そのことを、誰より理解しているのは自分たちだった。

「そう書くことが、できます」


窓の外では、午後の光が庁舎の中庭へ差し込んでいた。

人の影が一つ横切り、すぐに消える。


侯は、ようやく口を開いた。

「つまり、負けたと自分で書けということか」


ペンブルック卿は、少しだけ目を伏せた。

「負けと書かずに済ませるために、こうして紅茶をお出ししております」


侯は動かなかった。

自分も動けなかった。

ロガリアの書記官だけが、目線を机へ落とした。


その申し出に対して、明確な同意はなかった。

侯は「分かりました」とは言わなかった。

そんな言葉を口にするにはまだ怒りが残っていたし、残っていなければ彼は侯爵でも使節団長でもなかっただろう。


だが、席を立たなかった。それが事実上の返答だった。


ペンブルック卿も、それ以上は押さなかった。

この老人は、きっとこのまま押すことの危険を知っているのだ。


「具体の文言については」

卿が言った。

「明日の協議までに、双方で無理のない案を持ち寄れればよろしいでしょう」


それは通告だった。

ロガリアが一方的に案を渡すのではない。

ベルヴァーニュ側が自分で、退路の文章を持ってくる。

自分たちの手で言葉を捨て、自分たちの手で別の言葉を拾うのだ、と。


侯は何も言わずに、ついに席を立った。





ロガリア使節団の執務室では、飲み残しの紅茶が二つ残っていた。


アルジュー侯のカップは、最後まで減っていない。

カップの縁に、口の触れた跡もなかった。

ド・サン=クレール少佐のカップは、少しだけ減っている。

冷めた紅茶の表面に、薄く膜が張り始めていた。

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