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第三十五話 外堀の記録

ベルヴァーニュ使節団書記官、ジャン・ルヴェルが執務室へ戻った時、上着の背に薄く汗が滲んでいた。


暑さのせいではない。


王宮の廊下は石造りで、磨かれた床には人の靴音がよく響く。走るには向かない廊下だった。

それでもルヴェルの足音は知らずに大きくなっていた。


執務室の前で一度だけ足を止め、息を整える。

先程の件を報告しなければならない。したくはないが、しなければもっと悪くなる。

ルヴェルは扉を叩いた。


「入れ」


アルジュー侯の声だった。

室内には昼前の光が入っていた。

机の上には王宮北翼の警備確認別葉、宮内庶務日報、静養室出入り確認簿の写しが重ねられている。

さっきまで彼らがその紙を見ていたことは、位置だけで分かった。

ド・サン=クレール少佐は窓際に立っていた。薄い灰色の視線だけが、ルヴェルの顔に向けられる。


「ルヴェル書記官、報告を」


少佐が言った。

ルヴェルは一礼し、意を決して口を開いた。


最初の数文は、まだ整っていた。


ロガリア使節団は、王女殿下への弔慰と見舞いをマルト経由で伝えたこと。

ペンブルック卿は、ロガリア国王陛下の名において故王への哀悼と王女殿下の快癒を祈念する文面を読み上げたこと。

その後、殿下の日々の御様子について問われ、殿下の状態について証言したこと。


アルジュー侯は、そこまでは黙って聞いていた。

侯の指は机の端に置かれていた。爪は短く整えられている。

ルヴェルは続けた。


「その後、ペンブルック卿は、殿下よりロガリア王室あるいは仲介使節団への御言葉があれば、口頭でも書面でも受け取る、と」


そこで、少佐の目がわずかに細くなった。

アルジュー侯の指も、止まった。


「それで」


侯が言った。

ルヴェルは喉を鳴らした。


「マルトが、紙片を取り出しました。ノルトマルク側の同席者――ライフェンベルク大尉宛の、王女殿下からの私的な御挨拶であると」


部屋の空気が、少し落ちた。

そう感じた。


「もちろん、私は制止しようといたしました。殿下より連邦軍士官への書面であれば、宮内庶務を通す手続きがある、と」

「…で、その紙片は回収できたのか」

「し、しかし――ライフェンベルク大尉が、公的文書としては扱えないが、私宛の私的な御挨拶として預かる、と述べました。内容は未確認とし、この場での受領事実のみ、議事録の付属記録へ残す、と」


侯の表情は変わらなかった。

むしろ、そこで変わらなかったことが恐ろしかった。


「さらに」

ルヴェルの声が少し掠れた。

「異議があれば、その旨も付記する、と」


部屋の中で、紙の擦れる音がした。

アルジュー侯が、机上の照会文を押しのけた音だった。


「……それで、君はどうしたのだ」


ルヴェルは言葉を選ぼうとした。

選ぼうとして、失敗した。


「ロガリア使節の前で、王女殿下からの私的な御挨拶に異議を付ければ、その異議が記録に残ります。私信送達への異議は、かえって」

「なぜそのまま渡した!」


侯の声は、整っていなかった。

壁に掛かっていた小さな銀の額が、かすかに鳴った。

ルヴェルは背筋を伸ばした。


「も、申し訳ございません。しかし、中身も分からぬ私信で、しかも王女殿下からライフェンベルク大尉への挨拶という体裁でございました。あの場で強く止めれば、殿下の御言葉をベルヴァーニュが遮ったという形に――」

「だからこそ止めるべきだったのだ!」


今度は机を叩いた。

机上の封蝋棒が小さく転がり、インク壺の縁に当たって止まった。

ルヴェルは言い募ろうとした。


「で、ですが、閣下、止める理由がありませんでした。私が強く止めればむしろそれが記録されてしまうのではないかと」


そこで言葉が詰まった。

突き詰めるならば、あそこで無理に止めることができなかったのは、あの部屋の空気がそうさせたのに近い。

それをどうしても言語化することができなかった。


ド・サン=クレール少佐が、そこで一歩だけ机へ近づいた。


「閣下」


アルジュー侯はまだルヴェルを見ていた。


「少佐。君はこの判断を擁護するのか」

「擁護はいたしません」


少佐の声は平らだった。


「ただ形式上の判断としては、ルヴェル書記官が即座に強制制止しなかったことは理解できます」


ルヴェルはその一言に、かえって視線を上げられなかった。

救われたわけではない。

むしろ、処理されているのだと分かった。


「私信という体裁。ロガリア使節の立会い。ノルトマルク記録官による受領記録。異議付記の示唆。いずれも、あの場で強く止めるには悪い条件です」


「ならば」

侯の声は低かった。

「君も止めるべきではなかったと言いたいのか」


「いいえ」

少佐は短く答えた。

「どちらの選択にしても拙いのは確かです。ですが、それでも渡すべきではありませんでした」


ルヴェルの指先が、礼装上衣の縫い目を軽く押さえた。

反論はできなかった。


「なら君が行けばよかった」

アルジュー侯は、今度は少佐へ顔を向けた。

「君が同席していれば、あの侍女が袖から何かを出す前に止められただろう」


少佐はすぐには答えなかった。

窓の外で、遠い廊下を歩く兵の靴音がした。


「私が同席すれば、それ自体があの場の政治的意味を引き上げます」

少佐は言った。

「あれは、王女殿下への弔慰と御見舞いを近侍へ伝えるだけの小儀礼でなければなりませんでした。私が座れば、こちらが警戒していると見える」

「警戒していたのだろう」

「はい」

「なら隠すべきではなかったな」


侯の言葉には棘があった。

少佐はそれを受けた。

顔はほとんど動かさなかった。


「失敗は、マルトを空の手で入れる形式を作れなかったことです」

その一言で、アルジュー侯の目が少しだけ動いた。


「空の手?」

「ええ」


少佐は机上の警備確認別葉を指先で押さえた。

「本来なら、弔慰文は書記官が朗読し、マルトは口頭で返礼を預かるだけの形式にしておくべきでした。あるいは、殿下より返礼がある場合は宮内庶務を経由する、と事前に定めるべきだった」


ルヴェルは、そこで初めて少し顔を上げた。


返礼は口頭のみ。

書面は宮内庶務経由。

弔慰文は使節団側が読み、近侍は受けるだけ。


そういう形にしていれば、マルトが紙を出す瞬間はなかった。


「ペンブルック卿が"口頭でも書面でも"と言った時点で、こちらは一手遅れました」


少佐は続けた。


「マルトが紙を出す余地を、こちらの手で残していたのです」


アルジュー侯はしばらく黙っていた。

そして、低く言った。


「中身は」

「ふ、不明です」


ルヴェルの言葉に、侯は机の縁を指先で叩いた。


「ただの挨拶かもしれんし、そうでないかもしれん。そういうことか」

「はい」


少佐がそう答えて、侯は押し黙った。


「ライフェンベルクはどこまで読んでいた」

やがて、侯が言った。





ド・サン=クレールは、すぐには答えなかった。

その問いこそが厄介だった。


ライフェンベルク大尉がどこまで読んでいたのか、少佐には分からない。

王女殿下との知己という体裁を、あの若い大尉がその場で使ったのか。

あの小応接室の前から話が通っていたのか。それともマルトがあの場で考え、ただ差し出された紙を処理しただけなのか。


いや、もっと言うならば、どこまでが偶然で、どこまでが作為なのか。

殿下と私的な知己がある。

挨拶を出す程の交友と理由がある。

殿下が事前に私信を用意している。

あの会談にロガリアから同席を指名される。

差し出された紙片を、こちらに戻させないだけの論理を積み上げる。


それら全てを偶然と呼ぶには、少しばかり都合がよすぎた。


ルサントでの任務の前、あの大尉への自分が出した評を思い返す。

『ライフェンベルク大尉は、あくまでその制度の接点に現れる士官です』


彼は、たまたま制度の継ぎ目に現れてそれを埋めていた。

そのようにしか見えなかった。

――その分析は、本当に正しかったのだろうか?


「少なくとも」

絞り出すように言った。

思考を声にしたかったからだ。

「あの場を決定的なものにしたのは、ライフェンベルク大尉です」


「小童が」

侯は机の上に視線を落としたまま、吐き捨てるように言った。

その声には、怒りとは別のものが混じっていた。

国境駅でも、葬儀でも、小応接室でも、いつも同じ若い士官が、場の名札を貼り替えてくる。


ルヴェルは、ただ侯の前に立っていた。

彼の報告は終わっている。

だが、下がれとは言われていない。

ド・サン=クレールは、その言葉を自分が言う気にはどうしてもなれなかった。





クラウスは、封筒を手にして廊下を歩いていた。

封筒は薄かった。

封蝋の盛り上がりを入れても、指の間に容易く収まる。

だが薄い紙が軽いとは限らない。むしろ、たまに人間より重くなる。


中身は王女の紙片三枚と、ハルトゥング少佐が起草した受領経緯書、議事録付属記録の控え。

昨夜のうちに、ヴィルマー中将が封緘を整えた。

クラウスがやることは、これをロガリア使節団へ持っていき、どういう経緯で自分の手に渡ったかを説明することだけである。


それだけのことだが、気は進まなかった。


紙を運ぶのは慣れている。

受領経緯を説明するのも、手順を述べるだけなら難しくない。

問題は、自分が運んでいるものが何であるかを自分が知っていることだった。

中身を知らなければ、ただの配達だった。

知ってしまった以上、これは配達ではなく証言に近い。


王都庁舎の廊下は、朝のうちはまだ涼しい。

すれ違う事務官が一人、書類束を抱えて足早に過ぎていった。

彼は、自分が運んでいる紙が何なのかをたぶん知らない。

それが少し羨ましかった。


ロガリア使節団の執務室は、一階の奥にあった。


書記官が扉を開けた。

ペンブルック卿は机の向こうに座っていた。

紅茶の湯気が立っている。

卿はクラウスを見ると椅子から立ち上がって迎えた。

この老人は、いつ見ても急いでいない。


「ライフェンベルク大尉」

そして、どこか嬉しそうに穏やかな顔で言った。

「お待ちしておりました」


「先般通達しました通り、ノルトマルク西部臨時軍団より、王女殿下私信原本ならびに受領経緯書をお持ちいたしました」


クラウスは封筒を開いた。

まず受領経緯書を取り出して、卓上に置く。

本文の三枚は、その下に伏せたままにした。

説明する順序として、経緯が先で、中身が後だと思ったからだ。


ペンブルック卿は、その意図を確かめるでもなく、受領経緯書を先に取った。

クラウスが何か言うより早く、卿の目は紙の上を動いていた。


「小応接室。王女殿下付き古参侍女マルト。宛先、ライフェンベルク大尉。件名、御挨拶状一通。内容未確認。受領時刻、午前十時四十二分」

卿はそこまで読み上げ、クラウスを見た。

「この通りでよろしいかな」


「はい」

「その場では開封していない」

「はい。内容は確認しておりません」

「ベルヴァーニュ側の書記官は、制止を試みた」

「はい。殿下より連邦軍士官への書面であれば、宮内庶務を通す手続きがある、と」


卿はそこで少しだけ頷いた。

「それに対し、大尉は」

「公的文書としては扱えないが、私宛の私的な御挨拶として預かる、と整理しました。内容は未確認とし、この場での受領事実のみ議事録付属記録に残す、と」

「なるほど」

「御異議があれば、その旨も付記すると申し上げました」


ロガリアの書記官がそこまで記録し終わって、ペンを止めた。

卿は満足そうに頷いて、経緯書を机の上に置いた。


「あの時の記録が、役に立ちましたな」

「結果としては、そのようです」

「ええ、結果として」


卿は穏やかにそう反芻した。


「では、原本をお渡しいたします」

クラウスは封筒を差し出した。

封緘はヴィルマー中将のものだった。

ロガリア書記官がそれを確認し、受領欄へ時刻を書き入れる。

卿は封蝋を慎重に割った。


紙片は三枚あった。

裁縫用の型紙の余りのような材質の、粗末で誰もが無視できなかった紙。


卿は一枚目を読んだ。

顔は動かなかった。


二枚目を読む。

紅茶の湯気だけが、机の上で揺れている。


三枚目を読み、署名のところで少しだけ指を止めた。

おそらく数秒でしかない。

だが、部屋の中では妙に長く感じられた。


やがて卿は、三枚を元の順に重ねた。


「たしかに、お預かりいたしましょう」


声は静かだった。

驚きも、怒りも、勝ち誇る響きもなかった。

それがかえって、紙片が本当に別の場所へ移ったのだとクラウスに分からせた。


「では、私はこれで」

「ええ。ご苦労さまでした、大尉」


クラウスは扉へ向かった。

手が空になっている。

そのことが、妙に落ち着かなかった。

さっきまで持っていたものがない。それだけで腕の位置が少しずれる。


扉の前で礼をし、取っ手に手を掛けた時だった。

ペンブルック卿の声が、背中に届いた。


「書記官」

「はい」


声は変わらず穏やかだった。


「アルジュー侯とド・サン=クレール少佐へ。ロガリアの紅茶をぜひ、ご一緒したいと」

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