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第三十七話 敗北の設計

ロガリア使節団の執務室を出てから、アルジュー侯はしばらく何も言わなかった。


王宮庁舎の廊下は夕方の光を低く受けて、磨かれた石床に靴音だけを返している。

速い。けれど走ってはいない。

ド・サン=クレールは半歩後ろを歩きながら、侯の右手が手袋の縫い目を何度も押しているのを見ていた。


執務室へ戻ると、侯は手袋を外した。

机の上へ置いたというより、落としたに近かった。

椅子には座らなかった。


「仲介者とは、よい身分だ」

侯が言った。

「兵を動かさず、銃も撃たず、人の失敗に名を付ける」


声は、まだ低かった。

侯は先ほどよりも冷静であるように見えた。


「仰る通りです」


答えた。

その平らな声がいけなかったのかもしれない。

侯の手が、机を打った。

インク壺が鳴り、砂壺が傾いた。

乾燥砂が机の上の紙へざっと流れ出す。


「ルヴェル!」


侯が怒鳴った。

控室にいたルヴェルが、転がるように入ってきた。

その顔はすでに白かった。

昨日よりも、なお蒼白に見えた。


「書け! 今すぐだ!」

「は、はい!」


ルヴェルはペンを取った。手が震えている。


「本国へ送れ。一部始終を。隠さず、削らず、今夜のうちにだ」

「は、はい」

「ロガリア仲介使節は、ノルトマルクの大尉を経由して得た出所不明の紙片をもって、我が国の保護措置に疑義を呈した。これは仲介の範囲を逸脱するものであり――」


まだ文章の形をしていた。

少なくとも、最初は。

侯は机の横を歩きながらしゃべっていた。


「ベルヴァーニュ帝国の威信は、この王都で侮られている。ロガリアは茶器を並べて我々を裁き、ノルトマルクは一大尉の私信を盾にしている。王女殿下は、我が国の血縁と保護を――」


ルヴェルのペンが止まりかけた。


「止めるな、書け!」


ペン先が紙を掻く音だけが続いた。


「ロガリアが、ノルトマルクが、ルサントが! どれだけ礼儀がなっていないかを書け!」


ルヴェルは顔を上げなかった。

書く以外に、この部屋でできることがなかった。


「兵だ」

侯の声が、そこで割れた。

「兵を出させろ! ルサントへ、もう一個師団、いや二個師団だ! ベルヴァーニュが本気で動けばどうなるかを思い知らせろ!」

「閣下、それは」

「舐められているのだ!」


咄嗟に出た言葉を、侯は即座に遮った。


「海の向こうの老いぼれに! この小さな国の王女一人に! 挙句、連邦の小童にだ!」


机上の砂が、侯の袖先に触れて白く付いた。

それを気にした様子もなく、唾を飛ばし続けていた。


「書け、ルヴェル! 最後にそう書け! ベルヴァーニュの威信をこれ以上損なわせてはならんと!」


止めるべきだとは思った。

だが今止めれば、侯の怒りは自分へ向かうだけだ。

あるいは、もっと悪い場所へ向かうかもしれない。


そもそも、渦中の“王女殿下より要請ありし保護出動”。

その文言を最初に求めたのは侯だった。

あのとき侯は上機嫌だった。

王都は揺れている。王女は不安の中にある。ベルヴァーニュが安寧を守る。

それを保護と呼んで何が悪いのか、と。


危険だと思った。けれど反対しきれなかった。

そして自分は、その語が立つように紙を整えた。

侯が使いたがった言葉に、実務上の足場を付けたのは少佐だった。

だから、いま侯が見苦しく怒鳴っている責任は自分にもある。


しかし腹の底では思う。

命じたのはあなたのはずだ、と。


いつの間にかルヴェルの手元には、侯の怒りがそのまま残っていた。

ロガリアへの非難。ノルトマルクへの侮辱。王女への恨み。ベルヴァーニュの威信。追加兵力の要求。罵倒に近い数々の叫び。


このままでは本国へ送れない。

送れば内容以前に、現地使節団長が取り乱していると読まれる。

あるいは、読まれすらしない。


結局、考えてから口を挟んだ。

「ルヴェル書記官、その文面では送れません」


侯が振り返る。

「何を勝手に決めている」

「このままでは、本国は回答しません」

「なんだと?」

「いえ、考慮すらされません」

「私の言葉が届かないというのか!」


侯が机を叩いた。

さっきこぼれた砂が少し跳ねた。

ルヴェルのペンが止まる。


「ロガリアが何をしたかを書けと言っている! ノルトマルクが何をしたかもだ! あの恩知らずの王女が、我々の好意をどう足蹴にしたかも書け!」


「本国が欲しいのは、誰に腹を立てるべきかではありません」

そこまでは、声を押さえたつもりだった。

「どの名目で、何を命じられるかです」

「ならば命令にしろ! だから兵を出せと書けと言っている!」

「それは、命令ではなく願望です!」

室内が止まった。

反射的に息も上がっていた。

自分自身も、いつしか冷静ではなかったのだと気付いた。

ルヴェルが目を伏せたまま固まっていた。


侯の顔が変わった。

「……少佐」

「失礼を」

「君は、誰の側にいる」


その問いは刺さった。

ロガリアではない。ノルトマルクでもない。ルサントでもない。

ベルヴァーニュの側にいる。

けれどそれは、侯の側にいるということではない。


「閣下の文を、本国が読める形にしております」

「いつから君はそれほどまでに偉くなった?」

「いいえ、閣下。閣下のためです」


「私のため?」

侯はその語を噛んだ。

「なら書け。『ベルヴァーニュ帝国の威信は、この王都において著しく害された』と」


ルヴェルがペンを動かしかける。

それを遮った。


「『保護請願を維持するため、追加の軍事的示威または前進を認めるか』で足ります」

「足りん!」

「足ります」

「足りんと言っている!」


侯はまた机を叩いた。

インク壺が倒れかけ、ルヴェルが慌てて押さえる。彼の指先に黒いインクがついた。


「本国が兵を出すなら――その一文で出します。出さないなら、どれだけ侮辱を書いても出しません」


侯は何かを言おうとして、言わなかった。

ルヴェルの草稿を自分が受け取った時も、侯は何も口を挟まなかった。


ロガリアへの罵倒を消す。王女への恨みを消す。兵を出せ、という叫びを消す。

消すたびに、侯の呼吸が荒くなった。


残したのは、使える骨だけだった。


王女殿下より、ベルヴァーニュ軍への保護請願を否定する私信が出たこと。

その私信がロガリア仲介使節の手に渡り、受領経緯も記録されていること。

ロガリアが王女本人の意思確認を要求する見込みであること。

本国として、王女殿下より正式保護請願を受領した記録を有するか。

保護請願を維持するため、追加の軍事的示威または前進を認めるか。

今後の公的説明において、至急指示を請うこと。


最後に、一文だけ残した。


"本件はベルヴァーニュ帝国の威信に関わる重大事案であり、

現地使節団としてはこれ以上の侮辱的取扱いを甘受しがたきものと認識する。"


本当は削りたかった。

だが完全に削れば、侯はこの紙を送らせないだろうとも思った。


ルヴェルが清書した電文を持って出ていっても、侯はまだ立っていた。

椅子は半ば横を向き、机には砂が散っていた。


「禿鷹のロガリア人め」

しばらくして、侯が言った。


「ノルトマルク、あの礼儀知らずの山賊どもが!」

侯は、床に落ちた手袋を見た。

「忌々しいライフェンベルクもだ! 鋤の柄に紋章を彫っただけの田舎騎士が!」


目を合わせられなかった。

ただ、机上の砂を見ていた。


「王女殿下も、実によく書かれたな」

侯の声は、ここでやっと怒鳴り声ではなくなった。

それでも、十分に悪い声だった。

「父王の葬儀より、紙の一行の方がお上手らしい」


醜い言葉だった。

だが、その醜さを責める資格が自分にあるかは分からなかった。

王女を紙で処理される存在にしたのはベルヴァーニュ側であり、その処理を実務にしたのは自分だったからだ。


返電が届くまでの時間は、ひどく長かった。

侯は何度か歩き、何度か止まった。座ることがあっても、長くはなかった。

こぼれた砂は誰も片づけないまま、机の上に白く残った。





返電は、夜半をかなり過ぎて届いた。

それは速すぎるほど速かった。


ルヴェルが受領し、封を確認してからこちらへ渡す。

侯が紙を奪うように取った。


一度目は黙って読んだ。

二度目は、途中から声に出した。


「王女殿下の安寧確保に関する諸措置は、現地使節団が王都情勢、弔問使節団の職責および殿下との血縁的近接性を踏まえ、暫定的に判断したものと承知する」


侯はそこで止めて、繰り返した。


「現地使節団が……暫定的に判断したものと承知する」


机を叩いた。

今度は遠慮がなかった。


「戦争省も、外務省も、宮廷も、皆、分かっていたではないか! だが、命じてはいないだと!? 馬鹿なことを言うな!」


ルヴェルが立ち尽くしていた。

侯は続きを読んだ。


「……本国関係諸官庁においては、王女殿下より帝国政府宛に提出された正式保護請願の原本受領を、現時点で確認せず」


部屋が、ひどく乾いた。


「追加の軍事的示威または前進については、列国仲介の進行および大陸情勢への影響に鑑み、現時点では新たな指令を発しない」


紙が、侯の手の中で歪んだ。


「今後の列国仲介においては、貴使節団が現地実情に即し、帝国の名誉を損なわぬ形で適宜説明を整理されたい。なお、王女殿下の御処遇につき、過度の強制的印象を生ぜしめぬよう留意されたし」


読み終えた。

誰もすぐには動かなかった。


"本国は正式請願の原本を持っていない。

王女保護は現地使節団の暫定判断である。

追加の軍事的前進は認めない。

今後の説明も現地で整理せよ。

帝国の名誉は損なうな。

王女への強制的印象は避けろ。

責任は現地にある。"


どこにも、侯の言葉は残っていなかった。

侯は返電を机へ叩きつけた。

こぼれた砂が、返電の余白にいくつか貼りついた。


「次の赴任地は植民地だ」

侯は言った。

「砂漠か密林だな。私も、君も」

「ええ、覚悟はしております」

「つまらん。軍人というやつの矜持とでも?」


「ええ、閣下」

できるだけ感情を乗せないように答えた。

「軍人は命令に従うものです。それがたとえ納得のいかないものであっても、最善を尽くします」


侯の目が、少しだけ動いた。

その言葉がただの服従論ではないことを、侯も分かったのだろう。


侯は舌打ちに近い音を立て、横を向いていた椅子を戻した。

だが、座らなかった。


「それで、何を書けばいい」


新しい紙を一枚出し、ペンを走らせる。


文案は短かった。

王女殿下本人の意思確認に従うこと。

王宮北翼の警備を、ロガリア仲介下の警備権限整理に伴い再配置すること。

ベルヴァーニュ使節団は、王都混乱下における王女殿下の安寧確保のため、暫定措置を取ったものとすること。


侯にその紙を手渡すと、どこか酷く醒めた様子でそれを見た。

その目が途中で何度か止まるたびに、唇の端がわずかに動いた。


「……こんな紙を」

声は低かった。

「こんな紙を、私に出すのか」


何も言うことはできなかった。

やがて、侯は笑おうとしたのだろう。喉から空気が漏れた。

けれど、笑いにはならなかった。何かが擦れたような音がしただけだった。


いつもの侯とは全く違って、ペンを取る手が乱暴だった。

署名欄の上で、一度だけ止まる。


署名も、いつもの整った字ではなかった。

最初の一画が強すぎて、紙の繊維が少し毛羽立った。

途中でペン先が引っかかり、最後の線だけが妙に長く流れた。


ルヴェルが息を呑んだ。

侯は最後に、ペンを投げるように置いた。


「本国へ送れ。ロガリアへも出せ。ノルトマルクにも見せろ。……ああ、好きにするがいい」

それきり、何も言わなかった。

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