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第二話 名誉の欄と時刻表の欄

翌々朝、クラウスは、気の進まない早朝列車に乗って西へ向かった。


なぜ軍の列車はいつも早いのか、と彼は思った。

人間の胃袋と機嫌がもっとも脆弱な時間帯に、わざわざ移動を強いる合理的理由がどうしても思いつかない。

時刻表を作った人間は、朝食を楽しむという概念を持たないのだろう。


食堂車で出された朝食は、パンが固く、卵が熱すぎ、コーヒーが薄かった。

三つとも中途半端に不愉快だという点では、よく統一されている。


それでも、車窓に流れる西方の平野を眺めているうちに、気分は少しだけ落ち着いた。

風景に興味があるわけではない。

所々に見える側線の分岐、貨車置場の広さ、石炭庫の積み上がり具合。

そういうものを目で追っていると、頭が勝手に数字を拾い始める。

あの石炭庫なら機関車何編成分、あの側線なら貨車が何両入る、という具合に。


線路と倉庫と時刻表は、少なくとも人間よりは理屈どおりに動く。

今から会いに行く人間たちがそうでないことは、もう分かっている。




西部総監府の置かれたシュタインフェルトに着いたのは、昼を少し回った頃だった。


駅舎は王都ほど華美ではないが、石材は厚く、軍港でもないのに兵站倉庫の数だけは妙に多い町だった。

国境に近い都市はたいていそうだ。見栄えより搬送力が先に整えられる。


そういう実直さは嫌いではない。

人間もそうであってくれたら、自分はこんなところまで来なくて済んだのだが。


ホームに迎えの士官が立っていた。

三十代半ばほどの、痩せた中佐である。

頬骨がやや高く、制服の襟元に無駄な乱れがひとつもない。


「メルテンス中佐です。西部総監府参謀局付。お迎えに上がりました、ライフェンベルク大尉」


握手の力加減が、過剰でも不足でもなかった。

こういう人間はだいたい有能だ、とクラウスは思った。

そして有能な人間は、他人の無能にも敏感である。

なるべくボロは出さないようにしよう、とも思った。


馬車に乗り込むと、メルテンスは前置きを一切挟まず本題に入った。

「先に申し上げておきますが、閣下方は皆、大尉殿を歓迎しております」


「それはありがたいことです」


「必ずしも、気楽な意味ではありませんが」

メルテンスは窓の外を見たまま言った。

「ルーデン邦軍もハルツ邦軍も、統帥府の派遣士官が自分たちの主張を認めに来たと思いたがっております。両方ともそう思っている以上、現時点ではまだ均衡が保たれています」


つまり、自分がどちらかの肩を持った瞬間に爆発するということだ。

それは均衡というより導火線ではないか。


「争点は行軍順だけですか」


「表向きは」

メルテンスは短く答えた。


「実際には、右翼を誰が担うか、です。ルーデンは伝統を持ち出し、ハルツは兵力構成を持ち出す。どちらも、自分たちが演習総評で主役として書かれたいだけです」


なるほど、とクラウスは思った。

戦術の問題ではなく、誰の名前がよい位置に載るかの問題なのだ。

初等学校の聖誕祭で主役を取り合うのと本質は変わらない。

違うのは、取り合っているのが少将閣下二名と、その背後の兵員と、数百年分の邦の誇りだということくらいである。


「もっとも」

とメルテンスは付け足した。

「その程度の虚栄で済んでいるうちは、まだ平和とも言えますが」


この中佐はわりと好きだ、とクラウスは思った。

状況を正確に見ていて、しかも皮肉を言う余裕がある。

少なくとも怒鳴りはしなさそうだ。





総監府に着くと、まず資料の束を渡された。


演習概要。

各邦軍の展開予定。

輸送計画。

砲兵弾薬配分。

糧秣表。

馬匹数。

臨時仮橋資材の到着予定。


厚い。

かなり厚い。

だが、開いてしまえば不思議と気は楽になった。

紙の上の数字は怒鳴らないし、侮辱もしないし、名誉も主張しない。

ルーデン邦の石炭申告が少なめなのは王都でも西部でも変わらなかった。

ある意味、安心する。世界にはまだ一貫性というものがあるからだ。


午後は名刺交換のような会見が続いた。


ルーデン邦軍のヴォルクマン少将。

髭の手入れに時間をかけすぎている顔をしていた。

口を開けば「伝統」と「名誉」が出てくる。

ルーデン邦は西方防衛の盾であり、ゆえに右翼を担う資格は歴史的に自明である、と彼は語った。


自明なら説明しなくてよいのでは、と思ったが、もちろん言わなかった。


一方、ハルツ邦軍のブレンナー少将。

こちらは乾いた人間だった。

兵力表を机へ広げ、重砲兵と工兵と架橋部隊の比率から見て、今回の想定戦域における実質的主攻はハルツでなければならない、と論じる。

数字を使う分だけまだ聞きやすいが、その数字の並べ方にも十分に名誉欲が滲んでいた。


クラウスはどちらにも、ほとんど同じ態度で応じた。

最後まで聞く。必要最低限だけ頷く。断言はしない。


別に戦略があったわけではない。

どちらが正しいか分からなかったから、頷くしかなかっただけだ。


ところが、妙なことが起きた。

ヴォルクマン少将は、その態度を「若いのに伝統を尊ぶ慎み」と受け取ったらしい。

ブレンナー少将は「軽率に結論へ飛びつかない理知」と受け取ったらしい。


同じ沈黙なのに。

同じ頷きなのに。


人間は、相手の沈黙へ自分が見たいものを勝手に入れる。

便利な性質だ。少なくとも自分にとっては。


夕刻、メルテンス中佐が小さく肩をすくめながら言った。

「初日としては上出来です。両閣下とも、大尉殿が自分たちの話を理解してくださったと確信しておられます」


「私は、ほとんど何も言っていませんが」


「そこが肝要なのです」

メルテンスの口調には薄く皮肉が混じっていた。

「大声で話す方々は、他人が沈黙していると、自分に賛同していると判断なさる。便利な習性です」


この中佐とは仲良くなれそうだ、とクラウスは本気で思った。





その夜は総監府の客室で、暖炉の火が半ば落ちかけるまで輸送表を眺めていた。

別に熱心なわけではない。

明日の会議で怒鳴られないための予習にすぎない。


だが、表をめくっているうちに、ちょっとしたことに気づいた。

ルーデン邦軍は、例によって石炭消費量を少なめに見積もっている。

各邦軍は、この種の楽観を愛国心の一種と取り違える傾向がある。

一方、ハルツ邦軍は重砲兵列車の到着時刻を正直に書いている分だけ誠実だが、そのせいで初日の展開時間が長いことが数字にはっきり出てしまっていた。


そして――ヴァイデ川の仮橋完成予定は午前十一時。

あ、とクラウスは思った。


橋ができるの、十一時なのか。


つまり、右翼へ主力を送り込めるのは早くて昼前だ。

双方が血眼になって奪い合っている「初日右翼」は、朝から数時間、渡河と行軍と整列で消える場所でしかない。

そこに主力を詰め込めば、演習は始まった瞬間から渋滞になる。


名誉もへったくれもない。

物理的に、全部は入らないのだ。


クラウスは表の余白に赤鉛筆で書いた。

ルーデン先導。ハルツ主力後着。公報上の扱い分離。


書いてから、自分でもひどく事務的だと思った。

だが、名誉の衝突というのは言葉が大きいだけで、実際には欄を分ければ済む場合が多い。

ルーデンには「先導」の名誉を、ハルツには「主力」の名誉を。

同じ右翼でも、時間帯で切れば二つの欄ができる。


これで両方の顔が立つかな、とクラウスは思った。

立ってくれれば、少なくとも明日は怒鳴られずに済む。





翌朝の協議室は、案の定、初手からこじれた。


ヴォルクマン少将は、ルーデン邦の先鋒権が軽んじられていると憤った。

ブレンナー少将は、実際に敵を砕くのがどちらの砲兵か分かっているのかと冷ややかに応じた。


総監府側の士官たちは、どちらにも明確に肩入れできず、議論は徐々に「右翼」の定義そのものへずれていった。


形式上の右翼か。

主攻方向としての右翼か。

演習公報に記載される右翼か。

閲兵時の序列としての右翼か。


言葉が増えるほど、結論は遠のく。

クラウスは卓の端で資料を見ていた。


正確に言えば、割って入る勇気がなかった。

この手の場面で下手なことを言うと、どちらかの面子を傷つけ、それを何年も記憶される。

人間は数字の誤りより侮辱を長く覚える生き物だ。


だが、このまま黙っていても終わらない。

終わらなければ明日の演習が始まらない。

演習が始まらなければ、自分がここにいる意味がない。

意味がなければ帰れない。

帰れないのは困る。


やがてメルテンス中佐が、半ば助け舟のように言った。

「統帥府からのご見解はいかがでしょう、ライフェンベルク大尉」


全員の視線が集まった。


クラウスは一度だけ喉を鳴らした。

昨夜の赤鉛筆のメモを思い出す。

ルーデン先導、ハルツ主力後着、公報上の扱い分離。

あれをそのまま言えばよいのか。

いや、そのままだと「統帥府が勝手に決めた」と取られるかもしれない。

もう少し、相手が自分で気づいたような言い方にしないと――


「……失礼ながら」

と彼は言った。

「ルーデン邦の先導権と、ハルツ邦の主力運用を、分けてお考えになるのがよろしいかと存じます」


部屋が静まった。

説明不足だ、と彼は思った。

もう少し言わないと。

「初日午前の段階では、ヴァイデ川の仮橋完成が十一時予定です。ハルツ邦の重砲第三列車は、それ以後でなければ右翼に収まりません。逆に、ルーデン邦は騎兵と軽砲で先導しやすい。でしたら、初日の右先鋒はルーデン邦、第二段の右半翼主力はハルツ邦とし、公報では両邦の任務を並記なされば……」


そこで一瞬迷った。

本当に言いたいことは、この後だった。

「……その方が、揉めずに済むかと」


言ってしまってから、「揉めずに済む」は少し身も蓋もなかったかな、と彼は思った。

だが、周囲の反応は違う方向へ動いた。


ヴォルクマン少将が眉を上げる。

「先導権はルーデンに残る、と」


ブレンナー少将が続く。

「そして主力右翼の評価は、実動に応じてハルツにも帰するわけだな」


メルテンス中佐は資料へ視線を落としながら、ほとんど感心したような顔をした。

総監府の参謀たちも顔を見合わせる。


クラウスからすれば、あれは「仮橋が十一時だから全部は入らない、だから分ければいい」というだけの話だった。

時刻表に書いてあることを、そのまま言ったにすぎない。


だが、彼らは別のものを聞き取ったらしい。

西部総監府の上席参謀が言った。

「行軍序列と作戦序列を切り分けるわけですな。名誉と実務を混同しない。……連邦的だ」


連邦的。

こういう抽象的な褒め言葉は、一度人に貼りつくと長持ちするような気がする。

「仮橋が十一時だから」と言っただけなのに、そのうち「連邦的視座の持ち主」とでも書かれるのではないか。

そう思うと、少しだけ気が重かった。


だが、効果はあった。

ヴォルクマン少将は、初日の右翼先導が残ることで満足した。

ブレンナー少将は、主力運用の評価が確保されると見て態度を和らげた。

どちらも完全な勝利ではない。だからどちらも現実的だった。


『完全な勝利を望む者は交渉に向かない。不完全な勝利で納得できる者だけが実務を回す。』


――と、後年の軍史家はクラウスの哲学として書いたが、もちろん本人はそこまで考えていない。


彼としては、両方の顔が立てば、怒鳴られずに済む。

それだけだった。





協議は、それまでが嘘のようにまとまった。


演習開始は予定通り。

公報文言は総監府が調整。

初日右翼先導はルーデン邦、第二段右半翼主力はハルツ邦。

各邦の閲兵序列は従来通り。


まるで、最初からそう決まっていたかのように全員が振る舞っている。

三十分前まで怒鳴り合っていたことは、もう忘れたらしい。

人間の記憶とは便利なものだ。


散会後、廊下でメルテンス中佐が追いついてきた。

「大尉殿は、面子を時刻表に溶かしてしまわれるのですな」


面子を時刻表に溶かす。

たいへん格好のよい言い方だが、自分のやったことの実態とはあまり合っていない。


「ただ、始まる前に止まるのは面倒だと思っただけです」


「それを、こちらでは有能と言うのです」

メルテンスの声は平坦だったが、少し含みがあった。


この中佐は、おそらくクラウスが大きな構想を持っているとは思っていない。

だが、結果として最も揉めない解を出したことは認めている。

試されているようでもあり、助けられているようでもあった。





夕食では、ヴォルクマン少将もブレンナー少将も、朝とは別人のような顔でクラウスへ話しかけてきた。


「若いのに、諸邦の機微を知っておる」

機微というか、仮橋が十一時だと知っていただけです。


「統帥府にも、実務の分かる士官がいるものだ」

実務というか、時刻表を読んだだけです。


だが、どちらにも「ありがとうございます」とだけ答えた。


訂正しても無駄だということは、もう学んでいる。

皿の上の仔牛肉は少し冷めていたが、朝の列車の卵よりはましだった。


宿舎へ戻ると、王都宛の報告書を書くための紙が用意されていた。

クラウスはペンを取り、しばらく考えた。


書きすぎると意味が増える。

意味が増えると、後でそれが自分に返ってくる。

なるべく短く、なるべく事実だけを書こう。


"初日協議において両邦間の行軍序列に関する見解差異ありしも、任務区分の整理により概ね調整済み。以後の争点は主として文言上の扱いに存す。"


それだけ書いて、ペンを置いた。

十分だろう、と思った。

仮橋が十一時で、両方は入らないから分けた。

その話を、これ以上どう書けというのか。


だが後日、この報告書が王都の第三課に届いた時、エッゲン大佐はそれを読んで同僚にこう言ったという。


「ライフェンベルクの報告を見たか。感情を排し、要点のみを押さえ、本質だけを書いている。あの若さで、あの抑制は見事だ」


抑制ではない。書くことがそれ以上なかっただけである。

クラウスが聞いたらそう言っただろう。


その夜、クラウスが最後に考えていたのは、明日の渡河演習のことだった。


願わくは、誰も新しい名誉問題を発明しませんように。

そして願わくは、明日の朝食は、今朝の列車より少しましでありますように。


後者の方が、彼にとってはちょっと切実だった。

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