第三話 これ試験勉強でやったところだ
翌日の渡河演習では、クラウスのささやかな祈りは、例によって半分しか聞き届けられなかった。
朝食は昨日よりましだった。
パンはまだ少し固いが、卵は適温で、コーヒーは食堂車より濃い。
これが叶った半分である。
叶わなかった半分はこちらだ。
新しい名誉問題が、きちんと発明された。
◆
未明からの雨でヴァイデ川はわずかに水かさを増していた。
前夜のうちに組まれた仮橋に、工兵隊から報告が上がっている。
「重砲兵通過は補強後でなければ推奨しかねる」
軍隊において最も遠回しで、最も強い否定だ。
「推奨しかねる」は、だいたい「やめろ」と訳してよい。
ところがルーデン邦軍は、初日右翼先導の名誉を確保した以上、その名誉にふさわしい華やかさを付け加えたくなったらしい。
騎兵だけでなく、軽砲兵と軍楽隊まで先に渡したいと言い出した。
軍楽隊。
軍楽隊が戦争にどの程度寄与するのか、クラウスにはよく分からない。
少なくとも、軍楽隊の演奏で敵が退却した戦例を、彼は陸軍高等軍学院で習った覚えがない。
だが名誉というものは、しばしば実用より音量を好む。
これに対し、ハルツ邦軍は当然のように反発した。
重砲兵の通過前に橋面を荒らされては困る。
初日の火力展開こそ演習の中核だ。
軍楽隊を川向こうへ運ぶために架橋工兵の手を止めるなど論外だ、と。
言っている内容はかなりまともだった。
まともなのだが、まともなことを勝ち誇った顔で言うと、なぜか挑発になる。
人間とはそういう生き物である。
◆
午前八時。
川岸の仮設幕舎で、昨日とほとんど同じ顔ぶれが、場所だけを変えて昨日の続きを演じていた。
違いがあるとすれば、今日は机上ではなく本物の泥があること。
窓硝子の代わりに湿った天幕布があること。
そして外には、実際に待たされている兵たちの咳払いと、馬のいらだちが聞こえてくることだった。
現実が一歩近づいても、人は少しも賢くならないらしい。
西部総監府の工兵主任であるアーレンス工兵中佐が、濡れた手袋を外しながら三度目の説明をした。
「ですから、補強材をもう二十七分早く持ってこいとおっしゃられても、物理的に不可能です。たとえ資材があったとても、その規模を通すなら午前九時四十分以前は困難です。騎兵二個中隊程度なら先行可能ですが、それ以上を一気に載せれば、橋脚の固定がずれます」
明晰で、正確で、救いのない説明だった。
クラウスはこの工兵中佐が好きだった。
数字と物理だけで喋る人間は、少なくとも嘘をつきにくい。
だが明晰さは、面子を傷つけると途端に不評になる。
「つまり我が邦の先導権を、工兵隊の都合で切り縮めよと?」
ヴォルクマン少将が鼻で笑った。
工兵隊の都合ではなく物理法則の都合だと思うのだが、それを指摘するのはクラウスの仕事ではない。
「いや」とブレンナー少将が応じた。
「つまり橋を壊すほどの虚栄は控えろ、というだけの話だ」
正論だが、言い方が悪い。
「虚栄」と面と向かって言われて喜ぶ人間はいない。
これでまた始まった。
クラウスは心の中でそう呟いて、卓の端で黙った。
黙っているのは深慮ではない。割って入る勇気がないだけだ。
この手の場面で下手なことを言うと、どちらかの面子を傷つけ、それを何年も記憶される。人間は数字の誤りより侮辱を長く覚える。
どうしよう、と思った。
このままだと演習が始まらない。
演習が始まらなければ、自分がここにいる意味がない。
意味がなければ帰れない。
帰れなければ困る。
……つまり、何か考えなければならない。
彼は議論の怒号から精神的に距離を取るために、頭の中で演習規程を開いた。
人が怒鳴っている時、クラウスは条文を思い浮かべる癖があった。
条文は怒鳴らないし、感情もない。
試験勉強のノートをめくるのに近い。一種の精神安定剤である。
合同演習細則。
第一条、目的及び趣旨。
第二条、適用範囲。
第三条、邦軍間の――
いや、もっと後ろだ。
渡河に関する条項は第二十条台だったはずである。
第二十一条。
「先鋒渡河による橋頭確保は、主力展開の序列と別個に判定しうる」
クラウスは、その条文を頭の中で読み返した。
これは陸軍高等軍学院二年次、「合同演習法規」の試験に出た問題だった。
正解率が低かった。
なぜならこの条文は細則の脚注のような位置にあり、ほとんどの学生が読み飛ばしていたからである。
クラウスが覚えていたのは、彼がこの手の細かい規定を片端から暗記して点を稼ぐタイプだったからだ。
理解ではなく暗記。応用ではなく再現。
彼の主席はだいたいその調子で取ったものだった。
だが――
この条文に従えば、「先鋒渡河」と「主力展開」は別物だ。
別物ということは、ルーデンが先に騎兵で渡って橋頭を取り、その後でハルツの重砲が渡る、という整理が規程上認められる。
軍楽隊も軽砲もいらない。騎兵だけでも栄誉は保証されるのだ。
なんたって連邦の規定がそう言っているのだから。
つまり、昨日と同じだ。
欄を分ければいい。
しかも今度は、自分の言葉ではなく、連邦の条文がそう言っているという形にできる。
条文のせいにすれば、誰の面子も潰れない。
条文は人間ではないから怒らない。
怒らない相手に責任を預けるのは、クラウスの最も得意とする処世術だった。
「ライフェンベルク大尉」
西部総監府の上席参謀が言った。
半ば助けを求めるような声だった。
「統帥府のご見解は」
全員がこちらを見る。
クラウスは一瞬だけ迷った。
これから言うことは軍事的な洞察ではない。試験に出た条文の引用だ。
それを堂々と口にしてよいものか。
まあいいだろう。
条文は条文だ。誰が覚えていたかは問題ではない。結局そう結論づけた。
それに、どうせこのまま黙っていたところで怒りがおさまるわけでも、橋ができるわけでもない。
「……合同演習細則第二十一条では」
「先鋒渡河による橋頭確保と、主力展開の序列は、別個に判定可能とされています」
天幕の中が静まった。
ここまでは大丈夫だ、と彼は思った。
条文を読んだだけだ。
「したがって、ルーデン邦軍が騎兵二個中隊をもって右岸の果樹園地帯に橋頭を確保し、先導権を示すことは規程上可能です。そのうえで、橋面補強完了後にハルツ邦軍主力を右半翼へ展開させれば、演習目的にも支障はないかと」
軍楽隊も軽砲もなくても規定上名誉は保たれます。とまでは流石に言えなかった。
雨粒が天幕を叩く音だけが、しばらく続いた。
アーレンス工兵中佐が最初に反応した。
「それなら、橋は持ちます」
その声には、ほとんど安堵が混じっていた。
この工兵中佐はさっきからずっと「物理的に無理です」と言い続けていたのだ。
それを「無理」ではなく「それは無理だけど、規程上は栄誉は保証されます」と言い換えただけに彼も気付いただろうが、連邦の規定という盾は想像以上に大きかったようだ。
不思議なものだ、とクラウスは思った。
この二つは、結果が同じでも、人間への効き方がまったく違う。
ヴォルクマン少将がゆっくり顎を上げる。
「先鋒渡河の名誉はルーデンに残る」
ブレンナー少将が腕を組んだまま言う。
「そして主力右翼はハルツが担う」
「規程上は、そう整理できます」
とクラウスは答えた。
「規程上は」と付けたのは、自分の意見ではなく条文の話ですよ、という予防線だった。
だがその予防線が、かえって妙な効果を生んだらしい。
感情や派閥ではなく、連邦の規程に基づいて両邦を裁いた。
そういう像が、その場にいた全員にとって都合よく成立してしまった。
誰かが負けたのではない。
連邦の規程がそう言っているのだ。と。
正確には、二年次の試験に出たから覚えていただけなのだが。
◆
ルーデン邦軍は規定に則り、華やかさの核心が「最初に渡った」という事実そのものにあると再定義した。
軍楽隊の件は「橋頭確保後の士気鼓舞」として午後へ回された。
ハルツ邦軍は、主力右翼の位置づけが公式文書に明記されると分かるや、橋面の優先権にのみ集中し始めた。
人間は、自分の虚栄に適切な表札が掛かれば、案外と落ち着くものらしい。
午前九時過ぎ、雨が上がった。
川面の色だけが重く残る中、ルーデン邦軍の騎兵二個中隊が、青い槍旗を立てたまま仮橋を渡っていく。
果樹園地帯に展開し、橋頭確保の合図旗が上がる。
そのあいだ工兵隊は後方で黙々と橋面を補強し、十時を回る頃にはハルツ邦軍の重砲兵列が軋みながら川を越えた。
昼前には右翼の高地に砲列が整い、午後の対抗機動では、想定敵に見立てた教導旅団がきれいに側面から圧迫される形になった。
演習それ自体は、かなりの成功だった。
だが、その成功の大半は、アーレンス工兵中佐の堅実な橋梁判断と、ハルツ砲兵隊の訓練の良さと、ルーデン騎兵が見た目は派手でも実際にはちゃんと命令を守る部隊だったことによる。
クラウスはそのどれにも関与していない。
試験に出た条文を思い出し、それを口に出しただけである。
だが、誰もそうは見なかった。
◆
夕方、総監府本館の食堂で小さな会食が開かれた。
ヴォルクマン少将が葡萄酒の杯を傾けながら言った。
「見事なものですな。若いのに、名誉の扱いを知っておられる」
知りません。条文を知っていただけです。
と、クラウスは心の中で思った。
ブレンナー少将も、やや不承不承ながら頷いた。
「実務を妨げない範囲で名誉を満たす。統帥府の若手も、捨てたものではない」
実務というか、橋が壊れるから分けただけです。
とも思った。
西部総監府の上席参謀は、もっと大げさだった。
「行軍序列、橋頭確保、主力展開の三区分。あれは単なる妥協ではありません。連邦軍制の本質を理解していなければ出ない発想です」
三区分にしたのは、細則にそう書いてあったからだ。
連邦軍制の本質など、考えたこともない。
だが会食の席で「試験に出たので覚えていただけです」と言えば、場が白ける。
真実というものは、往々にして社交に向かない。
「恐縮です」
とクラウスは言った。
この語の使用回数が、ここ数日で急速に増えている。
そのうち口癖になるかもしれない。
今日の仔羊肉は悪くなかった。
少なくとも、列車の固いパンや冷めた昨日の仔牛肉よりはずっとましだった。
西部に来て初めて、食事の面で報われた気がした。
◆
会食の後、廊下で二人きりになった時、メルテンス中佐が珍しく口元を緩めた。
「大尉殿は、本当にあの条文を覚えておられたのですな」
「試験に出ましたから」
クラウスは正直に答えた。
この中佐にだけは、正直に言ってもよい気がした。
メルテンスは一瞬、声を立てずに笑った。
「なるほど。こちらはずっと、誰かがそういう整理をしてくれればと思っておりました。工兵は橋の話をし、砲兵は時間の話をし、騎兵は栄誉の話をする。だが、中立の立場で規程の話を持ち出せる者がいなかった」
「規程は、喧嘩しませんから」
とクラウスが言うと、メルテンスは今度こそはっきり笑った。
「ええ。人間より、よほどましです」
その言葉に、クラウスは少しだけ安心した。
この中佐は、自分を上層部のようには見ていない。
せいぜい、条文を妙に覚えている、面倒の少ない士官くらいの認識だろう。
それが、いまのところ一番居心地のよい評価だった。
◆
宿舎へ戻ると、王都宛の報告書を書くための紙が用意されていた。
クラウスはペンを取り、しばらく考えた。
書きすぎると意味が増える。
意味が増えると、後でそれが自分へ返ってくる。
なるべく短く、なるべく事実だけを書こう。
"ヴァイデ渡河演習において、両邦間の権限競合は演習細則第二十一条の適用により整理済み。橋頭確保と主力展開の判定分離により、名誉上の軋轢を実務上の遅滞へ転化せず。"
それだけ書いて、ペンを置いた。
十分だろう、と思った。
試験に出た条文を思い出して、橋を壊さずに済むようにした。ただそれだけの話を、これ以上どう書けというのか。
だが後日、この報告書が王都の第三課に届いた時、エッゲン大佐はそれを読んで、余白にこう書き込むことになる。
「諸邦調整における判断、簡潔にして的確。以後も観察価値あり」
観察価値あり。
人事簿の余白に書かれるその文字は、砲煙の中の武勲より、ずっとしぶとく生き残る。
本人が望んでいるかどうかとは、ほとんど無関係に。
◆
翌朝。
宿舎の小机でコーヒーを飲んでいると、扉が叩かれた。
書記官が、総監府印の封を切っていない紙片を差し出す。
「西部総監閣下より。朝食後、執務室までお越し願いたいとのことです」
クラウスは目を閉じた。
昨日うまくいったから、もっと面倒なことを頼まれる。
軍隊とは、そういう仕組みだ。
問題を解決すると、それを見ていた人が「もっと難しい問題も解決できるのでは」と考える。
解決したのではない。
条文を読んだだけである。
だが、その説明はもう誰にも通じないところまで来ているらしかった。
窓の外では、昨夜の雨に洗われた旗竿の先に、連邦旗がぬるい朝風を受けていた。
クラウスは、本人の意図とは無関係に、少しずつ「諸邦を調整できる若き参謀」というものになりつつあった。
なりたかったわけではない。
なりたくなかったとまでは言わないが、少なくとも、自分で選んだ覚えはない。
クラウスはそう言うだろう。
だが人事とは、本人の意思で決まるものではない。
周囲の期待と、偶然の結果と、そして何より、「試験に出たので覚えていた」程度の些事が積み重なって、一つの評価になる。
その評価を訂正する方法を、クラウスはまだ知らなかった。
知らないまま、彼は朝食を終え、コーヒーの残りを飲み干し、制服の襟を整えた。
今日も、なるべく怒鳴られませんように。
それだけが、彼の祈りだった。




