第一話 連邦の潤滑油
出世という現象が、人事上の整然たる誤解にすぎないのだとすれば、クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉は、その春、かなり順調に誤解されつつあった。
統暦七十二年、初春。
王都グランツェル、統帥府第三課。
クラウスに与えられていた机は、窓に近いが景色は悪く、暖房にも近いが火の回りは悪いという、官僚制特有の中途半端な親切の産物だった。
だが彼はこの席をわりと気に入っていた。
窓際なので居眠りしても目立ちにくく、寒いので誰も寄ってこない。
いま彼がやっているのは、西方鉄路網の石炭割当表の整理である。
各邦軍から上がってきた数字の齟齬を、赤鉛筆で潰していく。
それだけの仕事だ。
数字は親切だった。
家格を誇らず、訛りを持たず、こちらの顔色を窺って意味を変えたりもしない。
足せば足しただけの顔をするし、間違えれば間違えたと率直に告げる。
人間より、よほど付き合いやすい。
ルーデン邦第七軍団は、機関車一編成あたりの石炭消費量を毎回少なめに申告してくる。
たぶん節約精神を示したいのだろう。
一方、ハルツ邦第八軍団は逆に、必要以上の予備分まで平然と積み増してくる。
こちらは足りなかった時に責任を押し返したいのだろう。
どちらの気持ちも分かる。人間だからだ。
その中間を取り、誰の面子も潰さず、しかも後で自分が怒られない数字に整えるのが、クラウスの仕事だった。
楽しいかと聞かれれば、別に楽しくはない。
だが不満もない。
戦争よりは静かだし、人間関係よりは論理的だ。
できることなら、あと五年くらいこの机にいたかった。
だが、そうもいかないらしいことに、彼は薄々気づき始めていた。
先月の図上演習以来、廊下で会えば軽く会釈を返すだけだった年配の士官たちが、妙に丁寧に声をかけてくるようになったのである。
若いのに落ち着いている。
急がぬところがいい。
諸邦の均衡を理解している。
そういう言葉を、この二週間で、もう六度は聞かされた。
落ち着いているのではなく、何も思いついていないだけだ。
急がないのではなく、急ぐ理由がよく分からないだけだ。
諸邦の均衡を理解しているのではなく、どこの邦にも肩入れするほどの関心がないだけである。
だが、そう説明するのも面倒だった。
しかも、たぶん説明したところで「ご謙遜を」と返されるだけだ。
人の評価というものは、否定すると膨らむ。実に厄介な性質をしている。
その朝、書記官が机の脇に立った。
「ライフェンベルク大尉。課長がお呼びです」
クラウスは赤鉛筆を置いた。
呼び出し。
嫌な予感しかしない。
呼び出しとは、他人の厄介事がこちらの仕事になる予兆である。
少なくとも「よく働いているから午後は帰っていいぞ」と言うために上官が部下を呼ぶ組織を、クラウスはまだ知らない。
第三課長エッゲン大佐の部屋は、一つ上の階にあった。
扉の前に立った時点で、中に課長一人ではないことが分かった。
年配者特有の、結論より前置きの長い声が二つ聞こえていたからである。
嫌な予感が、確信に変わった。
入室すると、案の定、課長の机の前には見慣れない老中将が座っていた。
西部総監府付きのヴィルマー中将。
名前だけは聞いたことがある。
西方諸邦の連絡調整に長く携わってきた人物で、どの邦の連隊歌も一番だけは歌えるらしい。
その特技が軍事的にどう役立つのかは不明だが、宴会では重宝されるのだろう。
「来たか、ライフェンベルク大尉」
エッゲン大佐は書類から顔を上げ、わずかに口元を緩めた。
上官の微笑みは、だいたい不吉だ。
「良い知らせ」はたいてい微笑まずに伝えられる。
微笑むのは、こちらが嫌がると分かっていることを告げる時である。
「座りたまえ」
クラウスは座った。
ヴィルマー中将はしばらく彼を眺め、それからいかにも思い出したように頷いた。
「君が、あの若きライフェンベルクか。先日の第二会議室の件は聞いている」
またあの件か、とクラウスは思った。
自分が何を言ったのかはもう曖昧なのに、周りの方がよほど鮮明に覚えている。
あまりありがたい現象ではない。
「恐縮です」
これは便利な語だった。
感謝の時にも、困惑の時にも、何も考えていない時にも使える。
たいへん重宝していた。
「西部の春季合同演習が揉めていてな」
ヴィルマー中将が言った。
「ルーデン邦とハルツ邦だ。行軍順の問題が、いつの間にか名誉の問題に化けた。どちらも右翼を取りたがり、どちらも相手の輸送計画に口を出す。まだ敵もいないうちから、味方同士で国境戦争を始める気らしい」
クラウスは黙って聞いていた。
ルーデン邦とハルツ邦。石炭割当表で毎日顔を合わせている二つの邦だ。
片方は少なく申告し、片方は多く申告する。仲が悪いのは知っていた。
そしてその仲の悪さが、いま自分に向かって飛んでこようとしていることも、だいたい分かった。
エッゲン大佐が机上の書類を軽く叩いた。
「統帥府としては、春季演習を中止するつもりはない。かと言って、盟主邦出身の士官を調整役に立てれば、諸邦の連中は中央の押しつけだと騒ぐ。ルーデンの者を出せばハルツが拗ね、ハルツの者を出せばルーデンが怒る。実に連邦らしい健全な愚行だ」
健全な愚行。
言い得て妙だった。
だが、妙であってもこちらは少しも楽しくない。
なぜなら、その愚行の処理係に自分が指名されようとしているからだ。
「そこで君だ」
ヴィルマー中将が言った。
ほら来た、と思った。
思ったと同時に、胸のあたりで小さな諦めが音を立てた。
「私、ですか」
せめてもの抵抗として、少しだけ驚いた顔をしてみせた。
実際には驚いていない。話の流れからして、こうなるだろうとは思っていた。
ただ「喜んでお受けします」と言うほど従順でもなかったので、驚いた顔で時間を稼いだだけである。
「うむ。君はどの邦閥にも属していない。ライフェンベルク家の名は、西方でも南方でも通りがいい。試験成績に文句をつける者もおるまい。そのうえ、君は若い。若いというのは重要だ。年寄りはな、若い者を見下すことで安心しながら、都合のよい時だけ未来を託したがる」
中将はそこで、いかにも経験から出た真理を述べたつもりらしく、小さく鼻を鳴らした。
なるほど。
つまり自分が選ばれた理由は「どこにも属していない」「家名がある」「若い」の三点である。
能力については一言も触れられていない。たいへん誠実な人選基準だった。
エッゲン大佐が続けた。
「さらに言えば、君は先日の図上演習で、拙速に流れかけた議論を落ち着かせた。急がず、全体を見て、相手に先に形を取らせる。あれは西部の連中にも必要な資質だ」
クラウスは喉の奥で曖昧な息を飲み込んだ。
訂正すべきだろうか。
あの時はただ穏当なことを言っただけで、何も見通してなどいません、と。
だが、ここでそれを言っても意味がないことくらい、彼にも分かる。
たぶん「その慎みこそが」とさらに評価されるだけだ。
どうにも彼らの評価基準がよくわからない。
「より適任の方が、ほかにいらっしゃるのでは」
これは本心だった。
本心から、他の誰かに行ってほしかった。
だが案の定、ヴィルマー中将は満足そうに頷いた。
「その慎みがよい。野心のある者は、連邦の調整役には向かん」
やはり否定したら評価が上がった。
もう何を言ってもだめな気がする。
「任務は単純だ」とエッゲン大佐が言った。
「西部合同演習への統帥府派遣監察官補佐。名目は視察と調整、実際は潤滑油だ。誰の面子もなるべく潰さず、演習を予定通り始めさせる。それだけでいい」
潤滑油。
その比喩を聞いて、クラウスは少しだけ安心した。
偉大な歯車になれと言われているのではない。
要するに、揉めている連中の間で適当に頷き、機械が止まらないようにしていればよいのだろう。
それなら、自分にもたぶんできるのではないだろうか。
というよりもそれくらいしかできない、とも言うが。
「期間は三週間。うまくいけば、夏の統合動員演習にも顔を出してもらう」
その言い方で、一時的な雑務ではなく、今後の人事に繋がる仕事だと分かった。
出世の匂いがした。
正直に言えば、出世にはあまり興味がない。
出世とは、面倒な仕事が増えることの別名だからである。
偉くなればなるほど会議は増え、判断を求められ、責任が乗る。
クラウスにとって、それは褒賞というより罰に近かった。
ただでさえ家名という重りのせいでこんな場所に押し込められているというのに。
だが「出世したくありません」と言えば、それはそれで大事になる。
エッゲン大佐が辞令書を机の上で滑らせた。
「本日付だ。明後日の早朝列車で発て」
クラウスはそれを受け取った。
紙は軽かったが、気分は少しも軽くならなかった。
"統帥府第三課付大尉クラウス・フォン・ライフェンベルクを、西部合同演習監察官補佐に任ず。"
文としてはそれだけである。
その裏にどれほどの諸邦間対立と年寄りの期待と面倒事が折り畳まれているかは、当然ながら書かれていない。
公文書とはそういう不親切な紙だった。
「なに」とヴィルマー中将が言った。
「心配する必要はない。君は黙って話を聞ける。その資質だけで、連邦では十分に珍しい」
それは励ましのつもりだったのだろう。
だがクラウスには、珍獣として評価されているようにしか聞こえなかった。
黙って話を聞くだけで珍しいなら、この国の軍人は普段どれほど喋っているのか。
◆
部屋を辞して廊下に出ると、春先のくせにまだ冬の名残を引きずった薄い雨が降り始めていた。
王都の屋根瓦が鈍く濡れ、遠くの駅舎からは午前の列車を知らせる汽笛が聞こえる。
クラウスは窓の外を見ながら、いくつかのことを考えた。
三週間も西に行くのは面倒だな。
ルーデン邦の連中は演習でも石炭をごまかすだろうから、補給表は最初から信用しない方がいいな。
明後日の早朝列車は朝食の時間が早すぎて困るな。
あの石炭割当表、途中なんだけど、誰に引き継げばいいんだろう。
それでも辞令書を折り畳み、内ポケットにしまった。
しまってしまえば、もう返せない類の紙である。
それは経験的に知っていた。
廊下の先で、すれ違った年配の士官が会釈してきた。
クラウスも礼儀として会釈を返した。
ただの挨拶だ。
それ以上の意味はない――と、クラウスは思った。
だが、その日の夜、その士官は同僚にこう語ったという。
「ライフェンベルクの若いのに廊下で会ったが、あんな任務で西部へ発つ前だというのに、実に落ち着いたものだった。あれはやはり、何かを見ている顔だ」
実際に彼が見ていたのは、廊下の先に貼り出されていた食堂の献立表である。




