プロローグ
後年、ノルトマルクの軍史家たちは、クラウス・フォン・ライフェンベルクの名を、しばしば天才参謀として記した。
諸邦の利害が入り乱れる連邦軍を黙して束ね、ベルヴァーニュ第二帝政の虚栄と分裂を早くから見抜き、ただ一言で戦役の方向を定めた男。
彼の沈黙には計算があり、彼の留保には遠謀があり、その曖昧な一言一句には、地図の上の駒を生きた兵に変えるだけの重みがあった、と。
その大半は、誤解である。
◆
統暦七十二年、晩冬。
ノルトマルク連邦王都グランツェル、統帥府第二会議室。
クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉は、この会議が早く終わらないかと考えていた。
窓の外は煤けた冬空で、会議室には石炭暖房の鈍い熱気と、誰かが濃く淹れすぎたコーヒーの匂いが溜まっている。
長机には西方国境の大地図が広げられ、赤と青の駒が整然と並んでいた。
まだ始まってもいない戦争が、すでに帳簿の顔をして座っている。
整理されたものは好きだ。
しかし、それについて意見を求められるのは好きではない。
クラウス・フォン・ライフェンベルク、二十六歳。
ノルトマルク連邦建国の雄にして統帥府の祖であるライフェンベルク家の血筋。
陸軍高等軍学院主席。
若くして統帥府配属。
並べるとたいそう立派だが、中身はそこまででもない。
――と、少なくとも本人は思っている。
試験は得意だった。
教範の文言、補給計算、鉄道の所要時間、過去の戦役の戦例。
紙に書けるもの、表にできるもの、正解が一つで済むもの。
そういう種類の問いには驚くほど正確に答えられた。
だが、戦争は試験ではない。
地図の上で美しく噛み合って見える軍団が、実際には泥と恐怖と疲労と虚栄心を抱えた人間の群れであり、その人間たちが教本どおりには動かないという、軍事においては当然の、しかし試験官には扱いづらい真実の前に立つと、クラウスの明晰さはひどく頼りなくなる。
要するに、勉強だけはできるが、それを現実に応用することが苦手なのだった。
その代わり、と言ってよいかは分からないが、彼には一つだけ妙な才能があった。
年配の士官たちに、なぜか好かれるのである。
理由は本人にもよく分からない。
人の話を遮らないこと。
すぐに反論しないこと。
否定するほどの確信を持っていないがゆえに、最後まで相手に喋らせてしまうこと。
意見を強く押し出さない人間だけが身につける、曖昧で、しかし不快ではない頷き方。
老人たちは、その沈黙の中によく思慮を見た。
実際には何も決めかねているだけなのだが、老人はえてして結果を急ぐ。
いま目の前で行われている議論も、そういう種類のものだった。
ベルヴァーニュ第二帝政との“事態”に際し、連邦軍の右翼をどこまで前進させるか。
ルサント王国の王位継承問題が火種となり、ベルヴァーニュの新聞は連日ノルトマルクの野心を罵っている。宮廷の面子を第一とする帝政政府が、国内の派閥抗争を押し流すために対外強硬へ傾く気配がある――というのが、いま統帥府で共有されている見立てだった。
右翼を一気に押し上げるべきだ、と主張する者がいた。
いや、急げば補給線が伸び、連邦の利である鉄路運用が崩れる、と慎重論を唱える者がいた。
議論はすでに、作戦ではなく自負の衝突へ変わりつつあった。
老少将は己の戦歴を持ち出した。
南方出身の大佐は地形を理由に反論した。
港湾邦出の准将は輸送力の数字を突きつけた。
クラウスはそれを半ばぼんやり眺めていた。
各邦の訛りが飛び交うのを聞きながら、この人たちは同じ制服を着ているのに、どうして全員が違う国の代表のように振る舞うのだろう、と思った。
ノルトマルク連邦とはそういう国なのだ。
平時は王侯の数だけ旗があり、方言があり、軍服の飾り紐にまで地方ごとの意地が残る。
戦時になると、鉄道と補給と命令書式だけが見事にまとまる。
政治は連邦、名誉は各邦、神経系だけが帝国。
奇妙だが、それで回っている。
そしていまクラウスが心底願っていたのは、この議論が自分に飛び火しないことだった。
その願いは、叶わなかった。
卓の奥にいた老中将が、眼鏡の奥からこちらを見た。
「ライフェンベルク大尉。君はどう見る」
会議室が静まった。
全員の視線が集中する。
ライフェンベルクという家名は連邦において重い。
統帥府――参謀の園はノルトマルク軍の中核で、その設立に大きく関わったのがクラウスのご先祖様だ。
家名というものは、なんとも扱いにくい。
軍人になることは規定事項で、廊下では知らない爺さんに会釈されるし、会議では名前だけでこうして意見を求められる。
クラウスがまず考えたのは、正しい答えではなかった。
ここで下手なことを言って、議論をさらに長引かせたくない、ということだった。
どちらの案にも一理あるように思えた。
急げば危うい。急がねば機を失う。
どちらも理解できるということは、彼にとってどちらも選べないということだった。
困った。
彼は少しだけ黙り、地図を見つめた。
深く考えているように見えたかもしれない。
実際には、できるだけ穏当で、できるだけ責任の薄そうな言い回しを必死に探していただけであるのだが。
波風を立てたくない。
どちらの顔も潰したくない。
できれば何も言いたくない。
だが「分かりません」と言えば、この場はもっと気まずくなる。
結局、彼は自分の中でいちばん長引かなさそうな一言を選んだ。
「……無理に急がせる必要は、ないかと存じます」
部屋の空気が変わった。
いや、変わったというより、止まった、の方が近い。
まずい、とクラウスは思った。言葉が足りなすぎる。
このままでは慎重派に与しただけに聞こえる。もう少し中間的なことを――
「敵が出てくるなら、出させた方が……こちらとしては、収拾をつけやすいでしょう」
収拾。
彼はほとんど事務的な意味でその語を使った。
前へ出すぎたものを整え直すのは、進みきれずに中途で揉め続けるより、後から処理しやすい。要するに、自分の仕事が減る方を選んだだけである。
だが、老人たちは別の意味を聞き取った。
「ほう」
と老中将が言った。
「敵に先に選ばせ、その伸びを折る、ということか」
違います、とクラウスは思った。
「右翼を餌にして中央を引き出すのですな」
と南方の大佐が低く呟いた。
いえ、そこまでは考えていません、と思った。
「急がぬことで、主導を奪うわけだ」
誰かが感心したように言った。
主導という概念は、いま初めて聞きました、と思った。
だが、否定はしなかった。
否定するには、自分が何を言ったのかを、彼らより先に理解していなければならなかったからだ。
そして彼が黙っているあいだに、事態は勝手に進んだ。
誰かが戦例を持ち出した。
誰かが駒を動かした。
誰かが補給表の数字を繋いだ。
補給線の伸びた敵右翼を、連邦軍の鉄路網で横から噛む。
中央は動かしすぎず、敵に先に形を崩させる――やがて彼の曖昧な一言は、初めからそこにあった周到な作戦概念であるかのように、会議室の空気に定着してしまった。
いつの間にか、全員が同じ方向を向いている。
数分前まで怒鳴り合っていた人たちが、今や穏やかに駒を並べ直している。
クラウスは、自分が何をしたのかよく分からないまま、その光景を眺めていた。
図上演習が行われた。結果は良好だった。
青の駒は前に出すぎ、赤の駒は予定された鉄路に従ってそれを横腹から圧迫した。
勝ったのは、たぶんクラウスの頭ではない。
連邦の時刻表であり、補給帳簿であり、統帥府が長年かけて磨いた手順だった。
誰が何を言おうと、この国の戦争は鉄道と帳簿が回す。
個人の才覚はそこに乗るだけだ。
それでも、会議の終わりには全員が彼を見た。
老中将は珍しく柔らかな声で言った。
「急がぬ者ほど、全体を見ている」
港湾邦出身の准将は感心したように笑った。
「やはりライフェンベルク家だ」
クラウスは恐縮して一礼した。
その一礼の裏で考えていたのは、一つだけだった。
――頼むから、次は僕に振らないでほしい。
◆
帰りの馬車の中で、彼は窓の外の王都を眺めていた。
煤けた屋根の連なり。遠くの駅舎から低い汽笛。石畳を叩く馬蹄の音。
会議室で何が起きたのか、正直なところ、よく分からなかった。
自分は穏当なことを言っただけだ。
経験ある老人たちが、たまたまそれをうまく拾ってくれた。そういうことだろう。
反芻していたのは、あの場で「収拾」という言葉はいくらか事務官じみていなかっただろうか、ということくらいだった。
だが、第二会議室に残った老人たちは別のことを記憶した。
若きライフェンベルク大尉は、議論が拙速へ傾くところで黙り、最後に一言だけを置いた。
敵に先に形を取らせ、その伸びを断つ。
連邦全体の動きを見通していなければ、あの落ち着きはありえない、と。
こうして、まだ何ひとつ指揮していない若者は、「見えている人間」として扱われ始めた。
その日、会議室で生まれたのは、新しい作戦ではなかった。
クラウス・フォン・ライフェンベルクという、ひとつの誤解だった。
そして誤解というものは、一度生まれると本人より早く出世する。
クラウスはまだ、その止め方を知らなかった。




