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第二十話 高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に現場の判断で対応してください

『目的を与え、手段を委ねよ。ただし、その委任が全体を裏切る瞬間を見逃すな』

  ――クラウス・フォン・ライフェンベルク  『マルク戦術教範』より抜粋



もっとも、この時のクラウス本人が、そこまで綺麗に自分を理解していたわけではない。

彼が知っていたのは、もっと情けなく、もっと差し迫った事実だけだった。


全部を守る顔をして、失敗した。

ならば次は、最初から全部を書こうとしない方が、まだましなのかもしれない。


その程度の、いかにも切羽詰まった理解である。





クラウスは、旧税関庁舎へ戻る道すがら、祖父の言葉を思い返していた。


『あまり立派に見えようとするな』


いまになって、ずいぶんよく分かる。

まさしく自分は、立派に全部をこなせる顔をしようとしていた。


全部に意味があることが見えていた。

だから全部へ兵を置いて、そして全部が薄くなった。


できないことは、できないのだ。

それを最近、自分自身まで少し勘違いしていた。


旧税関庁舎の石段を上がる頃には、もう気分が沈むという段階すら過ぎていた。

沈みきると、人間はむしろ静かになる。


隣を歩くハルトゥング少佐も、珍しく何も言わなかった。

いつもなら、歩幅の合間に一つ二つは確認が入る。

だが今夜に限って、少佐はそれをしない。


たぶん、少佐なりの不器用な気遣いなのだと思う。

思うのだが、その沈黙はかえってこちらに考える時間を与えすぎて、少しも楽ではなかった。


庁舎の中へ入ると、石床には濡れた泥の跡が幾筋も残っていた。

遠くで電信器が鳴り、どこかの部屋では地図が机へ叩きつけられ、別の階では医務係が低い声で負傷者の名を呼んでいる。


これは戦争なのだと、今更にクラウスは思った。





二階奥の臨時作戦室で資料を整理していると、ヴァルテンベルク上級大将とヴィルマー中将も戻ってきた。


机の上には王都西区の地図。

赤線、青線、黒線。

荷運橋。

サン=マルク橋。

倉庫街。

王宮西門。

鉄路門。

電信局。

ひどく見慣れてしまった地名ばかりが、夜更けのインクの中で不機嫌に並んでいる。


「揃ったか」

とヴァルテンベルク上級大将が言った。


それを合図に、ルサント王都警備隊の副官が、地図の脇に立って報告を始めた。


「荷運橋東詰はなお不安定。敵は橋詰から倉庫街北側へ細く浸透中。サン=マルク橋南詰は保持。ただし保持兵力は薄い。北営舎のベルヴァーニュ儀礼随伴部は、いまだ待機中です」


「待機中」

とヴィルマー中将が低く繰り返した。


「ええ。まだ客人の顔を保ったままです」


副官がそう言うと、部屋は少しだけ静かになった。

まだ客人でいられる。

それは同時に、客人であることをやめる口実を待っている、という意味でもあった。


「外務省は、ロガリア連合王国に向けてルサント問題の仲介を既に持ちかけている。ルサントを緩衝国として残す事はあの連中も反対すまい」

とヴァルテンベルク上級大将が言った。


「問題はまたアヴァロン条約が増えることくらいですな。となると、必要なのは時間、ですか」

ヴィルマー中将の確認に頷いて、上級大将は続けた。


「そうだ。結局昨日とやることは変わらん。王都を現有戦力で守護することだ。夜明けまでに、西区向けの暫定命令を切り直す」


「混成だ。王都警備、市警補助、橋梁保全分遣隊。階統も癖も違う。今夜中に一枚へまとめて回せ」


「は」

とハルトゥング少佐が答えた。


その返答の早さで、少佐の頭の中では、すでに命令書の骨格が出来上がっているのだと分かった。


彼は地図の前へ立ち、鉛筆を取った。

そのまま迷いなく、路地と橋と広場へ線を引いていく。


「現時点で最善なのは」


声は乾いていて、速かった。


「王都警備第二中隊第一小隊はサン=マルク橋南詰。第二小隊は倉庫街北口へ。市警補助隊第一班は河岸通り第三辻、第二班は司祭院路地北口。橋梁保全分遣隊は荷運橋東詰に荷車二列障壁を構築、河岸側の二台から順に倒して橋口を斜めに狭める。午前三時十分をもって第一線を放棄、第二線へ後退。サン=マルク橋南詰から王宮西門前へ退く線は司祭院路地を噛ませて一本に保つ。伝令は西門裏路地を主、教会横路を副とし――」


美しかった。

図面の上では、ほとんど過不足がなかった。


ハルトゥング少佐という人は、こういう時に本当に恐ろしい。

状況を聞いた瞬間に、最短経路と必要兵力と時間を一つの形へ畳み込んでしまう。

地図の方が、先に少佐へ従うような気さえする。


だが、クラウスはその整い方に、うまく名のつかない怖さを覚えた。


「……失礼を承知で申し上げますが」

口を挟んだのは、王都警備の副官だった。

副官は地図を見たまま、言葉を選ぶように続けた。


「そこまで細部が書かれると、現場は“外れた時に誰が責任を取るか”ばかりを気にします」


部屋が、わずかに静まった。


誰もその言葉を正面から肯定はしなかった。

だが否定もしなかった。


クラウスは、その一言で、自分の中にあった違和感の輪郭を初めて掴んだ気がした。


王都警備の大尉は、この路地の石畳の滑り具合を知っている。

市警補助の曹長は、どの門が夜に閉まるかを知っている。

橋梁保全分遣隊の下士官は、どの荷車が倒しやすく、どれが車軸ごと折れるかを知っている。


ここでこの部屋から、全部を先に決めてしまえば――


その瞬間、少佐の鉛筆が止まった。

ほんの一瞬だけ、彼は図面から目を離し、扉の方へ視線を向けた。

だがすぐに、何事もなかったように視線を地図へ戻す。


副官はそれきり口を閉じた。

少佐の鉛筆は、すぐにまた動き出した。


「少佐殿」

思わず、クラウスは口を挟んでいた。


室内が少し静まる。

少佐の手が止まった。


「何です」

それは不機嫌だったが、怒りそのものではなかった。

続ける機会だけは残されている声だった。


「……そこまで書く必要は、あるでしょうか」


ヴィルマー中将が眉を上げた。

ヴァルテンベルク上級大将は何も言わない。


ハルトゥング少佐は、鉛筆を机へ置いた。


「必要です。現場の部隊に細部を残しすぎれば、各個に潰れます」


「はい。ですが…今、現場にいるのは混成部隊です。ノルトマルクの正規軍ではありません」

クラウスは地図を見たまま言った。

「細部まで先に決めると、一つ崩れた時、誰も次を決められなくなります」


少佐の目が細くなる。


「続けたまえ」

とヴァルテンベルク上級大将が低く言った。


クラウスは一度だけ喉を鳴らした。

自分でも、うまく説明できる自信はなかった。

だが、いま黙ると、少佐の美しい命令がそのまま出る気がした。

それは、なんとなく嫌だと思った。


「必要なのは、……完成した配置ではなく」

と彼は言った。

「今夜、何のために動くのかを、全員が同じように知ることかと」


誰も口を挟まない。

それがかえって少し怖い。


「夜明けまで、王都中央部と王宮前広場へ敵の塊を作らせない。まず、それだけを第一義にする」


クラウスは指を地図の中央へ置いた。


「次に、西区は現位置の保持そのものを目的にしない。路地を一つ二つ捨てても構わないから、敵を細街路へ散らし続けることを主にする」


指を西区へずらす。


「最後に、王宮西門、鉄路門、電信局へ通ずる直通路だけは空けない。そこだけを最低遵守事項にする」


静かだった。


クラウスは少しだけ息を継いでから、最後に言った。


「その三つだけを書いて、あとは現場にやらせた方がよいかと存じます。どの路地を下げるか、どの荷車を倒すか、どこで半歩退くかは、王都警備の大尉や市警の曹長の方が僕らより知っています」


ヴィルマー中将が、疲れた顔のまま言った。

「それは参謀の命令とは言わん」


「はい」

とクラウスは答えた。

「粗いです。ですが、粗い方が今夜は動くかと思いました」


ハルトゥング少佐が、今度は少しだけ間を置いて返した。

「大尉殿が仰っているのは、命令ではなく希望です」


彼は地図の一角を指で叩いた。

「本文がその程度なら、王都警備は橋を守り、市警は路地を守り、橋梁保全分遣隊は退路を忘れる。各隊が自分に都合のよい命令を読むだけです。混成部隊にそれをやらせれば、線が裂ける」


「だから最低遵守事項だけは残します」

とクラウスは言った。

「そこを越えない限り、現場が勝手に動ける方がよい。いま必要なのは、路地幅までこの部屋から決めることではなく、何のために退いてよくて、何のためには退いてはならないかを先に示すことです」


「それでも弱い指揮官は迷う」

とヴィルマー中将が言った。

「君の案は、現場の指揮官が皆まともに動くことを前提にしている」


「はい」

クラウスは答えた。

「ですが、少なくともその路地では、昨日の私より良い判断をするでしょう」


それは気負いでも謙遜でもなかった。

ただの感想だった。


少佐はそこで、初めて少しだけ表情を変えた。

それから、低く訊いた。


「では、何も持たせずに現場へ出すのですか」

クラウスは答えかけて、少しだけ詰まった。

そこまで捨てろと言いたいわけではなかった。

全部を投げろとも思っていない。


「……いいえ」

と彼は言った。

「持たせます。ですが、本文ではなく」


少佐がその先を待つ。


「別紙として」

クラウスは言った。

「本文には第一義と最低遵守事項だけを書く。けれど別紙には、参謀側の最適形を置く。現場はそれに縛られはしないが、放り出されもしない」


部屋が静まった。


ハルトゥング少佐は、クラウスではなく、自分の図面の方を見た。

その沈黙は不機嫌だったが、同時に計算でもあった。

彼は、反対している時でも、相手の言葉を処理してしまう人だ。


ヴィルマー中将が小さく息を吐いた。

ヴァルテンベルク上級大将は、そこで初めて深く椅子へ凭れた。


少佐は自分の図面から目を離さぬまま言った。

「……その場合、本文の末尾に一行足すべきです」


クラウスは少しだけ目を上げた。

「何をでしょうか」


少佐は机上の紙を引き寄せた。

「『上記第一義及び最低遵守事項に反せざる限り、各隊指揮官は局地判断を躊躇すべからず』」


その一文を、彼は極めて当然の顔で書いた。

粗い命令に、骨だけ通したのだとクラウスには分かった。


それから少佐は、もう一枚紙を引いた。


「本文は今の形でよいでしょう」

と彼は静かに言った。

「ただし、大尉の言う通り、参謀側の見立てまで消す必要はありません。現場が迷った時のために、別紙へこちらの算出した最適形を付します。退路の目安、荷車障壁の組み方、伝令路の主副。そこまでは先に置いておく。そうでなければ命令ではなく放任です」


クラウスはその瞬間、少しだけ救われた気がした。

自分が本当に言葉にしたかったことを、少佐は一息で別の制度へ訳していた。


ヴァルテンベルク上級大将は、本文と図面を見比べるように一瞬だけ目を落とした。

「……これでは命令というよりも、訓令だな」


それから、何かを確認するように何度か短く頷いた。


「よし。そちらで出す」

その一言で、形は決まった。


ハルトゥング少佐の図面は無駄にならなかった。

ただ、命令そのものからは一歩退いた。

現場を縛る本文ではなく、現場を助ける別紙へ回ったのである。


そしてクラウスの粗い三行が、本文になった。


結局のところ、クラウスは全部を書く場所を分けただけだった。

いつものように。





書記官が清書した命令は、ひどく短かった。


『第一義は、夜明けまで王都中央部及び王宮前広場への敵集結を許さぬことに在り。

西区各隊は現位置の死守を目的とせず、敵を細街路に分散遅滞せしむるを主とす。

王宮西門、鉄路門、電信局へ通ずる直通路は、いかなる場合も無警戒にすることなかれ。

上記第一義及び最低遵守事項に反せざる限り、各隊指揮官は局地判断を躊躇すべからず。』


四文。

路地名も小隊番号も、本文にはない。

参謀の仕事としては、あまりに不親切だった。


王都警備の各隊はそれを受け取ると、一瞬だけ怪訝な顔をした。

たぶん「これだけか」と思ったのだろう。


だがすぐに、別紙の参考配置図と見比べて、表情が少し変わった。


本文は短い。

だが別紙には、参謀側が「この地形なら、まずこう動く」と見た形が置かれている。

退路の目安も、荷車障壁の組み方も、伝令路の主副も、そこではすでに示されていた。


つまり、縛られてはいないが、放り出されてもいない。





午前の終わり近く、王都警備の副官が泥だらけのまま戻ってきた。


昨夜より少しだけましな顔をしていた。

よい知らせだからではない。

少なくとも、自分が何をしているか分かる顔で戦えている人間の顔だった。


「報告します。西区遮断線、なお維持。荷運橋方面は散発接敵のみ。王宮前への大規模侵入なし」


ヴァルテンベルク上級大将が短く訊いた。

「命令は機能したか」


副官は一瞬だけ迷った。

それから、率直に答えた。


「はい。現場としては、かなり助かりました」

「どの点が」

「どこを死守せよではなく、何を防げと書いてあったことです」

「おかげで、路地を一つ退く判断がしやすかった。皆、退くことに罪悪感を持たずに済みました」


そこで一息入れ、続ける。


「それに、別紙がありました。退路の目安も、荷車障壁の組み方も、伝令路の主副も、参謀側の見立てが置かれていた」


部屋が少し静まった。


副官本人は、自分がいま非常に重要なことを言った自覚がないようだった。

現場の人間にとっては、それは思想ではなく実感に過ぎないのだろう。


だが参謀たちには十分だった。


ヴィルマー中将が、ほとんど独り言のように言った。

「退いてよい条件を先に書いたうえで、迷う地点の叩き台だけは置いたわけか」


ハルトゥング少佐は何も言わなかった。

ただ西区の現状図の線を一本引き直し、時刻を書き添えただけだった。


ヴァルテンベルク上級大将が、ふとクラウスを見た。


「大尉」

「は」

「平時の君は、たぶん第三課で帳簿をいじっている方が向いているのだろう」


それはあまりにその通りだったので、クラウスは返答に困った。


「だが戦時の君は」

と上級大将は続けた。

「全部を決める人間ではなく、全部が勝手に崩れぬための線だけ先に引く人間らしいな」


クラウスは少しだけ目を伏せた。


褒められたのか、変な奴だと言われたのか、まだ判別がつかなかった。

だが少なくとも、昨夜の失敗と今朝の命令が、同じ線の上で理解されたのだとは分かった。


「恐縮です」

と彼は言った。


もちろん、他に言うべきことが見当たらなかったからである。





夕刻、旧税関庁舎の屋上へ出ると、王都サン・ルネは黒い屋根の海のように沈んでいた。


ところどころに火。

ところどころに灯。

さらに遠くで発砲。


戦争というものは、地図の上では太い矢印で描かれるくせに、実際にはこういう散発的で、面倒で、見栄えの悪い現象の集積でしかない。


クラウスは欄干へ手を置いた。

石はまだ昼の熱を少し残している。


隣へ出てきたハルトゥング少佐が煙草へ火をつけた。

灰色の煙が、王都の上へ細く流れる。


「少佐殿」

「はい」

「今朝の命令ですが」

「ええ」

「もし、僕が口を挟まなければ、あの完成した命令が出ていたのでしょうか」


少佐は少し考えた。

「出ていたでしょうな」


「それでは、駄目だったでしょうか」


「そこまでは分かりません」

「成立したかもしれないし、最初の崩れで全部が死んだかもしれない。私はその程度には、自分の命令を信じていますし、同時に疑っています」


それは正直な言い方だった。

クラウスは欄干から目を離さずに言った。

「僕は少佐殿だけでなく、ノルトマルクの士官ならたぶん皆、僕よりいい判断をすると思っています。少なくとも、現場に立っている時は」


「それは自己卑下ですか」


「いいえ。感想です」

クラウスは答えた。

「昨夜、自分でやってみて、よく分かりました」


少佐は煙を吐いた。

その横顔には、すぐに反論しようとする硬さがなかった。

「だから、配置を本文から引き剥がした」


「はい。押し込まない方がましだと思っただけですが」


「また分ける癖、ですか」

少佐は少し間を置いてから、静かに続けた。

「全部を本文へ書くと、現場は自分の目を捨てることがある。逆に何も書かなければ、今度は全体を裏切る」


「……もしかしたら、上で決めるべきは、何のために動くかと、どこから先は駄目か、そのくらいなのかもしれませんね」

それはクラウスにとって、その時思いついた言葉以外の何物でもなかった。

少佐は少しだけ目を上げた。


「手段は現場に選ばせる。だが、その選択が全体を壊す境だけは、先にこちらが定める――ということですか」

その言い方は、粗く、途中で、少し乾いている。

だがだからこそ、いかにも本当らしかった。


「少佐殿が言うと、まるで陸大の教練のようですね」





遠くでまた一つ、銃声が鳴った。

それでも王都はまだ生きている。

昨日までの王国は、完全には死んでいない。


クラウスはその時まだ、自分の役割を思想として理解していたわけではない。

彼はただ、全部を決める人間ではないのだと知ったにすぎない。


その程度の、かなり地味で、あまり英雄的でない理解である。


もっとも歴史というものは、そういう地味な理解の方をあとから平然と教範へ仕立てる。

ひどく勝手で、そして案外正確に。

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