第十九話 請願なき保護
エレオノーラ第一王女殿下のために用意されたその部屋は、表向きには「弔喪のための静養室」と呼ばれていた。
王宮北翼の二階。
窓は高く、光は白く、壁布は淡い灰で家具は必要な数だけある。
侍女が二人。香炉が一つ。祈祷書が一冊。
そして扉の外には、ベルヴァーニュ儀礼随伴部の歩哨が二名。
彼らは武装していない。
礼装の黒衣に、帯剣もない。
つまり、暴力の匂いだけが綺麗に拭われている。
武器を持たぬ歩哨ほど、相手を動けぬ者として扱っていることをよく示すものはない。
「我々は丁重です」という顔は、相手が逃げない時にしか成立しない。
「行くぞ、少佐」
とアルジュー侯が言った。
相変わらずベルヴァーニュの宮廷の色が強い、よく磨かれている声だった。
ド・サン=クレールは侯の半歩後ろに付き従った。
二人が入室すると、王女は窓辺に立っていた。
座ってはいない。今立ち上がったのでもない。
最初から立っていたのだろう。
顔色はよくない。
だが、姿勢は少しも崩れていなかった。
アルジュー侯が一礼した。
「殿下。ご機嫌伺いに参りました」
王女は礼を返したが、座らなかった。
「ありがとうございます。侯自らとはずいぶん丁重なご機嫌伺いですこと」
侯は微笑んだ。
「殿下の安寧をお守りするのは、我々の名誉でもあります」
「そう」
王女は言った。
「では、その名誉はいつまで続くのかしら」
侯は一瞬だけ言葉を選んだ。
「王都の騒擾が収まるまでは、お守りせねばなりますまい」
「騒擾」
王女は窓の外へ目をやった。
「西区のことを、そう呼ぶのですね」
窓の向こう、遠い方角に煙が細く残っている。
王都は昨夜から、まだ完全には静まっていない。
アルジュー侯は、慎重に続けた。
「昨夜の暴徒化は、殿下の御身にも危険を及ぼしかねませんでした。ゆえに、我が国としては暫定的な保護を」
「わたくしは、保護を請うた覚えがありません」
侯の言葉は、そこで切られた。
切ったのは声ではない。文の構造の方だった。
ド・サン=クレールは内心で、少しだけ感心した。
この王女は、自分が何を言ったことにされるかをよく知っている。
それでも、アルジュー侯は笑みを崩さなかった。
「殿下の御言葉を待っていては、間に合わぬ場合もございます」
「かもしれません」
と王女は言った。
「ですが、だからといって請願したことになるわけではありませんわ」
部屋が少し静かになった。
侍女の一人が視線を伏せる。
アルジュー侯は気にした様子を見せずに、柔らかく言った。
「殿下。我が国は殿下の縁者として当然の礼を尽くしているにすぎません」
王女はごくわずかに首を傾けた。
「ベルヴァーニュでは部屋に閉じ込めることを礼と言うのですね」
侯の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
ド・サン=クレールは黙ったまま、王女の横顔を見ていた。
頑ななのではない。
書かれ方を拒んでいるのだ。
彼女は保護そのものより先に「保護された」という文言を拒否している。
「殿下は、お疲れです」
と侯は言った。
「今はご静養を」
「父の都が燃えかけている時に、娘だけ静かに休むのは、少し不作法ではなくて?」
そこで初めて、アルジュー侯は王女から明確な協力が得られないと悟ったようだった。
「ではせめて、不安をお覚えであるとは仰っていただけませんか」
王女はその問いに、すぐには答えなかった。
窓辺の細い光が、彼女の頬に落ちている。
「不安ですわ」
と彼女はやがて言った。
「父の亡い王都が、誰の言葉で明日を迎えるか分かりませんもの」
アルジュー侯の目に、わずかな期待が走る。
だが王女は、その次をこう続けた。
「けれど、それはベルヴァーニュに守ってほしいという意味ではありません」
その答えは、気取りも飾りもなかった。
むしろ、その分だけ疲れて聞こえた。
そして王女は、ついにこちらへ椅子を勧めなかった。
座らぬ会見は長く続けにくい。
形式上、これは短い表敬でしかない。
彼女は最後まで、その形を崩さなかった。
「ご機嫌伺いなら、もう十分でしょう」
と王女は言った。
「わたくしはまだ、ここに立っております。どうかそのことを、ありのままにお書きになってください」
それは逐語的には穏やかだった。
だが意味としては、かなり強い退出命令だった。
アルジュー侯は一礼した。
ド・サン=クレールもそれに従った。
扉が閉まる直前、彼は一度だけ振り返ったが、王女はやはり座っていなかった。
◆
廊下へ出ると、空気の温度が少し下がった。
王宮北翼の廊下は静かだった。
静かだが、静けさにもいくつか種類がある。
ここは祈りの静けさではない。
誰も声を荒げぬまま、次の文言を探している静けさだった。
アルジュー侯が先に口を開いた。
「ずいぶんと賢い」
それはもちろん褒め言葉ではない。
厄介だ、と言っているのとほとんど同じだった。
「ええ」
とド・サン=クレールは答えた。
「書かれ方を知っているのです」
侯は足を止めた。
「だが王女は我らの保護下にいる」
「おりますな」
「王都は荒れた。荷運橋も落ちた。昨夜の火は十分だろう」
ド・サン=クレールはそこで、小さく首を振った。
「まだ足りません」
「足りぬか」
侯の声には、苛立ちが混じっていた。
当然だろう。
王都は荒れた。王女は事実上、ベルヴァーニュの目の届く部屋にいる。
それでも、出兵の理由としては事足りない。
「殿下は一度も、我々に保護を求めておりません」
とド・サン=クレールは言った。
「保全評議も、今朝の時点ではまだ黙っていない。王都の名で布告を出せる限り、この国は完全には死んでいません。ノルトマルクもまだ軍団を入れておらぬ。分遣隊と議定書の陰にいる」
アルジュー侯は眉をひそめた。
「ならば、何が要る」
「請願です」
ド・サン=クレールは答えた。
「あるいは王都政府の沈黙。もしくはノルトマルクの先行越境」
そこへ副官が一人、足早に来た。
低い声で報告する。
「北営舎より。西区の小競り合いはなお継続。ただし、保全評議は先ほど鉄路門と関税門に関する布告を出しました。ルサントの名で、です」
侯は舌打ちこそしなかったが、その寸前の顔をした。
「まだ紙が動いているのか」
「ええ」
とド・サン=クレールは言った。
「それが問題です。王都が半分壊れていても、紙がまだ動いているうちは、列国評定の第一行は我々に優しくない」
彼は窓外へ目を向けた。
北営舎の方角ではなく、王都の中心部の方へ。
「こちらが今ここで軍団を越えさせれば、列強諸国での評定の冒頭はこうなります。"ベルヴァーニュ、弔問を装いルサントへ侵入"」
アルジュー侯は、わずかに眉を寄せた。
「そこまでこだわる必要があるか。戦になればどうせ我らが勝つだろうに」
ド・サン=クレールはそれを否定しなかった。
「ええ。そうかもしれません」
彼は静かに続けた。
「ルサントは割れている。王都は浅い。ノルトマルクは諸邦の意志すら統一できていない。軍団を越えさせれば、王都そのものは取れるでしょう」
そう言い切ってから、一拍だけおいて続けた。
「だからこそ急がぬのです。勝てる戦で、わざわざ"侵略"の名を先に引き受ける必要がない」
アルジュー侯は苦い顔で言った。
「では、先に殴られるまで待てと?」
ド・サン=クレールは少しだけ考えてからそれに答えた。
「いいえ。先に殴られたように見えたいのです」
侯はしばらく黙った。
そして、確認するように独り言ちた。
「ノルトマルクが軍をルサントへ入れるか、王都が沈黙するか、王女が我らを呼ぶか」
「できれば二つ。一つだけでは、後で面倒です」
「列国評定のためにか」
「ええ。評定の第一行は、後から師団一つ分の重みを持ちます」
侯はゆっくり息を吐いた。
「面倒な話だ」
◆
二人はそのまま、王宮北翼の小控室へ移った。
小控室と言っても、ここ数日でほとんど軍務室に変わっていた。
地図があり、紙があり、王宮の部屋なのに、王宮らしいものは椅子の脚飾りくらいしか残っていない。
机の上には、サン・ルネ市街図、北営舎配置、国境線、王都内主要施設一覧。
それに、公使館宛の送信用草案が三通。
アルジュー侯はその草案の一つを手に取った。
「これは?」
「公使団向けの要約です。"第一王女殿下は王宮北翼にて静養中。王都秩序なお流動的。ベルヴァーニュ弔問使節は安寧確保のため館内に滞在継続"」
侯は紙を机へ戻した。
「もっと踏み込んでよいのではないか。『殿下は深い不安の中にある』くらいは」
ド・サン=クレールは首を振った。
「不安は事実です。だが、その不安が誰に向いているかは、まだ殿下が一度も口にしていない。そこで言い過ぎれば、後で文言が浮きます」
「文言が浮く」
「ええ。嘘を埋めるためには、新しい嘘がいります」
侯はそこでやっと椅子に腰を下ろした。
「北営舎は?」
「まだ動かしません」
とド・サン=クレール。
「ただし馬は鞍を外させずに。儀礼随伴部には引き続き礼装待機。銃は見せず、剣帯は解かず。それと医師を一人、聴罪司祭を一人、殿下のもとへ送ります」
「軟らかく締めるわけだな」
「保護は、せめて優雅に見えねばなりません」
侯は、ほんのわずかに笑った。
笑ったが、その目はまだ冷えている。
「君はいつも、そのあたりだけ妙に冷静だ」
「それが仕事ですから」
副官が再び入ってきた。
「北営舎より確認。ノルトマルク側の大軍移動はまだ見えず。ただし旧税関庁舎からの伝令頻度が増しております」
ド・サン=クレールはその報告に、少しだけ意識を向けた。
ノルトマルクもまた同じ計算をしている。
王都が完全には死んでいない限り、自分からは軍団を入れぬ。
昨日までの王国を、もう一日でも延命させるつもりなのだろう。
あちらは「生かす」側。
こちらは「死んだように見せる」側。
そしてどちらも、その先の衝突をもう止められるとは思っていない。
「旧税関庁舎の連中は、まだ息を継がせるつもりです」
と彼は言った。
アルジュー侯が鼻を鳴らす。
「ならば、こちらは息を浅くしてやればよい」
「ええ」
ド・サン=クレールは答えた。
「ただし、こちらの指が喉に見えぬように」
その一言で、侯の気分は少し収まったらしい。
「ならば軍の事は任せる」
「はっ」
彼は立ち上がり、副官へ短く命じた。
「北営舎へ。待機継続。騎兵は出すな。公使館には先ほどの文面で送れ。ただし、王女殿下の安寧がなお"流動的"であることは強く書け」
副官がその命令を復唱して退室する。
ド・サン=クレールは最後に、もう一通の草案へ目を落とした。
こちらは本国の戦争省向けだった。
彼は一語だけ書き換えた。
"保護継続中"を、"保護成立未了"へ。
その方が正確だった。
そして、上が続きを欲しがる文でもあった。
◆
日が傾く頃、王宮北翼の窓へ西日が差し始めた。
ド・サン=クレールは、もう一度だけ静養室の前を通った。
扉は閉じている。
無武装の歩哨は、相変わらず綺麗に立っている。
部屋の中から声はしない。
彼は立ち止まらなかった。
だが、一瞬だけ考えた。
あの王女は、賢い。
賢いから、請願しない。
請願しない限り、こちらはまだ大きくは動けない。
だが王都がもう一晩荒れれば、賢さもまた別の形を取るかもしれない。
窓の外、サン・ルネの街はまだ完全には死んでいなかった。
鐘も鳴る。
門も開く。
評議会の紙も動く。
だから今夜のベルヴァーニュはまだ侵入者ではなく、あくまで丁重な客人でいなければならない。
客人というものは、帰る時を失うと急に別の名で呼ばれ始める。
ド・サン=クレールは廊下の曲がり角で副官に命じた。
「北営舎へもう一度。まだ動くな、だが馬の鞍は外すな」
「何を待つのです」
彼は答えた。
「王都が一つの文を失うのを」
それだけ言って、歩き出した。
今夜もまた、誰かが何かを丁寧な語で呼び替える。
そして呼び替えられたものの方が、明日には事実になる。
それが政治であり、国境であり、まだ完成していない戦争だった。




