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第十八話 昨日までの王国

戦争が始まると、人はすぐに「誰が王か」を語りたがる。

だが実際に先に決まるのは、どの橋がまだこちら側で、どの門がまだ開き、どの命令がまだ命令として通用するか、という、ひどく見栄えの悪い種類の現実だった。



旧税関庁舎の二階奥、臨時作戦室の空気は、夜明け前の王都にふさわしい顔をしていた。


石炭煙。

碘酒。

濡れた外套。

乾ききらぬ血の匂い。

それに、誰も口にしない失敗の気配。


窓の外では、サン・ルネ西区の空がまだ鈍く赤い。火事というほど派手ではない。倉庫街で燻る火種が、曇り空の底をわずかに染めているだけだった。

大きな敗北というものは、えてしてその程度の色しか持たない。


クラウスは、呼び出しを受けてその部屋へ入った時、自分が叱責されること自体には、もう驚いていなかった。


荷運橋は落ちた。

市内へ私兵を通した。

封璽は実質的に破れた。

ベルヴァーニュは、待っていたと言わんばかりに王女保護を口実に動いた。


どこから見ても、ひどい失態だった。


机の向こうにはヴァルテンベルク上級大将、ヴィルマー中将、ハルトゥング少佐がいた。

誰も怒鳴ってはいない。

怒鳴られない時の方が、かえって嫌なこともある。


「来たか」


ヴァルテンベルク上級大将が言った。


「座れ」


クラウスは敬礼し、椅子へ腰を下ろした。

座った瞬間、脚の奥に昨夜の疲労が残っているのを思い出した。立っているうちは意外と分からない。人間の身体というものは、座らせた途端に文句を言い始める。


机の上には、夜半に彼自身が書いた報告書が置かれていた。


『荷運橋保持兵力不足。予備隊転用判断不適。敵先入を許し、封璽保全不能。』


乾いていて、短く、逃げ道がない。

昨夜のクラウスには、それくらいの文しか書けなかった。


「報告はよい」

ヴァルテンベルク上級大将は、その紙を指で軽く叩いた。

「少なくとも、言い訳に逃げておらん」


それはこれから来るものが褒め言葉でないことを告げる前置きとしては、かなり丁寧な部類だった。


「問題は、その前だ」


クラウスは黙って頷いた。

ここで口を挟む気力はなかったし、言ったところで何かが軽くなるとも思えなかった。


ヴァルテンベルク上級大将は、西区の地図へ目を落としたまま言った。


「君は両橋を保持したかった。どちらも捨てぬ形で、どちらにも偏って見えぬ形で、王都の政治的均衡も保ちたかった。違うか」


「……はい」


「評議会なら結構だ」

上級大将は言った。

「橋の前では、贅沢だ」


贅沢。

実に嫌な言葉だった。

だが、まったくその通りでもあった。


横から、ハルトゥング少佐が静かに口を開いた。


「昨夜の配置は、良くありませんでした」


少佐の声は平坦だったが、そこに昨夜のような切断の鋭さはなかった。

むしろ、切った後の形を見せようとしている声だった。


「ですが」と少佐は続けた。

「どう悪かったかがはっきりしている分だけ、まだ直せます」


クラウスは少しだけ目を上げた。


「大尉殿は、橋ではなく意味を守ろうとした。そこまでは分かります。どちらか一方を厚く見せれば、それ自体が王都に対する政治的意志になる。そう考えたのでしょう」


「はい」


ヴィルマー中将が、疲れた顔で息を吐いた。


「要するに、君は政治の意味を見た」

そして少し間を置いて続ける。

「そのまま兵を置いた」


クラウスはその言葉を、しばらく頭の中で転がした。

政治の意味を見たまま兵を置く。

なるほど。それが自分の失敗の名前なのだろう。


橋を一つ厚く守れば、そこへ意志が生じる。

だから二つを薄く守った。

その結果、意志は消えたかもしれないが、橋も消えた。


ひどく事務的な失敗だった。

そして軍事的には、ほとんど致命的だった。


「もっとも」

ヴァルテンベルク上級大将が、そこで声を少し落とした。

「君一人の責ではない。君を西区へ出した私の判断にも誤りがある」


クラウスは思わず顔を上げた。


「私は、君が場の意味をよく嗅ぎ取るのを知っていた。だから橋と王都の境へ出した。だが昨夜必要だったのは、匂いではなかった。どこを捨てるかを即座に決める手だ」


救いにはならない。

だが、単純な無能呼ばわりでもなかった。


「申し訳ありません」

とクラウスは言った。


「謝罪は受け取る」

ヴァルテンベルク上級大将は答えた。

「だが状況は戻らん」


短く、静かだった。

それで十分だった。


室内に沈黙が落ちる。

窓の外では、遠くで単発の銃声が一つだけ鳴った。撃ち合いではない。そういう音の方が、かえって嫌なこともある。


その時、扉が叩かれた。


伝令ではなく、宮内の書記官だった。

顔色は悪い。王宮勤めの人間が顔色を悪くする時は、たいてい悪い知らせか、悪い訪問客か、その両方である。


「閣下」

と書記官が言った。

「ヴァロワ伯と、アドル伯派の代表二名が、保全評議の名において会見を求めております」


ヴァルテンベルク上級大将が眉を動かした。

「いますぐか」


「いま、だそうです」


「なるほど。橋を落としてから来るあたり、順序にだけは気を遣っておるらしい」


上級大将は立ち上がった。

ヴィルマー中将も椅子を引く。

ハルトゥング少佐は書類束を二つに分け、一つをクラウスの前へ押した。


「会議が終わったら戻りましょう」

と少佐は言った。

「明日の朝までに、大尉殿は昨夜の地図を見直していてください。どこを失ってもよくて、どこだけは落としてはならなかったのか」


叱責の続きかと思ったが、違った。

これは宿題である。

クラウスは初めて、宿題をありがたいものだと感じた。





会見は、小評議の間ではなく、その隣の古い会食室で行われた。


評議の卓はまだ封璽と保全評議の名残を濃く残しすぎていたし、ここから先はあくまで「保全のための調整」であって、「承認」ではないという体裁が必要だったからだろう。

体裁とは厄介だが、消えるともっと厄介になる。


部屋には、ヴァロワ伯のほか、アドル伯の軍務を預かるという痩せた騎兵大佐、それに灰色の法服を着た参事がいた。

どの顔も寝不足で、どの顔も怒っていた。

寝不足の怒りはたいてい本物である。社交の余地が少ないからだ。


ヴァロワ伯は席に着くなり、前置きなしに言った。

「なぜ我らの兵を止めた」


声は乾いていた。怒鳴ってはいない。

そして怒鳴っていない人間の方が、後で厄介な場合もある。

「連邦は我らを支持すると、そう言ったはずだ」


ヴァルテンベルク上級大将は、椅子の背に深く体を預けたまま答えた。

「言ったとも」


それだけ言って、一拍置く。

「だからこそ止めた」


騎兵大佐が先に反応した。

「……何だと」


「聞こえなかったか」

上級大将の声は低かった。

「連邦が必要としていたのは、王国を継ぐ名分を持ち、まだ王国の一部として振る舞っていた君たちだ。王都の橋を勝手に渡り、ベルヴァーニュに“保護”の名目を贈る今日の君たちではない」


参事が顔をしかめた。

「我らは王都を救おうとしたのだ」


「救う?」

ヴァルテンベルク上級大将は、ほとんど感情を動かさずに言った。

「橋を押さえ、倉庫街を騒がせ、北営舎のベルヴァーニュ兵へ“王女保護”の口実を与えておいてか」


「それは――」

「言葉を飾っても状況は戻らんし、暴走した私兵も止まらん」


その時、ヴァロワ伯が、噛みつくように別の問いを放った。


「ならばベルヴァーニュの血を引いた王女を支持するのか」


部屋が少し静まった。

問いとしては上等だった。答えにくく、しかも答えねばならない。


しかしヴァルテンベルク上級大将は、まるで天気の話でもするように言った。

「無論」


ヴァロワ伯の目が細くなる。

上級大将は続けた。


「彼女が我々との協定を守り、鉄道を閉ざさぬのであれば」

その一言で、部屋の空気が冷えた。


血。

正統。

継承。

それらを、鉄道の開閉と同じ秤へ乗せてしまったからだ。


だがクラウスには分かった。

それは比喩ではなく、本当にその順序なのだ。


ヴァルテンベルク上級大将は、そこでわずかに身を起こし、今度はさっきよりはっきりした声で言った。

「我々は、昨日までのルサントを保ちに来たのだ。弱い王を戴き、両大国の間で頭を下げ続け、それでもなおルサントの名で門を閉じ、橋を守れていた、あの王国をな。それが気に入らぬなら連邦憲章の下へ入るか、ベルヴァーニュ皇帝に跪くか、そのどちらかだ」


誰もすぐには言い返せなかった。


それはルサントに対する礼を欠いた言葉だった。

だが礼を欠いている分だけ、連邦が保とうとしていたものの輪郭は、かえって明瞭だった。


ヴァロワ伯の顔が、怒りと屈辱のあいだで少しだけ歪む。

騎兵大佐は口を開きかけてやめた。

参事は視線を落とした。


「ならばベルヴァーニュはどうする」

とヴァロワ伯は続けた。

「あれはもう兵を出すぞ」


ヴァルテンベルク上級大将は眉一つ動かさなかった。


「出せるものなら、とっくに出している」


「……何だと」


「いま王都にいるのは、まだ“保護のふり”ができるだけの兵だ。

軍団を国境から越えさせれば、王女保護ではなくベルヴァーニュの戦争になる。そうなれば、こちらも西部軍を議定書の陰へ隠してはおかん」


上級大将は机上の地図を指先で軽く叩いた。


「あちらが欲しているのは出兵そのものではない。

出兵が仕方なく見える瞬間だ」


それは、ひどく嫌な説明だった。

嫌であるということは、だいたい正確だということでもある。


ヴァロワ伯はしばらく黙った。


「……それでは、我らは使われていただけだ」

と、ようやく言った。


「大国が隣国の継承へ関わる時、たいていそうだ」

とヴィルマー中将が疲れた声で言った。

「君らだけではない」


この中将は、こういう時だけ妙に正直であった。


ヴァロワ伯は立ち上がった。

怒鳴らず、机も叩かず、ただ立った。

その方が、かえって諦めに近く見える。


「連邦は、この先どうする」


ヴァルテンベルク上級大将は答えた。


「王都を壊させぬ」


それだけだった。

だが今この部屋で出せる答えとしては、たぶんそれ以上に正確なものもなかった。


会見は、握手も和解もなく終わった。

お互いに、相手の本音を少しだけ見た。

そして、それ以上見てもあまり得がないと悟った顔で、部屋を出た。





廊下へ出ると、朝の光が高窓から白く落ちていた。


クラウスは何も言わずに歩いていた。

その沈黙は、もちろん思慮深さではない。単に考えが追いついていないだけだ。

隣を歩いていたハルトゥング少佐が、やがて口を開いた。

「大尉殿」


「はい」


「昨夜、大尉殿が守ろうとしていたものも、あれでしょう」


クラウスは少し顔を上げた。

「あれ、とは」


「昨日までの王国を」


少佐は窓の外を見たまま言った。

「そこは多分、外していません。ただ、あの状況でそれをやると遅い」


その言い方は、ずいぶんと優しかった。

少なくとも、今の自分には必要な種類の優しさだった。


「……では、私は何を見ればよかったのでしょう」


「順序です」


少佐は即答した。


「何を守りたいかではなく、何を先に守るか。そこが昨夜は曖昧でした。大尉殿は守るべきもの全てが見えていた。ですが兵が足りない時、全体は一度に守れません」


少し間があった。


「分ける癖は、捨てなくていい」


クラウスは思わず少佐を見た。


「それは君の癖ですから」

少佐は淡々と続けた。

「今さらやめても、多分ろくなことになりません。ですから、分けるものを変えてください」


「分けるものを」


「ええ。何をどう分けるか。その順序を考えることは私より得意でしょう」

そう言って、ほんのわずかに口元を緩めた。


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