第二十一話 霧の仲介者
ロガリア連合王国首都アヴァロン。
サー・エドマンド・ペンブルック卿の私邸は、古い並木通りに面していた。
邸の表は静かで、裏は灰色の煉瓦小路へ抜ける。
庭には古い林檎の木が二本ある。
どちらももう何年もろくに実を付けぬが、剪定だけは几帳面に続けられていた。
植物でも家でも、使われぬまま形だけを保つ場所というものがある。
ペンブルック卿はすでに、そういう場所の主人だった。
六十八歳。
ロガリア外務省名誉顧問。
かつては大陸諸宮廷を渡り歩いた職業外交官であり、それより前にはロガリア陸軍士官として軍にいたこともある。
ある朝、執事が卿の朝食の膳を下げた頃合いに、外務省からの小包が届いた。
月に何度か回されてくる、大陸情勢の定期要旨である。
現役の大使や公使なら毎朝机上に積まれる類の文書だが、引退した名誉顧問に届くのはせいぜい週に一、二度。
しかし今朝の包は、いつもより少し厚い。
卿は書斎へ移り、紅茶を一口含んでから封を切った。
いちばん上に、ルサント危機現況要約。
「ルサント封璽、事実上失効」
「王都内衝突、なお継続」
「ベルヴァーニュ、なお“保護”名目を保持」
「ノルトマルク西部軍、ベルヴァーニュ東部軍、一部動員」
外務省の文章というものは、危機の時ほど短くなる。
言葉を節約するのは、事態そのものがもう冗長さを許さぬからだ。
二枚目に、ベルヴァーニュ弔問使節及び保護随伴部の構成。
三枚目に、ノルトマルク連邦のサン・ルネ派遣要員一覧。
卿はその三枚目に目を留めた。
西方総監部連絡要員。
統帥府第三課付。
外務省連絡官。
地方行政及び鉄道管理の調整員。
軍務省嘱託。
どれも職務名と姓を中心に並べた、素っ気ない名簿である。
だが職業外交官の目というものは、こういう時だけ妙に古い癖を保つ。
卿は一人ずつ、名前を追った。
その中ほどに、一つの姓があった。
『統帥府第三課付 フォン・ライフェンベルク大尉』
卿はそこで、紙面から目を離した。
紅茶の湯気が鈍く立ちのぼる。
ライフェンベルク。
その姓を、彼は外交報告の名簿より前に、家の中の話として知っていた。
◆
卿は名簿を机の端へ置き、席を立った。
書斎の隅には、古い樫材の文書箱がある。
父の遺品のうち、書簡と日記の類を収めた箱である。
長く開けていない。
最後に鍵を回したのは、もう十年ほど前になる。
蝶番が低く鳴った。
いちばん上の束は、父が晩年に書いた回想の断片。
その下は、父の父――卿にとっては祖父の、旧い手紙と従軍記録。
卿が探していたのは、さらに一番下にあった。
革の背表紙に、祖父自身の字で「従軍誌抄」と押し箔のある薄い冊子。
祖父の死後、父が手ずから整理したものだった。
祖父の字と父の字が、ところどころ交互に並んでいる。
ベルヴァーニュ第一帝政を最終的に倒した、あの大戦役の最終日の記録である。
卿は冊子を開いた。
ある頁に、栞代わりの乾いた花がまだ挟まれていた。
何の花であったかは、もう分からない。
そこから先の数行を、卿は暗唱できる。
"十月九日。
敵騎兵の反転突撃を浴び、我が連隊は崩れた。
余、落馬、左脚を負傷。
泥中に半ば埋もれ、敵兵の近接するを見る。
そこへノルトマルク連邦軍先鋒の騎兵隊通過す。
指揮官は馬を止め、短く部下に命じ、余を救わしむ。
水筒を渡し、『飲め、ロガリア人』とだけ告げて去れり。
後日、その指揮官の名を知る。
ライフェンベルク。
先鋒、ブランデン邦騎兵旅団の旅団長なりしと。"
何十回と読んだ文面だった。
卿は祖父に会ったことがない。
だがこの数行だけは、少年の頃から父の口で何度も聞かされた。
ペンブルック家の中でライフェンベルクという姓は、他国の名である前に、祖父を泥の中から引き上げた名だった。
それだけのことである。
それだけのことだが、人は家族の口から聞いた姓を、まったくの白紙からは読めない。
卿はしばらく、その頁を眺めていた。
紙の繊維のざらつき。
少し薄い青のインク。
祖父の手跡と父の補記。
机上の名簿にあった若い大尉を、彼はまだ見たこともない。
それでも、その若者の名を他の派遣要員より半歩だけ穏やかに読んでしまったことを、卿自身はすぐに理解した。
そこへ扉が叩かれた。
執事が、外務省からの使者の到着を告げた。
行きの馬車の中は静かだった。
外務省が朝に定期要旨を送り、その直後に使者を寄越す時、用件は一つしかない。
情勢が、もはや定期ではなくなったということだ。
卿は、もう大体の内容を察していた。
用件は大陸。
そして、それが自分のところへ来る理由もまた、大体一つしかない。
彼はベルヴァーニュ語とノルトマルク語の双方を十分に解し、大陸諸宮廷に未だ私的知己が多い。
若い頃の軍歴も、軍人宰相や武官筋との対話においては都合がよい。
引退した古い外交官というものは、役に立たぬ時だけ静かにさせてもらえる。
そうした実に都合の良い仕組みだと知っていたからだ。
◆
馬車がホワイトマール街の外務省庁舎へ着く頃には、雨が降り始めていた。
通されたのは、執務階奥の小評議室だった。
正式な閣議室ではなく、その隣の、扉が二重になった方の部屋である。
ここで行われる議は、議事録が残らぬか、残っても非常に短い。
室内には三人いた。
外務大臣アッシュハースト公。
海軍本部筆頭政務次官。
そして院外で影響力を持つ自由党系の古参議員。
卿は一礼し、勧められた椅子へ腰を下ろした。
大臣が先に口を開いた。
「ペンブルック卿。時間は取らせぬ。情勢は今朝の要旨の通りだ」
「拝見しております」
「それで、我が国の位置だ」
「ええ」
大臣の声は疲れていた。
議会答弁が続いている週なのだろう。
「我々が望むのは、ベルヴァーニュにも連邦にも、ルサントを食い切らせぬことだ」
海軍次官が短く補った。
「早い方がよい。遅れれば、停戦ではなく既成事実の査定になる」
この男は対ベルヴァーニュ強硬派である。
大陸の西が大きくなりすぎる前に枷を嵌めたいのだ。
そのためには仲介を急ぎ、ベルヴァーニュ側の“保護”をこれ以上実効支配へ近づけさせぬ必要がある。
自由党系の古参議員が、やや違う角度から口を挟んだ。
「もちろん、ベルヴァーニュだけではなく連邦もだ。あの連中が大陸中央の威信を取り切れば、明日には別の面倒になる」
ベルヴァーニュに勝ちすぎさせぬために仲介し、連邦にも勝ちすぎさせぬために仲介する。
矛盾のようで、矛盾ではない。
均衡主義とはそういう欲張りな技術である。
そしてロガリアは、昔からその技術で海を渡ってきた。
「こういう難儀な状況なわけだ。ゆえに」
と大臣が言った。
「仲介使節団の首席として、卿に行ってもらいたい」
卿は少し間を置いてから、短く答えた。
「閣下の御指命に従います」
「汽船の手配は本日中に済ませる。中立のヴォワ王国行きだ。大陸到着後の行程は、ヴォワの公使館で詰める」
「承知いたしました」
大臣はそこで一度だけ言葉を切った。
「言うまでもないだろうが、卿がこの任に就いたこと自体が大陸の時計を動かす」
仲介使節派遣の通告が出れば、ベルヴァーニュは到着前に動こうとする。
連邦もまた、到着前に自分たちの持分を固めようとする。
本国は、その加速効果を織り込んだ上で、なお使節を送ると決めたのだ。
戦を止める意志を持ちながら、その意志の伝達それ自体が、戦の進行を早める。
仲介とは、だいたいそういう厄介な仕事だった。
卿は立ち上がり、もう一度礼をして部屋を出た。
三人は見送らなかった。
その方が、かえって本気の用事らしかった。
◆
私邸へ戻った頃には、正午を過ぎていた。
雨は本降りになっている。
並木通りの落葉が濡れて、敷石へ張りついていた。
卿は外套を執事に渡し、二階の自室へ上がった。
公用の旅嚢は、すでに半ばできていた。
本国命令の封緘本。
ベルヴァーニュ及びノルトマルク両国公使館宛の指示書。
暗号符号表。
印章。
名刺の束。
職業外交官の旅装は、およそ私人の慰みと無縁である。
卿はそれを横目に、自分自身の小さな革鞄を机上へ引き寄せた。
旅先での衣類。
髭剃り。
眼鏡の替え。
読みかけの本。
筆記用具。
私用の便箋。
その底へ、書斎から持ってきた薄い冊子を静かに入れた。
祖父の従軍誌抄。
任務にも、訓令にも、一切関係のない本である。
外務省の記録にも、この持ち出しは残らない。
卿自身、それに大げさな意味を与えているつもりはなかった。
ただ、大陸でライフェンベルクという姓に会うかもしれないなら、と思っただけである。
◆
夕刻、卿はアヴァロン港の埠頭に立っていた。
霧はまだ晴れず、街灯の明かりがところどころに浮いていた。
出航は明朝。
今夜は港近くのホテルで一泊し、早朝に乗船する。
卿は懐中時計を取り出して時刻を見た。
もう六時を回っている。
その時刻、すでに大陸では、彼の名が動き始めていた。
アヴァロン駐在のノルトマルク公使は、午後のうちに本国へ打電している。
「ロガリア政府、ルサント危機仲介使節団を派遣。首席使節はサー・エドマンド・ペンブルック卿。汽船にて明朝出港予定」
同じ内容は、ほぼ同時刻にベルヴァーニュ公使館へも通告された。
電報は汽船より速い。
卿本人が一夜を眠るあいだに、その名はすでにグランツェル統帥府、ベルソール戦争省、そしてサン・ルネの両国駐在部の机上へ届く。
卿はまだ大陸の土を踏んでいない。
だが彼の名はすでに、別々の都市で別々の時計を進め始めている。
仲介者とは、本人より先に名が着く職業である。
卿は時計を懐へ戻した。
踵を返し、霧の中へ歩き出す。
鞄の底で、祖父の従軍誌抄がかすかに鳴った。




