第71話 危ないのは前じゃない
8階へ下りた瞬間、結人は7階との違いをすぐに感じた。
まず、広さだ。
7階は駅だった。
ホーム、広場、改札、通路。
人を流すための形が、まだ分かりやすく残っていた。
でも8階は違う。
もっと街に近い。
足元は磨かれた石みたいなタイル。
左右には店だったらしい区画が並び、割れたショーウィンドウの向こうに、倒れた棚や黒ずんだ陳列台が見える。
天井からは長い案内板。
交差する通路のたびに、色の剥げた床線が伸びている。
広い。
枝分かれが多い。
前後左右の道が、いくつも繋がっている。
地下街だ、と結人は思った。
閉じたシャッター。
割れたガラス。
色あせた広告。
人の気配だけが抜け落ちて、流れの形だけが残っている。
そして、その流れが嫌だった。
7階は順番を狂わせる階だった。
8階はもっと、進む方向そのものを迷わせる形をしている。
「……こっちは街だな」
真壁が低く言う。
坂城は通路の分岐を見ていた。
「交差が多い」
三枝は床線の消えかけた矢印を見ている。
「誘導の跡だけが残ってますね」
かなり、嫌な言い方だった。
でも、その通りだった。
⸻
配信を始める。
遅刻廃都圏 / 8階 初踏破
同接は33。
7階の突破を見て、そのまま来ている人が何人かいる。
数字はまだ大きくない。
でも、続けて見る理由がちゃんと生まれている感じがした。
「天城結人です。
今日は8階の入口確認です。
7階とは景色がかなり違います。
地下街みたいな構造で、交差が多いです」
コメント欄が流れる。
炭酸:ほんとに街だ
通り雨:7階より嫌そう
澪:視線の向きが増えますね
迷子の斥候:横道が多い
凪:次は、前だけ見てると遅れる
結人はその1行を見て、少しだけ頷いた。
前だけ見てると遅れる。
たぶん、そうなる。
⸻
入口近くの通路は静かだった。
7階みたいな遅れた金属音も薄い。
代わりに、遠くでシャッターの軋むような音が断続的に響く。
右に店跡。
左に細い脇道。
前方に広い交差点のような空間。
タイルの床には、白い帯が何本も走っている。
横断歩道みたいだった。
その時だった。
前方の交差点に、何かが見えた。
低い。
細い。
長い脚。
狼に似ていた。
だが、普通の狼じゃない。
身体は妙に薄く、肋骨の浮いた横腹には白い帯が何本も入っている。
まるで横断歩道の線を、そのまま体に貼りつけたような模様だった。
四肢は長く、関節が異様に高い。
頭部は前へ尖り、目に当たる位置には緑と黄の光が交互に瞬く。
尻尾は細く、先だけが赤く点る。
横断狼。
広い通路や交差点に棲み、直線ではなく横切る動きで獲物を裂く8階の下位種。
こいつは真正面から威嚇しない。
むしろ正面で一度見せて、注意を前へ集める。
その上で、本命は横道から抜く。
実用的に言えば、
8階では、危ないのは前じゃない。
横断狼は正面で止まり、交差の瞬間に横から来る。
前方確認だけでは遅れる。
それが、8階の最初の理屈だった。
「前に1……いや、横!」
結人が叫ぶ。
正面の狼は動かない。
だが左の脇道、床の埃が跳ねる。
本体はそっちだ。
真壁が即座に盾を左へ返す。
次の瞬間、横から灰色の影が走り抜け、盾へ激突する。
速い。
かなり速い。
しかも、真正面に見えていた個体は、まだその場に立っている。
威嚇役。
本命は横道。
坂城が低く言う。
「正面は囮か」
「はい。
交差点で横を切ってきます!」
もう1体。
今度は右。
通路の先に見えた影に意識が寄った瞬間、右脇の店跡から狼が跳ねる。
結人が槍を横へ振る。
脇腹を掠める。
白い帯の入った毛皮が裂け、黄の目が強く瞬いた。
遅れて、正面にいた個体が走り出す。
前と横。
同時じゃない。
でも、意識をずらしてから本命が入る。
かなり嫌だ。
⸻
交差点の手前まで下がり、結人は素早く周囲を見た。
前方。
左右。
店跡の入口。
細い通路。
広告板の陰。
8階は、視線を前に固定すると危ない。
7階は順番を疑う階だった。
8階は進路そのものを広げて、注意の穴を作る階なのかもしれない。
「前じゃなくて横を見ます!」
三枝が即座に返す。
「交差点に入る前に左右確認ですね」
「はい!」
もう1体が左から来る。
真壁が受ける。
その直後、正面から囮だった個体が踏み込む。
だが坂城の剣が先に入る。
首。
深い。
倒れた。
残った1体は右の店跡へ逃げ込もうとしたが、結人の槍が肩を貫く。
床へ転がる。
白い帯が赤黒く濡れ、目の黄が消えた。
静かになる。
だが、静かになったあとほど8階は嫌だった。
どこからでも来られる形をしている。
⸻
結人は配信へ向けて言う。
「8階の入口、前だけ見てると危ないです。
正面に見せて、横から本命が来ます」
コメント欄が流れる。
炭酸:なるほど
通り雨:狼なのに横断なの嫌だ
澪:交差点の作りそのものが罠ですね
迷子の斥候:7階と違って前後左右か
凪:危ないのは前じゃない
その言葉を見た瞬間、結人の中で1本目が立つ。
危ないのは前じゃない。
短い。
強い。
8階の入口としてかなりいい。
「……たぶん最初の言葉はこれです。
危ないのは前じゃない」
三枝が頷く。
「使いやすいです」
真壁は盾の縁についた血を払った。
「横道を見る癖がいるな」
坂城も短く言う。
「交差点に入る前に止まる」
かなり、その通りだった。
⸻
さらに少し進む。
8階は7階より明るい。
照明が多いわけじゃない。
でも、広告板の残光や割れたショーケースの反射で、暗さが均一じゃない。
そのせいで通路の奥行きが読みにくい。
しかも、分岐が多い。
十字。
T字。
斜めの細道。
半開きの店跡。
地下街の“便利さ”が、そのまま不便になっていた。
人が通りやすいように作られたはずの形が、
今は獣が横から切り込むための形になっている。
7階の改札みたいな閉塞感はない。
その代わり、8階は開きすぎていて怖い。
その時、少し先の広い通路で、横断狼が2体並んで現れた。
今度は正面だ。
だが結人はもう、正面を信用しない。
「左右の店跡見ます!」
真壁が左。
坂城が右。
三枝が天井の案内板の影を見る。
次の瞬間、左のシャッター下から本命が飛び出した。
真壁が盾で受ける。
同時に右の細道からもう1体。
坂城が斬る。
正面の2体は一拍遅れて前進する。
でも、もう遅い。
結人の槍が1体の喉を穿ち、残る1体は三枝の指示で位置を切られた。
「通りますね」
三枝が静かに言う。
「通る」
結人も同意した。
8階の入口は、前へ進める。
まだ嫌だ。
かなり嫌だ。
でも、理屈が立てば進める。
⸻
今日は入口の交差点までで引いた。
無理はしない。
7階もそうだった。
最初の日に全部取ろうとすると、理屈が崩れる。
帰り際、結人はもう一度だけ振り返る。
割れたガラス。
止まった広告灯。
交差する道。
横断歩道みたいな白線。
この階は、人の“前へ進む”を信じて作られている。
だからこそ、前以外から刺してくる。
かなり性格が悪い。
でも、分かりやすくもある。
⸻
政府ギルドへ戻ると、相良環はメモを開いたまま待っていた。
「どうでしたか」
結人は答える。
「8階は地下街みたいな構造です。
店跡と交差点が多い。
それで、狼型が出ます。
正面に見せて、横から本命が来ます」
相良の指が止まる。
「前に注意を集めて、横から」
「はい。
入口の言葉にするなら、“危ないのは前じゃない”です」
相良はすぐに打ち込む。
「……いいですね」
「8階は、前だけ見てると遅れます」
相良は静かに頷いた。
「7階が順番を狂わせる階なら、8階は進路を広げて狂わせる階かもしれません」
結人もそう思った。
同じ遅刻廃都圏でも、嫌さの出方が違う。
そこが面白かった。
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部屋へ戻り、ノートを開く。
* 8階
* 地下街
* 店跡
* 交差点が多い
* 前後左右の視線が必要
* 横断狼
* 正面で見せる
* 本命は横道
* 危ないのは前じゃない
最後に、1行だけ足した。
* 8階は、“進む方向”を信じすぎると遅れる階
書いてから、結人はペンを置いた。
7階を通したあとで、8階はまた別の嫌さを出してくる。
でも、嫌さが違うということは、言葉もまた新しく作れるということだ。
それなら、まだ進める。




