第58話 乾いた筋
次の日、政府ギルド前の空気は少しだけ変わっていた。
4階の時と同じだった。
誰かが使った短い言葉が、別の誰かの口へ移る。
「映りは遅れる」
「中央じゃなく縁だ」
「静かすぎる水は見ろ」
結人は売店で水を買いながら、その声を聞いていた。
5階はまだ広まっていない。
でも、昨日の入口の言葉はもう少しだけ残り始めている。
前より、言葉が自分の中だけで終わらなくなってきた。
水を2本。
回復薬を2本。
今日はそれに加えて、滑り止め用の薄い布をもう1枚買った。
5階は足元の神経をかなり使う。
相良環の窓口へ行くと、相良は端末から目を上げて言った。
「今日は後ろにつく探索者が4人です」
昨日より1人多い。
「少し増えましたね」
「はい。
5階の入口だけでも見たい人がいます。
“映りは遅れる”がかなり共有しやすかったみたいです」
かなり良かった。
「今日は、入口の先を見ます」
「はい。
昨日の言葉が通るところまでは確認した方がいいと思います」
かなりその通りだった。
⸻
入口前には、坂城迅、真壁遼真、三枝透。
その後ろに4人。
結人は短く言う。
「今日は、5階の入口の言葉が本当に通るかを見ます。
映りは遅れる。
それと、静かすぎる水。
そこまでは崩さないでください」
坂城が続ける。
「本体も映りも追いすぎるな」
真壁が頷く。
「水面の端を見る」
三枝が低く言う。
「5階はまだ入口だ。
でも、入口の言葉が残ればその先へ行ける」
それで十分だった。
配信を始める。
灰石坑道の先 5階 / 入口の先
同接は16。
少しずつだ。
でも、確かに増えている。
「天城結人です。今日は5階の入口の先を見ます。
昨日の“映りは遅れる”が通るところまで確認します」
コメント欄が流れる。
炭酸:きた
通り雨:5階続きだ
澪:お願いします
迷子の斥候:入口の先見たい
凪:昨日の言葉が今日通るか見ろ
結人は、その最後の1行に小さく頷いた。
「はい。今日はそこです」
⸻
5階へ下りる。
濡れた灰色の石。
浅い水。
黒い幹。
白い根。
水面に落ちる景色。
昨日、初めて見た時ほどの戸惑いはない。
景色の嘘を知ったあとの階は、最初の1歩がかなり違う。
入口近くの水鏡蛙が来る。
正面の水面。
映りが一拍遅れる。
縁が先に揺れる。
後ろの探索者が言う。
「縁です!」
坂城がそこへ剣を入れる。
水鏡蛙が沈む。
薄膜魚も同じだった。
群れじゃない。
裂け目を見る。
真壁が盾を少しだけ下げて進路を塞ぎ、坂城が裂けた水を横に斬る。
薄膜魚がまとめて跳ねる。
かなりいい。
5階の入口の言葉は、昨日より明らかに場に残っている。
結人は配信へ向けて短く言う。
「入口はかなり通ります。
今日はここから先です」
コメント欄が流れる。
炭酸:前より速い
通り雨:ちゃんと残ってるな
澪:かなり違います
そうだ。
かなり違う。
⸻
入口を抜けると、水の置かれ方が変わった。
昨日は、根元ごとの浅い水たまりが多かった。
今日はそれが繋がっている。
黒い幹の間を、細い水路みたいに黒い水が走っている。
水面は鏡のように静かで、ところどころだけに雫の輪が広がる。
その間を、細い灰色の石の筋が縫うように伸びていた。
水と石。
反射と実体。
5階の奥は、その境目がもっと細い。
結人はそこで足を止めた。
「……かなり嫌ですね」
三枝が小さく言う。
「水が増えたのに、通る道は細くなってる」
真壁も低く続ける。
「水を見るか、道を見るか。
目が割れそうだな」
かなりその通りだった。
4階は環境の答えが連なっていた。
5階は、景色が二重になる上に、通る筋だけが細い。
その時、左側の水路に映っていた白い根が、妙に増えた。
本物の根は増えない。
でも、水面の中にだけ、白い枝分かれがいくつも広がる。
結人の喉が少しだけ冷える。
来た。
⸻
最初に見えたのは角だった。
白い。
細い。
濡れた骨みたいに艶がある。
それが水面にいくつも映っているせいで、1頭なのか、2頭なのか、一瞬では分からない。
次に、黒い首。
細い胴。
長い脚。
鏡角鹿。
鹿に似ている。
だが、普通の鹿よりずっと細い。
全身は濡れた黒石みたいに光り、頭の白い角だけが異様に明るい。
脚は長く、蹄は細い。
走るというより、濡れた石の上を滑るみたいに進む。
そして何より嫌なのは、水に映った角が本体より先に目へ入ることだった。
実用的に言えば、
角を見ると遅れる。
水面を見ると数が増える。
本当に見るべきなのは、水と水の間を通っている細い石の筋だ。
本体は水路の中ではなく、その“乾いた筋”を走る。
鏡角鹿が頭を下げる。
水面の中に白い角が何本も増える。
見た目だけなら、水路のどこからでも来られそうに見える。
後ろの探索者の呼吸が少し乱れる。
目が水へ引かれる。
結人は即座に声を張った。
「水じゃない! 乾いた筋です!」
全員の視線が、水面から石の細い筋へ戻る。
坂城が短く叫ぶ。
「乾いた方!」
真壁が盾をその石筋へ向けて踏み込む。
三枝が低く言う。
「右から2本目!」
その瞬間、結人にも見えた。
鏡角鹿の本体は、いちばん大きく映っている水路にはいない。
その横。
ほとんど濡れていない細い灰色の石筋を、滑るように走ってくる。
「そこです!」
坂城の剣が、その乾いた筋へ入る。
鏡角鹿の前脚を浅く裂く。
だが止まらない。
頭を低くし、真壁の盾へ角を打ち込む。
重い。
だが、4階の絡幹羆みたいな圧ではない。
こいつは重さより、見誤らせ方が厄介だ。
真壁が踏ん張る。
坂城が横へ回る。
結人も短槍を構える。
鏡角鹿が一度退く。
その瞬間、水面の中の角がまた増える。
だが、もう目はそちらへ行かない。
水は嘘を増やす。
本体は、その横の細い筋を通る。
三枝が言う。
「次、左の乾いた筋!」
結人は即座に反応する。
「左です!」
真壁が盾をずらす。
坂城がその筋へ剣を置く。
鏡角鹿がそこへ乗った瞬間、結人が短槍を突き出した。
脇腹。
黒い皮膚の下。
そこは角みたいに硬くない。
短槍が入る。
鏡角鹿の身体が崩れる。
細い石筋から足を外し、そのまま浅い水へ倒れ込む。
水面が大きく揺れる。
今まで増えていた角の映りが、全部まとめて壊れた。
コメント欄が一気に流れる。
炭酸:うわ
通り雨:乾いた筋か
澪:かなり分かりやすいです
迷子の斥候:水見てたら無理だ
凪:景色の横にある本物を見ろ
結人は肩で息をしながら、小さく息を吐いた。
かなり大きかった。
5階の入口の先が、ちゃんと1つ形になった。
⸻
配信へ向けて、短く整理する。
「今の相手は、角や映りを見ると遅れます。
5階は水面が嘘を増やしますが、本体はその横の乾いた石筋を通ります」
坂城が短く頷く。
「“乾いた方”でかなり通るな」
真壁も続ける。
「水面の中ばかり見てると、逆に外される」
三枝が静かに言う。
「5階は、水を見る階じゃなくて、水の横にある本物を見る階だな」
かなりその通りだった。
5階の入口は、映りは遅れる。
その先は、乾いた筋。
短い。
でも、かなり通る。
⸻
今日はそれ以上進まなかった。
鏡角鹿は、5階の入口を越えた先にいる相手としては十分に重かった。
初日に景色。
2日目に入口の先。
その段取りはかなり悪くない。
政府ギルドへ戻ると、相良環は結人の顔を見るなり言った。
「今日は通りましたね」
「はい。少しだけ先が見えました」
袋を渡す。
今日は鏡角鹿の角片と、黒い毛皮片。
どれも高くはない。
でも、5階の先へ行くための言葉を持ち帰った実感はかなり大きい。
「どういう相手でしたか」
相良の問いに、結人は短く答える。
「水面が嘘を増やします。
でも本体は、その横の乾いた石筋を通ります。
5階の入口の先は、“乾いた筋”でかなり通ると思います」
相良の手が少しだけ止まる。
「……かなり共有しやすいです」
「はい。
5階は水そのものより、水の横を見る階かもしれません」
相良はすぐに打ち込む。
「映りは遅れる。
その先は乾いた筋。
かなり綺麗です」
その一言は、かなり嬉しかった。
⸻
帰り道、結人は少しだけ高いサンドイッチと、冷たい飲み物を買った。
今日は足元より、目の疲れが強い。
水面と石筋を何度も切り替えていたせいだ。
部屋へ戻る。
机の上にサンドイッチ、飲み物、換金票、ノートを並べる。
ノートを開く。
* 5階
* 濡れた石
* 浅い水
* 水面が景色を二重にする
* 本体は水の横を通ることがある
* 入口
* 映りは遅れる
* 水面の縁
* 裂け目
* 静かすぎる方
* その先
* 乾いた筋
そこまで書いて、少しだけ止まる。
それから、最後に1行だけ足した。
* 5階は、水を見る階じゃなく、水の横にある本物を見る階
書いてから、結人はしばらくその文字を見ていた。
4階は、言葉を場に残した階だった。
5階は、景色の嘘の横にある本物を拾う階だ。
まだ入口だ。
でも、入口の先が1つ通った。
端末を見る。
コメント欄にも、同じ熱が残っている。
5階めちゃくちゃ好き
映りは遅れる→乾いた筋、綺麗
次はもっと重いやつ来そう
結人は、その最後の1行を見て小さく息を吐いた。
そうだ。
次は、もっと重いやつが来る。
5階はまだ入口の先だ。
でも、その先へ進むための言葉は、また1本立った。
今日は、そのことがちゃんと形になった日だった。




