第59話 丸すぎる水
5階へ潜るのは、もう3日目だった。
「映りは遅れる」
「乾いた筋」
その2つは、昨日のうちにかなり場へ残り始めていた。
政府ギルドの入口でも、売店の前でも、短い言葉としてもう回っている。
だから今日は、確認ではない。
その先だ。
配信を始めた時点で、同接は17。
数字としてはまだ小さい。
でも、前なら0から始まっていた。
今は、入った瞬間に見ている人がいる。
「天城結人です。今日は5階のもう少し奥を見ます。
映りは遅れる。乾いた筋。
そこまでは崩さず、その先を探します」
コメント欄が流れる。
炭酸:きた
通り雨:5階の続きだ
澪:お願いします
迷子の斥候:今日は何が来るかな
凪:昨日の言葉で通った先を見ろ
「はい。今日はそこです」
⸻
入口は、もう前ほど重くなかった。
水鏡蛙。
縁を見る。
薄膜魚。
裂け目を見る。
鏡角鹿。
乾いた筋を見る。
後ろについた探索者の声も、昨日よりかなり安定している。
「縁です!」
「乾いた方!」
「そこ、映りじゃない!」
坂城の剣が早い。
真壁の盾も迷わない。
三枝の短い補足も、もう言葉として十分に通る。
5階の入口は、場に残り始めていた。
だから今日は、その先へ行く。
⸻
5階の奥は、水の形がまた変わっていた。
今までは、浅い水たまりや細い水路が多かった。
ここからは違う。
灰色の石床の上に、丸い黒水が点々と浮かんでいる。
水たまり、に見える。
だが自然にできたものにしては、形が整いすぎている。
白い根の影を映し、黒い幹を映し、輪郭がやけに滑らかだ。
地下樹林の湿った空気の中で、そこだけが妙に完成されて見える。
三枝が小さく言う。
「……嫌な並びだな」
真壁も低く続ける。
「水っていうより、置かれてる感じがする」
かなりその通りだった。
自然の水は、根に引っかかる。
石に沿う。
形が歪む。
でも、目の前にある丸い黒水は、どれも少し整いすぎている。
結人はそこで足を止めた。
「自然じゃない」
坂城が視線を落とす。
「いるな」
⸻
最初に動いたのは、いちばん奥の丸だった。
黒い水面が、そのまま横へ滑る。
波紋が広がらないわけじゃない。
だが広がり方が不自然だ。
普通の水たまりなら、縁全体から乱れる。
でもそれは、丸の片側だけからわずかに揺れが走る。
次の瞬間、水の下から黒い甲が持ち上がった。
浮殻亀。
亀に似ている。
だが、普通の亀よりずっと平たい。
甲羅は丸く広く、表面が異様に滑らかだ。
その上に浅く水を張っていて、止まっている時は“丸い水たまり”にしか見えない。
頭は短く、口は細い。
脚は外へ張り出していて、浅い水の下を滑るように動く。
実用的に言えば、
自然の水は歪む。
丸すぎる水は、景色じゃなく殻かもしれない。
それが5階の奥の、新しい入口だった。
「丸すぎる水です!」
後ろの探索者が一瞬だけ固まる。
だが坂城はすぐに反応した。
「丸い方、見るな!」
真壁が盾を上げる。
三枝が低く言う。
「中心じゃない。縁のずれ!」
その瞬間、結人にも見えた。
浮殻亀は甲羅の中央が目立つ。
鏡みたいに綺麗だから、そこに目が行く。
でも本当に動いているのは、甲羅の縁だ。
水を張った丸い表面は景色を映すだけで、実際の進路はその下の殻の傾きが教えている。
「中心じゃない! 縁です!」
坂城が剣を振る。
狙うのは丸の真ん中ではなく、傾いた縁。
剣が甲羅の端を叩く。
硬い。
だが、完全には弾かれない。
浮殻亀が横へ滑る。
その動きで、もう1つ奥の丸い水もわずかに揺れた。
2体いる。
かなり嫌だった。
真壁が前へ出る。
「数が増えるとまずい!」
その通りだ。
5階で、水面の嘘が複数になると目が割れる。
結人は即座に言う。
「丸すぎる水を全部見ないで!
いま動いた方だけです!」
三枝が続ける。
「左奥が本体! 手前はまだ止まってる!」
かなりいい。
止まっている丸と、動いている丸。
その差を見れば、数の嘘は少し剥がれる。
浮殻亀が急に頭を伸ばす。
短い首が槍みたいに前へ出る。
真壁の盾に当たり、鈍い音が響く。
重い。
でも読めない重さじゃない。
坂城が横へ回る。
結人も短槍を構える。
浮殻亀は殻の中央を守るように低くなる。
だが、その瞬間に縁が少し持ち上がる。
そこだ。
結人の喉が冷える。
「殻の下です!」
坂城が一歩踏み込む。
剣が持ち上がった縁の下へ入る。
硬い音。
そのあとで、柔らかい感触。
浮殻亀が大きく揺れる。
甲羅の上に張っていた水が崩れ、丸い景色が壊れる。
真壁が盾で押し込む。
結人も短槍をその隙間へ差し込む。
首の付け根。
甲の下。
短槍が入る。
浮殻亀の身体が沈み、今まで完璧だった丸い水が、ただの濁った浅い水に変わった。
コメント欄が一気に流れる。
炭酸:うわ
通り雨:丸すぎる水か
澪:かなり分かりやすいです
迷子の斥候:これ嫌すぎる
凪:綺麗すぎる景色を疑え
結人は肩で息をしながら、小さく息を吐いた。
かなり大きかった。
5階の奥は、水面の嘘だけじゃない。
形が整いすぎた景色そのものが罠になる。
⸻
だが、終わりじゃなかった。
奥に止まっていたもう1つの丸が、ゆっくり動いた。
2体目だ。
今度は、もう誰も中央を見ない。
丸い。
綺麗すぎる。
その時点で怪しい。
見るべきは縁。
見るべきは傾き。
坂城が短く叫ぶ。
「右の縁!」
真壁が盾を送る。
三枝が続ける。
「次、左へ滑る!」
結人は即座に声を張る。
「そこ、乾いた筋へ出ます!」
5階のここまでの言葉が、1本に繋がった。
映りは遅れる。
乾いた筋。
丸すぎる水。
浮殻亀が乾いた石筋へ半分だけ乗り上げた瞬間、坂城の剣が縁を叩き、真壁の盾が押さえ、結人の短槍が首の下へ入る。
2体目も崩れる。
丸い水は、壊れるとただの水になる。
その当たり前が、逆にかなり不気味だった。
⸻
配信へ向けて、結人は短く整理する。
「5階の奥では、丸すぎる水を疑ってください。
自然の水は歪みます。
整いすぎた丸は、殻のことがあります。
見るのは中心じゃなく、縁と傾きです」
坂城が頷く。
「5階、かなり殻が混じってきたな」
真壁も低く言う。
「水の下だけじゃなく、水そのものみたいに見せてくる」
三枝が静かに続ける。
「6階の匂いがする」
その一言に、結人は少しだけ目を上げた。
確かに、そうだった。
水面。
反射。
整いすぎた丸。
殻。
まだ5階だ。
でも、この先にいる大きいやつが、どういう理屈で立っているのかが少しだけ見え始めている。
⸻
それ以上は進まず、今日は戻ることにした。
帰り際、結人は石床の隅に引っかかったものを見つけた。
白く薄い、硬い欠片。
亀の殻とは違う。
もっと大きい何かの、外側の剥がれみたいだった。
結人はそれを拾い、少しだけ眺める。
白い。
滑らかだ。
内側は青黒い。
三枝が横から低く言う。
「今のやつの殻じゃないな」
「はい」
真壁も短く続ける。
「もっと大きい」
坂城はそれ以上言わなかった。
ただ、その欠片を一度だけ見て、前を向いた。
かなり嫌な拾い物だった。
でも、かなり大事でもあった。
この先にいるやつは、もっと大きい。
もっと整っている。
もっと厄介だ。
5階は、その下位互換をちゃんと置いてきている。
⸻
政府ギルドへ戻ると、相良環は袋を受け取る前に言った。
「今日は、奥の理屈が1つ見えた顔ですね」
結人は少しだけ笑う。
「そうかもしれません」
袋を渡す。
今日は浮殻亀の甲片。
それから、拾った白い殻片。
相良の手が、その白い欠片の上で少しだけ止まる。
「これは……5階産ですか」
「はい。
奥の石床に引っかかっていました」
相良は一度だけそれを見直し、静かに言った。
「かなり先のものが、上へ剥がれてきてるのかもしれません」
かなりその通りだった。
「5階はどうでしたか」
結人は短く答える。
「丸すぎる水が怪しいです。
自然の水は歪みます。
整いすぎた丸は、殻のことがあります」
相良はすぐに打ち込む。
「映りは遅れる。
乾いた筋。
丸すぎる水。
……かなり綺麗です」
その一言が、かなり嬉しかった。
⸻
部屋へ戻ってノートを開く。
* 5階
* 水面が景色を二重にする
* 本体は水の横を通る
* 整いすぎた景色は怪しい
* 入口
* 映りは遅れる
* 水面の縁
* 裂け目
* 静かすぎる方
* その先
* 乾いた筋
* 丸すぎる水
* 殻の縁と傾き
そこまで書いて、少しだけ止まる。
それから、最後に1行だけ足した。
* 5階は、水面の嘘の中に殻の理屈が混じり始める階
書いてから、結人は拾ってきた白い殻片を机の上に置いた。
小さい。
でも、これより大きいものがこの先にいる。
端末を見る。
コメント欄にも同じ熱が残っていた。
5階どんどん面白くなる
丸すぎる水、好き
次の大きいやつ見たい
結人は、その最後の1行を見て小さく息を吐いた。
そうだ。
次は、もっと大きいやつだ。
5階の奥は、ただの水じゃない。
その中に、もっと先の理屈が混じり始めている。
今日は、そのことがはっきり形になった日だった。




