第55話 切るな
4階の言葉が、少しずつ自分の外へ出始めていた。
政府ギルド前の換金列。
売店の前。
入口の待機列。
「始点を見ろ」
「移った方だ」
「寄り切る前」
「静まった先じゃない」
前なら、自分の頭の中にだけあった短い言葉が、今は別の口から出る。
結人は売店で水を買いながら、その声を聞いていた。
水を2本。
回復薬を2本。
保存食を2つ。
塩飴を1袋。
それから今日は、少しだけ厚い手袋を1組買った。
前より、買う物が少しずつ変わってきている。
安い物を我慢して選ぶ感じではなく、必要な物を先に取る感じになってきた。
ほんの少しだ。
でも、かなり大きい。
会計を待っていると、見覚えのある探索者が頭を下げてきた。
「天城さん。昨日の“静けさの手前”、通りました」
結人は少しだけ目を上げる。
「本当ですか」
「はい。
4階の入口で詰まってた後輩が、かなり奥まで行けました。
まだ浅いですけど、それでも前より全然違いました」
かなり良かった。
かなり、現場に残り始めている。
「よかったです」
短く返すと、相手は少しだけ笑って下がった。
以前なら、こんなふうに話しかけられること自体が少なかった。
今はまだ有名でも何でもない。
でも、前とは明らかに違う。
相良環は窓口の奥から、結人が近づく前に言った。
「今日は少し人数が多いですね」
「はい?」
「後ろにつく探索者です。
今日は7人います」
結人は少しだけ目を瞬く。
昨日まで5人だった。
それが今日は7人。
「……かなり増えましたね」
相良は小さく頷いた。
「4階の入口の言葉が残り始めたので、後ろで見たい人が増えています。
今日の4階は、かなり見られてますよ」
かなり重い一言だった。
「今日は、少し奥まで行きます」
「はい。
その方がいいと思います。
入口の言葉が場に残ったなら、その先を通せるかが次ですから」
かなりその通りだった。
⸻
入口前には、坂城迅、真壁遼真、三枝透がすでに揃っていた。
その後ろに、今日は7人。
昨日までより2人多い。
4階の入口だけなら、自分たちだけで何とかなると思える人間が増えたぶん、その先を見たい人間が増えている。
坂城が短く言う。
「今日は少し奥へ行ける」
「はい」
真壁が後ろを一度だけ見た。
「入口の言葉が残ったからだな」
三枝も小さく続ける。
「4階は、ここからが本番だと思う」
かなりその通りだった。
結人は後ろの7人を見て、短く言う。
「入口の言葉は崩しません。
始点、移った方、途中の形、寄り切る前、抜ける方、静けさの手前。
どれか1つだけを追わないでください」
1人が頷く。
「はい」
結人は続ける。
「今日は、その全部が繋がる相手が出るかもしれません。
その時は、途中で読みを切らないでください」
坂城が短く補足する。
「本体は追うな。環境を切るな」
それで十分だった。
配信を始める。
灰石坑道の先 4階 / 奥へ行く
同接は14。
少しだけ増えていた。
「天城結人です。今日は4階の少し奥まで行きます。
入口の言葉が残り始めたので、その先を通せるか見ます」
コメント欄が流れる。
炭酸:きた
通り雨:今日は奥だな
澪:お願いします
迷子の斥候:ついに4階の奥か
凪:途中で切るな
結人は、その最後の1行に小さく頷いた。
「はい。今日はそれです」
⸻
4階へ入る。
湿った空気が肌へ貼りつく。
白い根。
黒い幹。
沈む床。
返らない音。
だが今日は、その入口で立ち止まる感じが前よりかなり薄かった。
最初の根這い犬。
後ろの探索者が言う。
「沈みの始点!」
坂城がそこへ剣を入れる。
幹皮猿。
別の探索者が言う。
「剥がれた方!」
真壁が盾を上げる。
葉喰い蛾。
垂根蜘蛛。
吊根豹。
どれも、入口の言葉がかなり自然に出る。
4階の入口は、前より明らかに“知っている場所”になり始めていた。
結人は配信へ向けて短く言う。
「入口はかなり場に残り始めています。
今日はここを早く抜けます」
コメント欄が流れる。
炭酸:いい
通り雨:前より明らかに速い
澪:かなり違います
そうだ。
かなり違う。
⸻
入口を抜ける。
白い根の密度が増す。
頭上の枝と蔓が低くなり、黒い幹の間の見通しが悪くなる。
床の繊維層は深く、足を置くたびに半拍遅れて戻る。
ここから先が、4階の奥だ。
最初に来たのは抜枝鹿だった。
左が沈む。
右へ移る。
間が落ちる。
寄る。
抜ける。
前にいた探索者が言う。
「移った先じゃない!」
「……抜ける方!」
坂城がその抜け道へ剣を入れる。
抜枝鹿の腹側を浅く裂く。
かなりいい。
ここまではもう残る。
次に静枝狼。
寄る。
抜ける。
静まる。
別の探索者が言う。
「静まった奥!」
真壁が盾を送る。
坂城がそこへ剣を差し込む。
静枝狼が退く。
かなりいい。
だが結人は、そこでまだ安心していなかった。
今日の4階は、その先がある。
⸻
少し奥へ進んだところで、空気が変わった。
湿度は同じ。
音も返らない。
だが、根の揺れと床の沈みが、1箇所ではなく複数で同時に起き始める。
左の床が沈む。
右上の蔓が揺れる。
正面の幹肌がわずかに剥がれる。
その全部が、時間差で繋がっていく。
結人の喉が少しだけ冷える。
来た。
新しい重いやつだ。
最初に見えたのは肩だった。
黒い幹の陰から、湿った樹皮みたいな分厚い肩が半分だけずれる。
次に、白い根が巻きついた前脚。
そのあと、低い頭。
絡幹羆。
熊に似ている。
だが、普通の熊より前脚が長い。
肩が異様に厚く、背には白い根が何本も食い込むように巻きついている。
顔の半分は黒い樹皮みたいな皮膚で覆われ、口元だけが異様に白い。
歩くたびに床が沈むのに、音だけが返らない。
止まっていると、幹の膨らみと根株の塊にしか見えない。
こいつの嫌さは重さじゃない。
床、根、蔓、幹肌。
4階で今まで見てきた“環境の答え”を、全部ずらしながら連続で使ってくることだ。
実用的に言えば、
始点だけを見ると遅れる。
移った方だけを見ても遅れる。
途中の形、寄り切る前、抜ける方、静けさの手前。
そのどれか1つだけを切り取ると、次の答えで視線を外される。
4階のここまでを、1本で繋げて見ないと通らない相手だった。
左の床が沈む。
右上へ重さが移る。
正面の白い根がたわむ。
寄る。
抜ける。
静まる。
その手前で、今度は幹肌が剥がれる。
後ろの探索者の呼吸が乱れる。
目が散る。
結人は即座に声を張った。
「切らないでください!」
全員の目が一瞬だけ結人へ向く。
「始点から最後まで1本で追って!
途中で次の答えに飛ばされないでください!」
坂城が短く叫ぶ。
「切るな!」
真壁も続ける。
「環境を1本で見ろ!」
それで変わった。
前にいた探索者の目が、沈み、移り、たわみ、寄り、抜け、静まり、その手前までを切らずに追う。
三枝が低く言う。
「次は幹肌が来る!」
その瞬間、結人にも見えた。
絡幹羆は、今まで見せた全部の答えを“途中で捨てさせる”ために使っていた。
本当に通るのは、その全部の最後に残った幹肌の剥がれだ。
「幹肌の剥がれです!」
真壁が盾を上げる。
坂城がその剥がれへ剣を差し込む。
結人も短槍を前へ出す。
絡幹羆の肩が盾に激突する。
重い。
だが止まる。
坂城の剣が白い根を裂き、結人の短槍が脇の柔らかい皮膚へ入る。
絡幹羆が低く身体を捻る。
だが、真壁の盾が前へ出る。
逃がさない。
三枝が言う。
「次、左前脚!」
左の床が沈む。
重さがそこへ戻る。
結人は即座に言う。
「始点に戻る!」
坂城が下から斬り上げる。
左前脚の根巻きが切れる。
絡幹羆の体勢が大きく崩れる。
今だ。
結人は一歩だけ踏み込み、短槍を深く突き込んだ。
白い口元の下。
そこだけが、樹皮じゃない。
短槍が入る。
絡幹羆の巨体が沈む。
床の繊維層が大きくへこみ、白い根が一斉に震え、黒い幹が静かに軋む。
そして、止まった。
配信の向こうで、少しだけ遅れてコメントが流れ始める。
炭酸:うお
通り雨:倒した
澪:すごい
迷子の斥候:4階の重いやつだ
凪:切らなかったな
結人は肩で息をしながら、小さく息を吐いた。
かなり大きかった。
かなり4階らしかった。
配信へ向けて、短く整理する。
「今の相手は、4階のここまでを全部使ってきました。
新しい言葉が必要というより、途中で切らないことが必要でした」
坂城が短く吐く。
「かなり嫌な相手だな」
真壁も頷く。
「でも4階だ」
三枝が静かに言う。
「4階の入口から奥まで、ちゃんと1本で繋がった」
かなりその通りだった。
⸻
絡幹羆を倒したあと、さらに少しだけ奥へ進む。
今までより、視線が散らない。
始点から最後までを切らずに追う。
その感覚が残っているうちに、黒い幹の列の向こうに、今までとは違うものが見えた。
石だ。
灰色の、濡れた石。
4階の繊維床でも、根株でもない。
斜め下へ続く、固い石の踏み段。
結人はそこで足を止める。
5階への下りだ。
まだ先は見えない。
下から上がってくる空気だけが違う。
4階の湿った青臭さより、少しだけ冷たい。
水ではない。
土でもない。
もっと閉じた、暗い匂いだった。
後ろの探索者の誰かが、小さく息を呑む。
「……見えた」
結人も短く頷く。
「はい」
今日はここまででいい。
4階の入口が残った。
奥の重いやつも通った。
そして今、次の階へ続く下りが見えた。
配信へ向けて結人は言う。
「今日はここで戻ります。
4階の入口だけじゃなく、奥の重いやつも通りました。
次は、この下を見ます」
コメント欄が流れる。
炭酸:きた
通り雨:ついに5階か
澪:お疲れさまです
迷子の斥候:かなり大きい
凪:今日は十分だ
そうだ。
今日は十分だった。
⸻
政府ギルドへ戻ると、入口前の空気が少しだけ違っていた。
換金列で、後ろの探索者の1人が別の誰かに言っている。
「4階の奥は、途中で切ると無理です。
始点から最後まで繋げて見ないと通りません」
結人は、その声を聞きながら窓口へ向かう。
相良環は、今日は結人が何を持ってきたのか見る前に言った。
「顔が違いますね」
結人は少しだけ目を瞬く。
「そうですか」
「はい。
入口を通った顔じゃないです。
その先を通った顔です」
かなり重い言葉だった。
袋を渡す。
今日は絡幹羆の根巻き片と、厚い樹皮片。
どれも高くはない。
それでも、4階の奥を通った実感はかなり大きい。
相良は樹皮片を見て言う。
「新しいですね」
「はい。4階の奥の重いやつです」
「どういう相手でしたか」
結人は短く答える。
「4階のここまでを全部使ってきました。
新しい言葉が必要というより、途中で切らないことが必要でした」
相良の手が少しだけ止まる。
「……かなり4階の完成形に近いですね」
「はい。
入口の言葉が残ったから、その先まで1本で繋げられました」
相良はすぐに打ち込む。
「かなり共有しやすいです」
その一言も、かなり重かった。
「それと」
相良が顔を上げる。
「5階の下りが見えました」
相良は一拍だけ止まり、それから静かに頷いた。
「そうですか」
短い。
けれど、その短さの中にかなり重さがあった。
「次は、下を見ます」
「はい。
今日はそれで十分です」
かなりその通りだった。
⸻
帰り道、結人は少しだけ高い弁当を買った。
前なら迷っていた値段だった。
でも今日は、迷わなかった。
それから冷たい飲み物を1本。
小さいヨーグルトも1つ。
厚い手袋は使って正解だったので、同じ物を次も買えるように品名だけ覚えた。
部屋へ戻る。
机の上に弁当、飲み物、ヨーグルト、換金票、ノートを並べる。
少しずつだ。
でも、前より確かに暮らしが整い始めている。
ノートを開く。
•4階
•音が返らない
•床が沈む
•揺れが始まる
•入口
•始点を取れ
•その先
•重さが移った方
•途中でできた形
•寄り切る前
•抜ける方
•静けさの手前
•奥の重い相手
•途中で切るな
•4階は、入口から奥まで1本で繋げて読む階
そこまで書いて、少しだけ止まる。
それから、最後に1行だけ足した。
•入口の言葉が残ったから、奥まで行けた
書いてから、結人はしばらくその文字を見ていた。
今日はかなり大きかった。
4階の入口の言葉が残った。
奥の重いやつを通った。
そして、5階への下りが見えた。
端末を見る。
コメント欄にも同じ熱が残っている。
4階めっちゃ良かった
始点から最後まで切らない、綺麗
ついに次の階だな
結人は、その最後の1行を見て、小さく息を吐いた。
そうだ。
次は下だ。
4階は、もう入口だけの階じゃない。
ちゃんと通って、次へ渡す階になった。
今日は、そのことがはっきり形になった日だった。




