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【第3話】

 ユーシアとリヴが見たものは、空飛ぶ熊だった。



「どこかで見覚えのある光景」


「熊が空を飛んでいる場面に遭遇したことが?」


「違う」



 高層ビル群の間をふらふらと散歩する熊から視線を逸らすことなく、ユーシアはリヴの冗談めいた言葉を一蹴する。


 以前、こういう光景を見たことがある。状況は違うが、あの時はネアと初めて出会った時だ。

 ビルとビルの合間を散歩するようにふらふらとした足取りで歩く少女を捕まえて、ユーシアとリヴは幼児退行した【OD】の少女と出会った。あの時の光景が脳裏をよぎって懐かしい気分になるが、今はそれどころではない。


 高層ビル群の上空を散歩する熊の着ぐるみを身につけた何某は、地上に佇むユーシアとリヴの存在に気づいている様子はない。重力という枷から解放された熊の着ぐるみは落ちる気配を全く見せないので、相手の身長がどれほどあるのか判断がつかずにいた。



「せめてどれほど大きいのか判断できれば撃ち落とせるのに」


「シア先輩の視力でも正確なところは難しいですか」


「残念だけど、これだけ離れているとね」



 もはや空飛ぶ飛行機を地上から見上げているような気分である。正確な大きさが分からないと、迂闊に声をかけて襲い掛かられる可能性も考えられた。

 狙撃手として視力には絶対の自信を持つユーシアでも、相手のおおよその背格好が分かりかねた。頭部も熊の被り物ですっぽり覆い隠しているようで、顔立ちはおろか性別すら不明である。


 すると、



「おにーちゃん、なにかいたの?」


「あ、ネアちゃん」



 路肩に停めたバスの窓を開け、ネアが大きな声で呼びかけてくる。窓枠から身を乗り出した彼女が転げ落ちないように、隣に座ったスノウリリィがネアの腰を抱きしめていた。


 空を飛ぶ異能力を発現させたネアであれば、空飛ぶ熊に追いつくことも可能だろう。問題があるとすれば、熊の正体が危険人物だったらネアを危険な目に遭わせてしまうことだ。特に幼児退行した純粋無垢な少女を危険に晒す真似は避けたい。

 しかし、空を飛ぶ熊をどうにかするにはネアに「空を飛んであの熊を連れてきてほしい」と依頼するしかない。高層ビルの屋上まで上って大声で呼びかける方法もあるにはあるが、相手に英語が通用しなければ始まらない。【OD】としてもそこそこの年数を重ねたネアなら、空飛ぶ熊を捕獲してきてくれるはずだ。


 ユーシアは純白の狙撃銃を下ろし、



「リヴ君、縮んでネアちゃんにくっついてくれる?」


「ご褒美ですか?」


「ふざけたことを言うと撃つよ」



 冗談とも聞こえないリヴを無視したユーシアは、路線バスの窓から身を乗り出すネアと彼女の転落を防ぐ為に腰を抱きしめるスノウリリィに手招きをした。



「おいで、ネアちゃん。ちょっとお願いしたいことがあるんだ」


「なぁに?」



 ユーシアのお願いを素直に聞き届けたネアは、言われた通りにバスから降りてくる。その後ろからスノウリリィも不思議そうな表情で続いた。


 空飛ぶ熊は、今もなお高層ビル群の合間を散歩中である。全面がガラス張りになったビルの前で立ち止まり、鏡のようになった表面に映り込む自分の姿を楽しんでいるようだった。熊の被り物で頭部を覆い隠しているから表情は分からないが、両手を振ってみたりくるんと1回転したりと遊んでいる様子である。

 無防備な今が絶好の捕獲チャンスである。あのまま捕獲して、近くの集落や集団の居場所を吐かせれば拠点の物資や【DOF】を確保できる。しばらくは生活に困らない物資はあるものの、やはり多いに越したことはない。


 ユーシアは空中散歩中の熊を指差し、



「あれを捕まえてきてほしいんだ」


「くまさん!!」



 高層ビルの表面に映り込んだ自分自身の姿で遊ぶ熊の姿を発展し、ネアは瞳を輝かせる。



「つかまえてくるの?」


「うん」


「かまないかな?」


「噛まないよ。多分、着ぐるみさんだよ」


「なぁんだ」



 ユーシアが着ぐるみであることを説明すれば、ネアはちょっとだけガッカリしたように言う。

 本物の熊が空を飛ぶようなことが起きれば非常にまずい。あの生物が持つ殺傷力は本物なのだ。空を飛びながら鋭い爪でも振るわれた暁にはある意味で動物兵器である。


 これはお願いを聞いてもらえないかと考えたユーシアだが、意外にもネアは素直に聞き入れてくれた。



「わかったー、つかまえてくるね」


「あ、ちょっと待ってネアちゃん」


「なぁに?」



 ふわりと重力の枷から解き放たれてふわりと浮かび上がるネアに、ユーシアはリヴの首根っこを引っ掴む。



「この真っ黒てるてる坊主を連れて行ってくれる? もしあの熊さんが危険な人だったら怖いから」


「でも、ねあね、りっちゃんはつれてけないよ。おもいもん」


「大丈夫、りっちゃん縮んでくれるから」



 ユーシアが「ね?」と笑顔で凄めば、リヴは仕方なしにレインコートの袖から注射器を滑り落とす。シリンダー内で揺れる透明な液体を首筋から注入すると、まるで幽霊のように姿が掻き消えた。

 よく見ると、ネアの肩に黒い何かがしがみついていた。人類の天敵である黒くてテカテカした虫かと錯覚するが、異能力を用いて親指程度の大きさに身体を縮めたリヴだろう。ネアが真っ白な服を身につけているから、身体が縮んでも余計に目立っている。


 ユーシアはネアの背中をポンと叩き、



「はい、よろしくね」


「いってきまぁす」



 ネアは元気よく大空めがけて飛び立っていった。


 ふわりと重力の枷から解き放たれ、彼女の矮躯は自然と空に舞い上がる。滑るように、泳ぐように、自然と空中浮遊するネアはあっという間に高層ビル群の屋上付近まで到達した。

 地上から見ていると、遥か遠くにネアと空飛ぶ熊の姿が確認できる。ネアの存在に気づいたらしい空飛ぶ熊は逃げる訳でもなく、近づいてくるネアに視線を投げかけているだけだった。相手もまたネアが危険人物であることを確かめている様子である。


 ネアと空中遊泳を楽しむ熊のやり取りを地上から眺めていたユーシアとスノウリリィは、



「大丈夫でしょうか、ネアさん」


「平気でしょ。見たところ、危険な人物っぽくはなさそうかな」



 片時も純白の狙撃銃を手放さないユーシアは、少女と熊の会話の様子を観察していた。


 空飛ぶ熊のもとに近づいたネアは、何事かを熊の着ぐるみを身につけた人物に語る。熊の着ぐるみを身につけたその人物は小さく頷くと、ネアが伸ばした手を掴んだ。

 スイ、とネアが空飛ぶ熊の手を引いて下降する。自由落下で錐揉み状に回転しながら地面を目指すようなヒヤヒヤする方法ではなく、まるでエレベーターが上から下の階層に人間を運ぶようなスッと滑らかな挙動で地面に降り立った。


 ネアが地面に降り立つと同時に、空飛ぶ熊の全貌も明らかになる。空飛ぶ熊の全長はネアの腰ぐらいの高さしかなく、手を引かれて不安そうにネアの顔を見上げていた。



「憎めない顔をした熊だなぁ」


「そうですね」



 ユーシアとスノウリリィは、ネアの背後に隠れる熊の着ぐるみをじっと見つめる。


 茶色い生地を基礎として、丸みを帯びた耳と尻尾が可愛らしい。瞳の部分な大きくつぶらで、幼い子供であれば間違いなく「可愛い!!」と叫ぶゆるキャラみたいな側面を感じさせた。

 ユーシアとスノウリリィにじっと見られるのが恥ずかしいのか、小さな熊はネアを盾にして引っ込む。背中にピッタリとくっついてきた小さな熊は、やはり時折、背中からユーシアとスノウリリィの顔を覗き込んできた。



「反応が何だか可愛いね」


「ですね」


「はい、そうですね」


「うわリヴ君いつのまに帰ってたの」



 親指姫として【OD】の異能力を解除したリヴは、役目を終えて元の大きさに戻っていた。いつまでも小さい姿でネアに張り付いている方が問題である。



「手っ取り早くお菓子で釣るかぁ。簡単に釣れるかな」


「あの程度の大きさであれば子供だと判断するのが妥当ですね。子供はお菓子が好きですから」


「元も子もないことを……」



 せめて熊の着ぐるみを身につけた何某が根城とする場所を吐き出させる為、ユーシアはリヴのレインコートの下に忍ばせたチョコレート菓子の箱を取り出した時だ。



『妹に何をするんだ』



 少年期特有の低い声と共に、ガチャリと音を立てて何か硬いものがユーシアの背中に押し付けられた。

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