37話
「……帰ります」
セシリアが立ち上がった。
私は思わず顔を上げた。
エレノアが小さく息を吸う。
「セシリア」
「すみません」
セシリアは笑おうとした。
でも、うまく笑えていなかった。
「今日は、もう無理です」
「分かりました」
エレノアは止めなかった。
セシリアが扉へ向かう。
その背中に、エレノアが言った。
「少しだけ……話をしませんか」
セシリアの足が止まった。
しばらくして、振り返る。
「何を?」
「あなたが知りたいことを」
セシリアは黙っていた。
やがて、ゆっくり椅子へ戻った。
私は部屋の隅に立ったまま、二人を見ていた。
「まず、聞きたいことがあります」
セシリアが言った。
「私を育ててくれたお父さんとお母さんは……」
「ベル夫妻ですね」
「はい」
エレノアは頷いた。
「二人は、あなたを大切に育てました」
「……そうです」
セシリアの声が少しだけ柔らかくなった。
「ずっと、私の家族です」
「はい」
「じゃあ……」
セシリアがエレノアを見る。
「どうして迎えに来なかったんですか?」
エレノアの表情が止まった。
「十五年間」
セシリアは続けた。
「私が生きてるって知ってたんですよね?」
「……はい」
「どこにいるかも?」
「はい」
「それなのに、来なかった」
エレノアは目を伏せた。
「あなたを守りたかったのです」
セシリアの眉が動く。
「守る?」
「王宮に戻れば、あなたは王女になります」
「もう王女なんじゃないんですか?」
「血筋としては、そうです」
エレノアは静かに答えた。
「ですが、あなたは王女として生きる必要がない人生を送っていました」
「だから放っておいた?」
「……」
「私が普通の女の子として生きられるように?」
「はい」
セシリアは俯いた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「それも、お母さんが決めたんですよね」
エレノアが顔を上げる。
「私が王宮に戻るかどうかも」
「……はい」
「私が何者として生きるかも」
「……はい」
「私には何も聞かずに?」
エレノアは答えられなかった。
セシリアが笑った。
今度の笑顔は、少し寂しかった。
「変なの」
「……何がですか?」
「私のことなのに、私が何も決めてない」
私は何も言えなかった。
セシリアは膝の上で手を握った。
「村にいたとき、一度だけ思ったことがあります」
エレノアが黙って聞いている。
「どうして私のお母さんは、私を迎えに来ないんだろうって」
エレノアの顔が歪んだ。
「……ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃないです」
セシリアは顔を上げた。
「ただ、知りたかった」
その目に涙が浮かんでいた。
「私がいらなかったからなのかって」
「違います」
エレノアはすぐに答えた。
「あなたを望まなかったことなど、一度もありません」
「じゃあ、どうして?」
「怖かったのです」
エレノアの声が震えた。
「あなたを連れ戻したら、今度こそあなたの人生を私が壊してしまうと思った」
「でも……」
セシリアが言った。
「迎えに来ないことだって、私の人生を変えたんですよね」
エレノアは黙った。
「私、お父さんとお母さんに育ててもらえて幸せでした」
セシリアは涙を拭った。
「だから、全部が悪かったとは思ってません」
それから、エレノアを見る。
「でも、私は何も知らなかった」
「はい」
「自分が王女だったことも」
「はい」
「お母さんが生きてることも」
「……はい」
「私には、選ぶこともできなかった」
エレノアは目を伏せた。
「その通りです」
セシリアは立ち上がった。
「だったら」
一度、息を吸う。
「これからのことは、私に決めさせてください」
エレノアが顔を上げた。
「セシリア……」
「王女になるのか」
セシリアは言った。
「村に戻るのか」
そして、静かに続けた。
「お父さんとお母さんを家族として大切にするのか」
私は息を止めた。
「全部、私が考えます」
エレノアは何も言わなかった。
やがて、小さく頷いた。
「分かりました」
その声は、とても小さかった。
セシリアは扉へ向かった。
今度は、誰も止めなかった。
私はその背中を見送る。
王女だと知らされた少女は、まだ王女として生きるとは決めていない。
ただ一つだけ。
自分の人生を、自分で決める。
その意思だけは、もう揺らいでいなかった。




