2話
次の日の朝。
私はいつもより少し早く、西棟へ向かった。
昨日のことが気になっていた。
血の跡。
足跡。
そして、あの紙。
――あの子は、生きている。
誰が書いたのか。
誰のことなのか。
まだ何も分からない。
だからこそ、昨日の部屋をもう一度確認する必要があった。
西棟三階。
いつもの扉の前に立つ。
私は一度、深呼吸をした。
鍵を開ける。
扉を押した。
「……」
部屋の中は静かだった。
古い机。
椅子。
棚。
閉じた窓。
一見すると、昨日と何も変わっていない。
けれど。
私はすぐに気づいた。
「……ない」
床を見る。
昨日あった血のような跡がない。
足跡も消えている。
机の上に置かれていた紙もない。
私はしゃがみ込んだ。
床には、いつもの埃が戻っている。
誰かが、ここを片づけたらしい。
私は立ち上がった。
昨日の私は、この部屋を掃除しなかった。
血の跡も。
足跡も。
そのまま残した。
だから、今こうなっている理由は一つしかない。
私以外の誰かが、この部屋に入った。
「……誰?」
返事はない。
もちろん、誰もいない。
私は部屋を見回した。
そして、もう一つ違和感に気づいた。
「……机」
机が少しだけ動いていた。
ほんのわずか。
普通の人なら気づかない程度だった。
けれど、私は知っている。
この机は十年間、ほとんど同じ場所にあった。
掃除をするとき、机の脚の周りまで毎日拭いている。
だから、どこに置かれているか覚えている。
私は机に近づいた。
脚の位置を見る。
床に、細い傷がついていた。
「昨日は、なかった」
新しい傷だった。
机を動かしたときについた傷。
誰かが、この机を動かした。
何かを探したのだろうか。
それとも。
私は机の下を覗き込んだ。
何もない。
棚も確認する。
変わったものはない。
椅子の位置も確認した。
昨日と同じ。
私はもう一度、机を見る。
その横に、小さな紙片が落ちているのを見つけた。
「……これ」
拾い上げる。
昨日の紙とは違う。
小さく破れた紙だった。
端が不規則に裂けている。
私は紙を裏返した。
何もない。
表を見る。
そこに、かすかな文字が残っていた。
――十五年前。
「十五年前……?」
私は呟いた。
昨日の紙には、
――あの子は、生きている。
と書かれていた。
そして今日は、
十五年前。
二つの言葉に関係があるのか。
私は紙片を折りたたんだ。
捨てることはできなかった。
掃除婦としてなら、こういう紙は普通なら処分する。
けれど、これは違う。
昨日までなかったものだ。
それだけで、私には残す理由があった。
私は紙片を持ったまま、掃除を始めた。
窓際。
床。
机。
椅子。
棚。
いつもの順番。
いつもの作業。
けれど、頭の中では別のことを考えていた。
十五年前。
私は十五歳だった。
この仕事を始める少し前だ。
何かあっただろうか。
王宮で。
私は思い出そうとした。
でも、何も浮かばない。
掃除婦の私が、王宮の出来事を詳しく知っているはずもない。
私は手を止めた。
そして、ふと考えた。
誰かに聞けばいい。
この宮殿で、長く働いている人に。
そう思ったところで、マルタの顔が浮かんだ。
掃除を終えた私は、道具を片づけてから、マルタのところへ向かった。
「マルタさん」
「どうしたの?」
「昨日、西棟三階の部屋に誰か入ったみたいです」
マルタの手が止まった。
一瞬だけだった。
けれど、私は見逃さなかった。
「……そう」
「昨日、床に血のような跡があって、足跡もありました。今朝来たら、全部消えていました」
「誰かが片づけたんだろうね」
「たぶん」
私はポケットから紙片を出した。
「それと、これが落ちていました」
マルタは紙片を見た。
「……十五年前」
小さく読み上げる。
その声が、少しだけ低くなった。
「何か知っていますか?」
「知らないよ」
返事は早かった。
私はマルタを見る。
マルタは紙片から目を離し、私を見る。
「リナ」
「はい」
「気になるのは分かる。でもね」
マルタは少しだけ困ったように笑った。
「あの部屋は、昔からそういう部屋なんだよ」
「そういう部屋?」
「掃除するだけでいい。余計なことは考えなくていいよ」
昨日までなら、私はその言葉に従っていただろう。
でも。
昨日、あの部屋で起きたことを知ってしまった。
私は紙片を握った。
「……分かりました」
そう答えた。
マルタは何も言わなかった。
私はその場を離れた。
廊下を歩きながら、紙片を見る。
十五年前。
あの子は、生きている。
どうして、この二つがあの部屋にあったのだろう。
そして、なぜ誰かが私の見つけたものを消したのだろう。
私はまだ、何も知らない。
だからこそ、まずは確かめる必要がある。
十五年前。
この王宮で、何があったのか。
そう考えていたときだった。
「少しいいですか」
後ろから声がした。
振り返る。
そこに、一人の男が立っていた。
落ち着いた身なり。
年齢は五十代くらい。
手にはいくつかの書類を抱えている。
「あなたが、リナ・ベルさんですね」
「はい」
「私はエドガー・ヴァレン。宮廷記録を管理しています」
私は頭を下げた。
「何か、ご用でしょうか」
エドガーは静かに私を見た。
そして、何でもないことのように尋ねた。
「……あの部屋で、何か気になるものを見ませんでしたか?」
私は答えなかった。
昨日の血の跡。
足跡。
あの紙。
そして、十五年前と書かれた紙片。
どうしてこの人は――。
あの部屋を気にしているのだろう。




