1話
王宮の朝は早い。
私は毎朝、決まった時間に西棟へ向かう。
今日も同じだった。
「おはようございます」
「おはよう、リナ。今日も西棟?」
「はい」
廊下を歩きながら、私は掃除道具を持ち直した。
西棟三階。
使われていない部屋がある。
私は十年間、そこを掃除している。
誰も使わない。
誰も来ない。
それでも、毎朝掃除する。
理由は知らない。
昔からの決まりだと聞いている。
私は扉を開けた。
「……今日も同じ」
部屋の中は静かだった。
古い机。
椅子。
棚。
窓は閉まっている。
昨日と変わらない。
そう思った。
私はいつものように窓際から掃除を始めた。
床を掃く。
机を拭く。
椅子を戻す。
棚の埃を払う。
そして、部屋の中央まで来たところで手を止めた。
「……ん?」
床に、赤黒い跡があった。
小さい。
指先ほどの大きさだ。
私はしゃがみ込んだ。
埃の上に、はっきり残っている。
「昨日は、なかった」
覚えている。
私は毎日、同じ順番で掃除している。
この場所も昨日、確かに掃いた。
だから気づいた。
血だろうか。
私は布を近づけた。
触る前に止める。
「……先に確認しよう」
匂いを嗅いでも、よく分からない。
赤いインクかもしれない。
ただ、インクなら床につく理由がない。
私は周りを見た。
床にはもう一つ、おかしなものがあった。
埃が乱れている。
誰かがここに立った跡だ。
「誰か、来たの?」
返事はない。
当然だ。
この部屋に来る人なんて、ほとんどいない。
私は立ち上がった。
机の下を確認する。
何もない。
椅子の裏にもない。
棚の中にも変わったものはない。
最後に机の上を見る。
一枚の紙が置かれていた。
「……昨日は、これもなかった」
私は紙を拾った。
折りたたまれている。
開く。
そこには一行だけ書かれていた。
――あの子は、生きている。
「……誰?」
私は紙を見つめた。
名前はない。
誰のことなのかも書いていない。
私はもう一度、部屋を見回した。
静かだ。
何も動かない。
でも、誰かがここに来た。
それだけは分かった。
私は紙を畳んだ。
掃除道具を置き、扉を開ける。
廊下に出た。
そのときだった。
「……足跡」
廊下の隅に、灰色の埃が残っていた。
靴跡だ。
この部屋の床と同じ埃がついている。
部屋から出てきた人のものだ。
私はしゃがんだ。
一つ。
二つ。
三つ。
階段のほうへ続いている。
「昨日は、なかった」
また同じ言葉が口から出た。
私は立ち上がった。
追いかけることはできる。
でも、今はまだ掃除の時間だ。
それに。
私は手に持った紙を見る。
「先に、これをどうするか考えないと」
私は足跡を掃かなかった。
血の跡も、そのままにした。
紙もポケットには入れず、手に持ったままにする。
誰かに見せるべきだろうか。
でも、誰に?
私は少し考えた。
まずは、昨日との違いを全部確認する。
それから決めよう。
私はもう一度、部屋の中を見た。
十年間、何も起きなかった部屋。
その部屋で、今日は三つ違うものが見つかった。
血の跡。
足跡。
そして――
「あの子は、生きている」
という一枚の紙。
私は掃除道具を握り直した。
「……今日の掃除は、長くなりそう」




