18話
朝の空気は、少し冷たかった。
ベル家の前を出たところで、私は足を止めた。
道の向こうに、男がいる。
昨日見た男だった。
帽子を深くかぶり、こちらを見ている。
私と目が合うと、男はすぐに顔をそらした。
「……また?」
偶然ではない。
そう思った。
私が一歩近づくと、男は背を向けた。
「待ってください」
呼びかけても、返事はない。
男はそのまま村の外へ歩いていった。
追うべきか迷った。
けれど、今はそれより確認したいことがある。
私はベル家へ戻った。
セシリアは畑へ出ている。
トーマスも一緒らしい。
家の中にはエミリアがいた。
「リナさん?」
「少し、お聞きしたいことがあります」
「セシリアのこと?」
「いいえ。十五年前のことです」
エミリアの手が止まった。
「赤ん坊を連れてきた女性のことを、もう一度教えてください」
エミリアは少し考えた。
「前にも話したでしょう?」
「はい。でも、もう一つだけ」
私は尋ねた。
「その女性の名前を覚えていますか?」
エミリアは眉を寄せた。
「名前……」
しばらく黙っていた。
「最初は、覚えていないと思ってたんです」
「はい」
「でも……」
エミリアが顔を上げた。
「ローザ」
私は息を止めた。
「ローザ、と名乗っていました」
「間違いありませんか?」
「たぶん。でも、十五年前ですよ」
「それで十分です」
私は椅子に座った。
頭の中で、これまでの記録を並べる。
ローザ。
十五年前、王女が死んだ直後に姿を消した侍女。
記録には、退職して故郷へ帰ったとある。
そして同じ頃。
ノルデン村へ、赤ん坊に関係する物資が送られている。
さらに、この家には王家の紋章が入った銀製品が残っていた。
偶然にしては多すぎる。
「そのローザという女性は、何を言っていましたか?」
エミリアは遠くを見るような顔をした。
「この子には事情がある、と」
「はい」
「大切に育ててほしい、とも言っていました」
私は黙って聞いた。
「それから……名前は変えないでほしい、と」
セシリア。
その名前は、王宮の死亡記録に残っていた王女と同じだ。
「他には?」
「ええと……」
エミリアは少し困ったように笑った。
「いつか、迎えが来るかもしれない、と」
胸の奥が重くなった。
迎え。
その言葉を、ローザは誰に向けて言ったのだろう。
「ローザは、どんな人でしたか?」
「村の人ではありませんでした」
即答だった。
「服もきちんとしていましたし、話し方も違いました。赤ん坊の扱いにも慣れていました」
「王宮の人間だと思いましたか?」
「そこまでは……」
エミリアは首を横に振った。
「ただ、普通の人ではないとは思いました」
そこへ、トーマスが戻ってきた。
「何の話だ?」
「十五年前の女性の話よ」
トーマスは少し考えた。
「ローザ、だったな」
私は顔を上げた。
「覚えているんですか?」
「ああ」
トーマスは短く答えた。
「帰るとき、どっちへ行ったかも覚えている」
「どちらですか?」
「王都へ向かう街道の方だ」
王都。
私は立ち上がった。
ローザ。
王女の死。
ノルデン村。
セシリア。
全部が、一本の線になりかけている。
けれど、まだ足りない。
ローザが何者だったのか。
なぜ赤ん坊をここへ連れてきたのか。
そして、なぜ王宮の記録から姿を消したのか。
そこまでは分からない。
「リナさん?」
エミリアが心配そうに私を見る。
「大丈夫です」
私は答えた。
「ただ、もう少し調べる必要があります」
家を出た。
村の道を歩きながら、さっきの男を探した。
見当たらない。
けれど、村の外れに人影があった。
あの男だ。
今度はベル家を見ていない。
私を見ている。
目が合った。
男は動かなかった。
私も動かなかった。
やがて男は、ゆっくりと背を向けた。
そのまま林の向こうへ消えていく。
私は追わなかった。
ただ、確信した。
私が何を調べているのか。
誰かが知っている。
そして、その誰かは――私を見ている。




