最後の一人
その日、仁志八雲は自分の書斎で有馬康信の訃報を受けた。
「とうとう有馬も逝ったか……」
八雲はしばし瞑目した。これで奥義書を分け合った四人も残るは八雲一人だけとなった。奥義書を巡る確執はあったものの、八雲は他の三人を憎んでいたわけではない。殊更に親密だったわけではないから悲嘆に暮れるというほどではないが、やはり心穏やかではいられない。
「後悔、しているのですか?」
問い掛けたのは訃報を持ってきた仁志早雲だ。
「私が計画を持ちかけなければ、あの三人も死なずに済んだだろう。そう思えばいささか、な」
「しかし話を持ちかけたのが兄上だとしても、彼らは彼らなりの理由で乗ってきたのです。こういう結果になったからといって兄上一人が気に病むことでもないでしょう。それに……事ここに至っては自分自身の心配をするべきです。蒼次郎は必ず来るのでしょうから」
「うむ……」
従兄の忠告に八雲は頷きを返す。
訃流の奥義は四門の全てを納めて初めて極めたとされる。だが一つの門だけでも計り知れない強さを持っているのは、また確かなことだ。土の源川玄蔵、火の瀬田朱美、水の有馬康信。誰一人とっても倒すに容易な相手ではない。その三人を次々に倒し、彼らの奥義を奪って来た蒼次郎だ。八雲にとっても難敵になるに違いない。
だから頷きを返したのだが、ならばどうするのかというのが問題だった。
「問題は蒼次郎がいつ来るか、それが判らない点だ。源川と瀬田のところでは多くが死んだ。有馬は家人に暇を出していたから犠牲を抑えられたが……私がそれに倣えば無用な混乱を招いてしまう」
白秋斉亡き後の島崎郷を実質的に取り仕切っているのは分家筆頭の仁志だった。名目上は奥義所有の四人が同格となっていたが、他の三人があまり実務的な事柄に興味を示さず、逆に八雲はそういった面倒くさいことをあまり苦にしない性格だった。蒼次郎がもたらす剣難を避けるために家人に暇を出しては、島崎郷が立ち行かなくなる。
しかも源川、瀬田、有馬の三人が立て続けに殺されてしまった今、郷の人々の間には「次は仁志が」という当然と言えば当然の風評が立っている。ここで仁志が妙な真似をすれば、「やはり」と思われる。
「……さて、どうしたものか」
悩む様子の八雲に、早雲はやれやれと首を振った。
自分の命の危機が目前に迫っているのに、八雲が心配しているのは島崎郷のことだ。蒼次郎が来れば返り討ちにするとの確信があるわけではない。最後の最後まで自分の役割を忘れない、いや、忘れられないのだ。
「いっそ、誘い出すか」
そう言って「どうだ?」とばかりに早雲の顔を覗き込む。
「誘い出すと言って、どうやって?」
「蒼次郎には例の寺から鮎という娘がついている。和尚の話では蒼次郎に懐いているそうだし、蒼次郎も鮎を可愛がっていたとのことだ。上手く鮎を捕らえれば蒼次郎を誘い出すこともできるだろう」
「人質、ですか。それは……いささかやり過ぎなのでは?」
「鮎を盾にして刀を捨てろと迫れば人質だろうが、誘い出す餌にするだけならいいだろう。どうせ蒼次郎は私を良く思っていないのだし、いっそ悪役染みたやり方のほうが蒼次郎も引っかかるだろう」
そう言って八雲は本当に悪役染みた笑いを浮かべた。
「兄上、似合いませんよ、そういう笑いは」
「む、そうか」
真顔に戻った八雲は改めて早雲に言った。
「蒼次郎は近場に潜んでいると仮定しよう。無傷で勝てると判断できる戦いではない。深手を負った場合を考えれば当然近場に拠点がなければならないからな。とすればもう二月近くだ。食糧などの調達も必要だろうが蒼次郎自身にはそれができない。当然鮎がその役を果たしているだろう」
「なるほど。では見慣れぬ娘を見かけなかったか聞き込んでみましょう」
「ああ、頼む。私は有馬の屋敷に行ってくるが、もし鮎を見つけたら手荒な真似はしないでくれ。優しく連れて来るんだ」
「できるだけ、そうします」
大人しくついてくる筈がない。早雲は苦笑交じりにそう言うしかなかった。
五日後、早雲は鮎を捕らえてきた。
聞けば蒼次郎は閉鎖されている森宗家に潜伏しているという。大胆不敵と称するべきか。
「兄上を見習って悪役染みた手紙を残しておきました。いきなり襲ってくることは無いでしょう」
鮎をさらってきた目的は、蒼次郎がもたらす剣難を未然に防ぐことだ。早雲は十日後の日付を蒼次郎と八雲の立会いの日と指定した手紙を残してきている。指示に従わない場合には鮎の命は云々という内容になっており、蒼次郎がいきなり乗り込んでこないように牽制していた。
「今頃蒼次郎は混乱しているだろうな。居場所を知られているのに襲われず、しかも水の奥義を修得するのに十分な日数まで与えられている」
「でしょうね。そのせいで奥義の修得ができない、などとならなければ良いのですが」
「……さすがにそこまで心配する謂われは無いがな。さて、鮎とやらの様子を見てくるか」
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鮎は見たこともない部屋で目を覚ました。
寝かされていた布団を抜け出し、障子を開けると小規模ながらも整った庭園が見え、ここがどこかの屋敷なのだと判る。さて、それがどこだろうかと考え、鮎は思い出した。
蒼次郎とともに森宗家に潜伏していた鮎。蒼次郎は自由に出歩けないので食糧その他の調達は基本的に鮎が行っていた。今日、いつものように宗家の屋敷を出たところで見たこともない男に捕まった。逃げようとしたした途端に目の前が真っ暗になり、気が付いたのがこの部屋だった。
島崎郷でそんなことをするのは、鮎の知る限りは仁志八雲の手の者だ。
「ここは仁志の屋敷……」
鮎は辺りを見回した。遠くから大勢の声が聞こえてくる。剣術の修練をする時の掛け声のようで、それが一層ここが仁志の屋敷なのだと思わせた。蒼次郎によって源川、瀬田、有馬が倒れ、訃流の道場は仁志の所しか開いていないはずだから。
「に、にげないと……」
ここにいてはいけないと思った。相手がどんなつもりでも、それは蒼次郎の敵が考える事。蒼次郎にとって悪いことだ。
ところが逃げるのを実行に移す前に背後でからりと襖の開く音がした。内側の廊下から誰かがやって来たのだ。弾かれたように振り向くと、件の男が立っていた。その背後にもう一人いる。
「お、目を覚ましたな。さっきは手荒な真似をして悪かったな」
相手の声は思いのほか穏やかだった。
「俺は仁志早雲だ」
「仁志! やっぱりここは……」
「そう、仁志八雲の屋敷だ」
「そ、それじゃあ蒼次郎様は!?」
鮎は森宗家を出たところで捕まった。蒼次郎が宗家に潜んでいるのは仁志側に知られている。
だとしたら……。
その不安が顔に出たのだろう。早雲が慌てたように言った。
「ああ、待て待て。安心しろ。蒼次郎には手を出していない」
「本当に!?」
「本当だ。俺の目的は君を連れてくることだけだった」
鮎は混乱した。仁志八雲は蒼次郎に命を狙われている。狙っている相手の居場所を突き止めたのに手を出さず、自分だけをさらって来た。その理由を、鮎は一つしか思いつかなかった。
「私を人質にするつもりなの? そんなのは嫌っ!」
仁志八雲が自分を人質にして蒼次郎に「刀を捨てろ」と迫ったら、蒼次郎はいったいどうするだろうかと鮎は思う。あくまでも復讐を果たすために自分を見捨てるだろうか。それとも言われるままに刀を捨てるだろうか。刀を捨てれば蒼次郎は殺されてしまう。
どちらも嫌だった。蒼次郎に見捨てられるのも、蒼次郎が殺されてしまうのも。それくらいなら、いっそ自分で命を絶った方がましだ。悲壮な決意を肩まえたその時、早雲の後ろにいたもう一人の男が鮎の頭に優しく手を置いた。
「人質になんてしないから妙な事は考えないでくれ」
「あっ……」
頭に乗った手に、蒼次郎と同じ温もりを感じて、鮎は体の力が抜けそうになった。
「あなたは……?」
「仁志八雲だ」
その名を聞いた途端、鮎は反射的に手を振り払っていた。白秋斉を殺し、蒼次郎が片腕と片目を失うことになった事件の首謀者、仁志八雲。鮎が八雲に会うのは初めてだが、蒼次郎から仇敵として繰り返し名を聞かされてきたから印象は最悪だ。
振り払ってはみたものの、振り払われた手を見て憮然としている八雲に、これまで抱いていた印象が崩れ去っていく。
「本当に、私を人質にしないなら、私を蒼次郎様のところに帰して下さい」
「悪いがそれはできない」
「どうしてですか!? 人質にはしないって言ったのに!」
八雲は目線が鮎と同じ高さになるようにしゃがみ込んだ。正面から鮎の瞳を覗き込み、噛んで含めるように言う。
「いいかい、私は君を人質として蒼次郎を脅すような事はしない。誓っても良い。私が望むのは蒼次郎と尋常に勝負をすることだ」
「なら、どうして私を……」
「これ以上、蒼次郎に無駄な殺しをさせないためだ。蒼次郎がここに乗りこんできたらどうなるか判るだろう? 悪いが君をだしにして、こちらが望む時、望む場所で蒼次郎と戦うことにする。具体的には十日後。そのように蒼次郎には伝えてある」
「十日?」
「そうだ。それくらいあれば蒼次郎も水の奥義を使えるようになるだろう。今までもだいたい二週間くらいだったからな」
実際に蒼次郎の修行を間近に見てきた鮎には良く判る。確かに蒼次郎は新しい奥義書を手に入れるたびに、おおよそ二週間程度でそれを使えるようになっていた。
すると仁志八雲はわざわざ蒼次郎が新しい奥義を使えるようになるのを待って、そして戦うつもりなのだ。
訃流の奥義がどのようなものなのか、実のところ鮎には良く判らない、判らないけれど、奥義一つが常識的な侍や剣客など及びもつかないような強さをもたらすのだと認識している。
今仁志八雲が持っているのは風の奥義書のみ。対して蒼次郎は土と火と水を持っている。三対一だ。今すぐなら二対一にできるし、そもそも鮎を人質にすればそんな数字を気にする必要もないかもしれない。
それなのに仁志八雲はわざわざ十日という猶予を蒼次郎に与えるという。
「信じてくれ。俺は卑怯な手を使って蒼次郎に勝つつもりはない。正々堂々と勝負するつもりだ」
八雲は真っ直ぐに鮎の目を見ながら、一言一言をはっきりと口にする。
目は口ほどに物を言うとは良く使われる表現だが、この時の八雲が正にそうだった。自分の発している言葉に嘘偽りは無いと瞳で語っている。鮎を子供と侮らず、自分の真意を理解してもらうという真摯な態度だった。
「あなたは……本当に仁志八雲なんですか?」
鮎は混乱していた。目の前の仁志八雲を名乗る男と、蒼次郎が復讐を果たすべき相手である仁志八雲。この二者が同一人物だとどうしても思えないのだ。剣客の覚悟の話の時、蒼次郎は八雲がそれほど悪い人間ではないのかもしれないと言っていた。でも悪いことをしたのなら、それは悪い人なのだと鮎は思う。
それなのに仁志八雲は悪い人に見えない。
疑問をぶつけられた八雲は苦笑するしかない。
「正真正銘、私が仁志八雲だ」
「あなたが本当に仁志八雲なら……どうしてあなたみたいな人が!? そんなに奥義書が欲しかったんですか!?」
鮎が真っ正面から問うと、仁志は苦笑を消した。これは笑いながら応えられる問いではない。
「ふむ……君には全てを教えておこうか」
「兄上!?」
「その時までこの娘が蒼次郎に会うことは無い。知られた所で構わぬし……ふふ、私もまだまだ弱いのかもしれないな。蒼次郎はともかく、こんな幼い娘にまで悪人だと思われるのは堪える」
そう言って八雲はほろ苦く笑った。それを見て早雲は何も言えなくなっている。
「さあ、来なさい」
八雲に促され、鮎は躊躇いながらも従った。
本当の事を教えると八雲は言った。ならば鮎がしる事柄の内、どれかが嘘なのだということになる。
連れて行かれたのは離れだった。離れと言っても一通りの物が揃っていて、土間やかまどもしつらえられている。座敷につながる襖の前で居住まいを正す八雲。
「和尚、鮎を連れてきました。入りますよ」
その言葉を聞いて、鮎は八雲の顔を見上げていた。
「うむ、入られよ」
そして襖の向こうから聞こえてきた、とても聞き慣れた声に、今度は襖を凝視する。
「失礼する」
そして八雲が襖を開けると、そこには鮎の育ての親、風向寺の和尚がいた。




