剣客と人斬り
島崎郷に戻ってきてから滞在している隠れ家に戻ると、蒼次郎は大きな溜め息を吐いた。
「……」
鮎は無言で首を傾げるしかない。蒼次郎の着物は所々裂け、どす黒く血に濡れている。鮎は怪我を心配したのだが蒼次郎は「心配ない」と言ったきりだった。そして溜め息である。明らかに様子が変だ。源川玄蔵を倒した後とも、瀬田朱美と戦った後とも違う。
「蒼次郎様……お怪我は本当に大丈夫なのですか?」
鮎の心配声に蒼次郎はようやく笑みを浮かべた。それは苦笑のようであった。
「大丈夫だ。見てみろ」
蒼次郎は着物をはだけて見せる。鍛え抜かれて贅肉の一片すらもない引き締まった上半身が露わになる。血まみれの脇腹を見て鮎が息を飲む。ところが手拭いで血の汚れを拭き取れば、傷口はぴたりと閉じており、出血も既に止まっている。気功の効果の一つとして傷の治りが速くなると以前に聞いたことがあり、難しい話は鮎には理解できなかったのだが、こうして効果を見せられれば感心するしかない。
しかしそうすると蒼次郎の様子がおかしい原因は別にあることになる。復讐を果たすごとに、蒼次郎に変化が起きているのはわかる。顕著だったのは瀬田朱美と戦った後だった。たった一人の妹だった葉末の仇を討ったというのに、蒼次郎はその点には触れず、戦いの中で得たという悦びについてを語った。
その時にも思ったことだが、鮎には蒼次郎が判らない。いや、剣客というものが判らない。命のやりとりを前提として自らを強く鍛え上げた者達。平穏無事を願って日々を送る普通の人々とは違うのだ。
だから蒼次郎の変化には気付けても、どう変化したのかまでは判らない。
「あの、蒼次郎様? 良ければ聞かせて下さい。私には判らないかもしれないけれど……でも聞きたいんです。蒼次郎様が何を思っているのか」
「鮎……」
いつになく積極的な鮎の勢いに戸惑った蒼次郎は、じっと彼女の瞳を覗き込んだ。常ならば真正面から見詰められれば気恥かしさから目を逸らしてしまう鮎だったが、この時ばかりはひたむきに蒼次郎の瞳を見つめ返した。
今回先に目を逸らしたのは蒼次郎だった。ふうと一つ息を吐き、あさっての方を向いたまま口を開いた。
「俺が思っていたほどには奴ら……非道ではなかったのかもしれん」
「え……?」
思いがけない第一声に、鮎は息を引いていた。
あの白秋斉を殺し、蒼次郎の片腕と片目を奪い、葉末を死に追いやった四人の仇達。それを指して非道ではないなどと、どうすればそんな言葉が出てくるのか。
有馬康信との戦いで蒼次郎が何を得たのか、鮎にはますます判らなくなった。
「源川は御祖父様にないがしろにされて憤っていた。瀬田は女だから、有馬は幼かったから、それぞれ御祖父様に認められなかった。奴らには奴らなりの理由があったんだ」
「理由って、そんな! なんだろうと人を殺す理由にはなりません!」
「いや、なるんだ。人には殺されるに足る理由は無くても、殺すに足る理由はある」
「でも普通は殺したりしません」
「殺さないのではない。殺せないんだ。人が人の命を奪うという根源的な禁忌は無意識の内に人を縛る。殺したいほどに憎んでいても、最後の一線を越えて本当に殺してしまう者の方が珍しい。大抵はその一歩手前で踏みとどまる。いや、踏み越えることができない。昔の俺のようにな」
たった二年前までは蒼次郎もそうだった。剣客を名乗るには致命的な欠点である。
どこか遠くを見つめ、蒼次郎は続けた。
「だが……世の中にはそんな一線を簡単に越えてしまう奴らもいる」
「それが仁志八雲達なのでしょう?」
「俺も最初はそう思っていたが……今俺が言っているのは夜盗や凶賊、人斬り、そういった連中だ。そういう連中ははした金のためにも簡単に人を殺す。一線を越えるというより、最初からそんな一線が無いのかもしれない。だからああも簡単に人を殺せるのだろうとも思う。剣客も人を斬るが、人斬りとは違う。言ってみれば、その一線を跨いで立っているようなものだ」
「線を跨いで……」
「そうだ。同じく剣を持って生きる剣客と人斬りだが、その間には明らかな違いがある。剣客は人斬りと違い人の命の大切さを理解している。つまり人の命を奪うことに対する抵抗はやはりあるんだ」
「で、でも白秋斉様は殺されました」
「……そのとおりだ。剣客はいざとなれば人を斬れる。ここが普通の人々との違いだ。人の命を奪う禁忌を承知しながらも、自らが守るべき何かの為なら敢えて禁忌を犯す。禁忌を犯したその罪を全て背負う覚悟があるからだ」
「覚悟……」
「人を斬れぬ剣客に存在価値は無いが、剣客だからといって人を斬る必要は無い。要は人を斬れるというその覚悟があるかどうか。有馬が言っていたことだ。瀬田も似たような事を言っていた」
鮎は再び首を傾げた。言葉としては何となく判るのだが、どうしても感覚的に理解できない。
「例えば……お前が人斬りに襲われたとしよう。今の俺なら確実にお前を助けられる。だが二年前の俺だったら判らない」
「ど、どうしてですか」
二年前の蒼次郎だって剣の腕は相当だったのだ。人斬りごときに後れを取るはずがない。鮎はそう思ったのだが、蒼次郎は小さく首を振った。
「今の俺はお前を助けるためなら人斬りを殺すことも厭わないが、昔の俺は人斬りも殺したくないと考えただろう。どうしても剣が鈍る。それは僅かな差に過ぎないのかも知れないが、一瞬の躊躇いが致命的な結果を招くこともあるんだ」
「ん……それは、何となく判ります」
「俺は源川は瀬田の屋敷で多くの家人を殺してしまった。本来関係ないはずの彼らを。そして有馬はそんなことにならないようにと家人に暇を出していた。有馬の方が余程命の大切さを知っていたわけだ」
蒼次郎が自嘲気味に笑うのを、鮎は痛ましい思いで見つめていた。
剣客と人斬りの違い、人を殺す覚悟。鮎にとっては縁遠い話過ぎて、完全に理解できたとは言い難い。それでも何となく判った、いや判ってしまったことからすれば、蒼次郎の心中はある程度察する事ができた。
島崎郷に戻ってきたばかりの頃、蒼次郎は復讐の剣鬼と化していた。吹き出さんばかりの憎悪を持て余しており、仇だけでなく彼らの家人達をも刃にかけてきた。そうして復讐を遂げるうちに蒼次郎は単なる剣鬼ではなくなってしまった。そんな状態で過去を振り返れば、無駄に奪ってしまった命の多さに愕然とするだろう。
「今なら覚悟という言葉の意味が良く判る。俺はその覚悟もなく人を殺してしまった……」
剣客と人斬りの違いと蒼次郎は言った。
覚悟も無く人を殺した蒼次郎は、己を人斬りだと考えているのだろう。
「……それなら、これからどうするのですか? もう復讐は……」
「続けるさ。始めてしまったことだ、終わらせなければならない。それに……やはり許せないんだ。二年前から始まった全てが」
「そう……ですか」
蒼次郎が再び命の危険を冒すことになると判っていても、鮎にはそれを止められない。だから鮎はこう言うしかなった。
「蒼次郎様、必ず生きて帰って下さい」
微かに、だが確かに蒼次郎が頷いた。




