第七十九話
翌朝。
王立グランセル魔導学園の空は、淡く晴れていた。
雲は遠く、薄く、青空の中に溶けるように広がっている。
朝日は強すぎず、校舎の石壁を静かに照らしていた。
尖塔の影は中庭の芝へ細く伸びている。
夜露はまだ残っていて、風が通るたびに小さな雫が揺れた。
噴水の水音は、今日も変わらない。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
特別な封書は来ない。
呼び出しもない。
公開評価もない。
ただ、普通の朝がある。
レオン・ヴォルツは、寮の部屋で手帳を開いていた。
昨夜の最後の一文。
重さを消さず、軽さを拒まず、その両方を持って笑えた時、第五班の日常は少しだけ戻ってくる。
昨日は、笑えた。
大きな事件はなかった。
封書も来なかった。
呼び出しもなかった。
ただ、普通の授業があり、普通の演習があり、普通の食堂があり、普通の中庭があった。
普通の良。
日常回復の良。
それが、昨日の評価だった。
そして今日。
レオンの胸には、別の静かな問いが残っていた。
第五班は続く。
エリシアとの通常交流も続く。
ローゼンベルク家は、彼女の判断を尊重した。
ヴォルツ家は、通常活動継続に異議なしとした。
学園も、通常活動継続を正式に共有した。
ならば。
この関係に、何と名前をつければいいのか。
仲間。
班員。
友人。
協力関係。
通常交流。
教育的協力関係。
言葉はいくつもある。
だが、どれも少し足りない。
そして、どれか一つに急いで閉じ込める必要もない気がしていた。
フィーネは、ただの補助者ではない。
アルトは、ただの支援役ではない。
ユーリスは、ただの軽口係ではない。
エリシアも、ただの婚約者候補でも、ただの見守り役でもない。
カイルとハルトも、ただの観察者ではなくなっている。
みんな、言葉一つでは足りない場所にいる。
だからこそ、慎重でいたい。
名前をつけることは、整理になる。
だが、急いで名前をつけることは、時に形を狭める。
レオンは手帳に今日の最初の一文を書いた。
大切な関係ほど、名前を急がない勇気がいる。
その下に、もう一行。
今はまだ、続けながら確かめる。
ペンを置く。
今日が、最終話の前の日であることを、レオンは知らない。
だが、胸のどこかで、一つの区切りが近いことは感じていた。
封書に追われる日々。
公開評価へ向かう日々。
家の返答を待つ日々。
それらが一段落し、今は日常へ戻ろうとしている。
ここで、一度、自分たちが何になったのかを見つめる必要がある。
答えを急がずに。
レオンは制服へ袖を通した。
灰色の布が肩に乗る。
鏡の中の自分は、以前より少しだけ柔らかい顔をしていた。
だが、目は逃げていない。
今日も、いつもの中庭へ向かう。
◆
寮の廊下は、穏やかだった。
生徒たちの声が朝の空気に混ざっている。
小テストの話。
演習課題の話。
食堂の朝食の話。
誰かが寝癖をからかわれている声。
その中に、第五班への特別な視線はもう少ない。
完全に消えたわけではない。
けれど、鋭い注目ではない。
そこにいることが、少しずつ当たり前になりつつある。
「第五班、今日は通常演習かな」
「昨日、普通の良だったらしい」
「普通の良っていいよな」
「なんか羨ましいな」
「普通って、案外難しいし」
普通って、案外難しい。
レオンは心の中で頷いた。
その通りだ。
追い詰められている時、人は必死に動ける。
だが、普通の日を普通に過ごすには、別の強さがいる。
条件を忘れず、重くなりすぎず、笑う。
誰かに寄りかかりすぎず、拒みすぎず、補正を受け取る。
それは、剣を振るより難しい時がある。
レオンは歩きながら、今日の状態を確認した。
事実。
両家の返答は一段落。
学園側の共有も完了。
通常活動継続。
状態。
関係に名前をつけたくなる。
だが、急ぎたくない。
行動。
中庭で共有する。
◆
中庭には、フィーネ・ルークがいた。
噴水のそば。
今日は手帳を閉じて、胸に抱えていた。
昨日よりも、さらに自然に立っている。
レオンが近づくと、彼女は顔を上げた。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
フィーネは小さく笑った。
「今日は、手帳を持っているだけにしました」
「開かないのか」
「必要になったら開きます」
その言葉に、レオンは少しだけ微笑んだ。
「良いな」
「はい」
フィーネは噴水を見る。
「今日の共有です。私は、この関係をどう呼べばいいのか考えていました」
「俺もだ」
フィーネが少し驚いたようにレオンを見る。
「レオンさんもですか」
「ああ」
「班員、仲間、友人、協力関係……どれも合っているようで、全部ではない気がして」
「俺も同じだ」
フィーネは手帳を開こうとして、少し止まり、閉じたまま言った。
「急がなくていいのでしょうか」
「たぶん」
レオンは答える。
「今は、名前より続け方の方が大事だ」
フィーネはその言葉を胸の中で受け取るように、ゆっくり頷いた。
「名前より、続け方」
「ああ」
「今日の共有にします」
◆
アルト・レイヴンは、今日は落ち着いた足取りで来た。
紙片は持っていない。
だが、不安そうでもない。
少しだけ、軽い。
「おはようございます」
「ああ」
「おはようございます、アルトさん」
フィーネが返す。
アルトは二人の前で立ち止まると、少し照れたように言った。
「昨日、紙片なしでも演習できました」
「ああ」
「支援なしの日でしたけど」
ユーリスがまだ来ていないのに、アルトは自分で苦笑する。
「でも、紙片がないと何もできないわけじゃないって少し思えました」
「大事だ」
レオンが言うと、アルトは頷いた。
「今日の共有です。俺、支援役って呼ばれることが多いです」
「そうだな」
「それは嫌じゃないです。でも、支援役だけじゃないって思いたいです」
その言葉は、静かだった。
「俺は、支援する人です。でも、迷う人でもあるし、泣く人でもあるし、たまに紙片なしで歩ける人でもある」
フィーネが優しく笑う。
レオンも頷いた。
「そうだな」
「だから、役割の名前に閉じ込められすぎないようにしたいです」
「良い共有だ」
アルトは少しほっとしたように笑った。
◆
ユーリス・ベルクは、少し眠そうに来た。
だが、昨日のような寝坊しかけの顔ではない。
どこか考えているような目をしていた。
「おはよう」
「ああ」
「おはようございます」
「おはようございます、ユーリスさん」
ユーリスは噴水の縁に片手を置いた。
「今日、俺も名前のこと考えてた」
フィーネが目を丸くする。
「みんな同じですね」
「まじか」
ユーリスは少し笑う。
「俺、軽口係とか普通に走るやつとか思われてるだろ」
「思われているな」
レオンが答えると、ユーリスは肩をすくめた。
「即答かよ」
「事実だ」
「まあ、そうだけど」
ユーリスは少しだけ空を見る。
「でもさ、俺は軽口だけじゃない。普通に走るだけでもない。怖い時に格好つけそうになるし、標識抱えて膝つきかけるし、でも離さない時もある」
一拍。
「そういうの全部込みで、俺なんだよな」
アルトが頷く。
「はい」
フィーネも。
「そうですね」
ユーリスはレオンを見る。
「レオンもさ、中心者とかヴォルツ家の人とかだけじゃないだろ」
その言葉に、レオンは少しだけ息を止めた。
ユーリスは続ける。
「家へ飛ぶし、一人で背負おうとするし、でも戻るし、最近ちょっと笑うし」
「最近ちょっと、か」
「ちょっとな」
ユーリスはにやっと笑う。
「今日の共有。名前は便利だけど、雑に貼ると狭くなる」
レオンは頷いた。
「良い共有だ」
◆
少し遅れて、エリシア・フォン・ローゼンベルクが来た。
朝の光の中、彼女はいつもの距離で立ち止まる。
その距離は、もう少しずつ自然になっていた。
「おはようございます」
「おはようございます、エリシア様」
フィーネが返す。
レオンも頷く。
「ああ。おはよう」
エリシアは五人の空気を見て、少し微笑んだ。
「今日は、何か静かな話をしていましたか」
「名前の話だ」
レオンが答える。
「名前……」
エリシアの表情が少し揺れる。
彼女にも思うところがあるのだろう。
「私も、考えていました」
「どんなことを」
フィーネが聞く。
エリシアは手帳を胸に抱えた。
「私は、ローゼンベルク家の娘です。生徒代表でもありました。レオン様との関係では、家同士の立場もあります」
一拍。
「でも、それだけではありません」
彼女は少しだけ視線を落とし、また上げた。
「皆様と一緒に怖がり、一緒に聞き、一緒に安堵した人でもあります」
その言葉は、とても静かだった。
だが、胸に残った。
「今日の共有です。私も、自分の立場を忘れてはいけない。でも、立場だけで自分を閉じたくもないです」
レオンは頷いた。
「良い共有だ」
エリシアは少しだけ微笑む。
「名前を急がない、ですね」
「ああ」
レオンは答えた。
「今は、急がない」
◆
五人は噴水のそばで、今日の状態を確認した。
フィーネ。
班員、仲間、友人、協力関係。
どれも合っているが、全部ではない。
名前より続け方。
アルト。
支援役だけではない。
迷う人、泣く人、紙片なしで歩ける人でもある。
役割に閉じ込められすぎない。
ユーリス。
軽口係や普通に走る人だけではない。
名前は便利だが、雑に貼ると狭くなる。
エリシア。
ローゼンベルク家の娘、生徒代表、家同士の立場。
でも、それだけではない。
一緒に怖がり、一緒に聞き、一緒に安堵した人。
レオン。
ヴォルツ家の者、中心者、判断責任を持つ者。
だが、それだけではない。
補正を受け取り、迷い、笑い、戻る人でもある。
確認し終えると、ユーリスが言った。
「なんか今日、最終回前みたいだな」
レオンは少し眉を寄せる。
「何の話だ」
「いや、空気がさ」
フィーネが少し笑う。
「節目のような感じはありますね」
アルトも頷く。
「一段落した後だからでしょうか」
エリシアも静かに言う。
「終わりではなく、区切りですね」
レオンは噴水を見る。
終わりではなく、区切り。
その言葉が、朝の水音に混ざった。
◆
東棟へ向かう道は、穏やかだった。
生徒たちは、第五班を見ても大きく反応しない。
それが自然だった。
ただ、すれ違う時に何人かが軽く声をかける。
「おはよう」
「今日、通常演習?」
「第五班、最近落ち着いてるな」
「いい感じじゃん」
「普通に見える」
普通に見える。
その言葉は、昨日も聞いた。
今日も聞いて、レオンは少しだけ胸が温かくなる。
普通に見える。
それは、崩れなくなったという意味ではない。
きっと、崩れても戻る姿を含めて、普通に見えるようになったのだ。
ユーリスが小さく言う。
「普通に見えるって、かなりすごいよな」
「ああ」
フィーネも頷く。
「最初は、普通から一番遠かった気がします」
アルトが苦笑する。
「ですね」
エリシアが微笑む。
「でも、今の普通は、前とは違います」
レオンは頷いた。
「そうだな」
◆
教室に入ると、カイル・ローダンが本を閉じた。
ハルト・グレイナーは窓際に立っている。
いつもの光景。
だが、今ではその“いつもの”にも、少し安心がある。
ユーリスが手を上げる。
「おはよう、観察者二名」
「定着させるな」
ハルトが即座に返す。
カイルは淡々と言った。
「観察者という名前も、正確ではないな」
「お、今日の話題に合ってる」
ユーリスが笑う。
カイルはレオンたちを見る。
「私は観察しているが、それだけではない。所見も出した。時には助言もする。場合によっては批判もする」
ハルトが腕を組んだまま言う。
「俺も観察者じゃない」
「じゃあ何だよ」
ユーリスが聞くと、ハルトは少し黙った。
「……知らん」
「知らないのかよ」
「名前を急がないんだろ」
その返しに、一瞬だけ教室の空気が止まった。
そして、ユーリスが吹き出した。
「ハルトが一番うまいこと言った」
「うるさい」
フィーネも笑っている。
アルトも。
エリシアも、口元に手を当てて笑っている。
レオンも、少し笑った。
ハルトは顔を背けた。
だが、耳が少し赤い。
カイルが静かに言う。
「今のは、良い日常会話だ」
「評価するな」
ハルトが不機嫌そうに言う。
「評価ではなく観察だ」
「観察者じゃないんじゃなかったのか」
ユーリスが突っ込む。
また笑いが起きた。
普通の教室で、普通に笑う。
レオンはその音を、静かに胸へ入れた。
◆
一限目。
教師は黒板へ文字を書いた。
関係の命名。
教室が静まる。
レオンは少し驚いた。
まるで朝の話を聞かれていたような主題だった。
教師は振り返り、淡々と言った。
「人は、関係に名前をつけることで理解しようとする」
黒板に続けて書かれる。
班員。
友人。
協力者。
婚約者。
観察者。
支援者。
「名前は便利である。役割を明確にし、距離を測り、責任の所在を整理する」
一拍。
「だが、名前は時に、関係を狭くする」
ユーリスが朝と同じだという顔をした。
フィーネが手帳を開く。
アルトも。
エリシアも静かに聞いている。
「ヴォルツ」
「はい」
レオンは立ち上がる。
「現在の第五班および関係生徒に必要なことは何だ」
レオンは少し考えた。
だが、答えは朝の中にあった。
「名前を急がないことです」
教師は続きを待つ。
「第五班には、班員、仲間、協力関係、友人、支援役、中心者など、いろいろな言葉があります。どれも間違いではありません」
一拍。
「でも、今の俺たちは、そのどれか一つだけで説明できるわけではありません。だから、名前で関係を固定しすぎず、続け方の中で確かめていくことが必要だと思います」
教師は頷いた。
「良い」
そして教室全体へ言った。
「関係は、名前が先にあるのではない。日々の振る舞いが積み重なり、後から名前に近づいていくこともある」
日々の振る舞いが積み重なり、後から名前に近づく。
レオンはその言葉を、深く胸に入れた。
◆
午前の演習は、通常課題だった。
標識二つ。
護送対象一体。
魔法人形二体。
障害壁一つ。
難しすぎず、簡単すぎない。
教師は言った。
「本日は、役割名に引かれすぎないことを確認する」
役割名に引かれすぎない。
それだけで、全員が少し緊張する。
鐘が鳴る。
フィーネが報告する。
「敵、正面前衛、右軽量。護送、左黄色。障害、中央。標識、奥と右奥。状態、報告係として完璧に言おうとしました。項目へ戻ります」
レオンが指示する。
「護送優先。ユーリス左。アルト右軽量。俺前衛。フィーネ障害」
「はい」
「了解」
「はい」
アルトが土を出す。
「支援役だから支援しなきゃと思いました。必要量で行きます」
土が右軽量を止める。
強すぎない。
弱すぎない。
ユーリスが走る。
「普通に走る人って思われてるの意識した。今は護送」
護送対象へ到達。
レオンは前衛を受ける。
中心者。
ヴォルツ家の者。
責任を持つ者。
その名前が、肩に乗る。
同時に、第五班の声を受け取る人。
補正を受け取る器量。
それも乗る。
重くなりかけた瞬間、レオンは言った。
「中心者の名前に引かれた。戻る。分ける」
フィーネが補足する。
「障害、中央起動。左回り可能」
アルトが言う。
「右軽量維持。標識右奥へは風弱で補助可能」
ユーリスが返す。
「護送黄色。左回りで行ける」
レオンはそれを聞き、選ぶ。
「左回り。標識奥先。右奥は後」
「了解!」
動きは滑らかだった。
完璧ではない。
途中でフィーネの報告が少し長くなった。
アルトが支援を少し強めすぎた。
ユーリスが「普通に走る」を意識しすぎて足の運びが硬くなった。
レオンも、指示を少し整えすぎた。
だが、そのたびに言った。
戻った。
護送対象を安定させ、標識二つを設置する。
鐘が鳴った。
◆
教師が近づく。
「第五班、評価、良」
いつもの良。
だが、今日の良は、少し深かった。
「役割名に引かれる場面はあった。ルークは報告係、レイヴンは支援役、ベルクは普通に走る者、ヴォルツは中心者」
一人ずつ指摘される。
「しかし、各員がそれを言語化し、役割に閉じ込められず、状況へ戻った」
「はい」
「良。名前を持ちながら、名前に使われなかった」
名前を持ちながら、名前に使われない。
レオンはその言葉を手帳に書いた。
教師は続ける。
「役割は必要だ。だが、役割は牢ではない。覚えておけ」
役割は牢ではない。
アルトが特に強く頷いた。
◆
昼休み。
食堂は穏やかだった。
第五班はいつもの席に座る。
エリシアは少し離れた席。
カイルとハルトも別の場所にいる。
いつもの配置。
けれど、どこか互いを認識している。
それが、今の距離だった。
アルトが言う。
「役割は牢ではない、って刺さりました」
「俺もです」
フィーネが頷く。
「報告係だから、いつも完璧に報告しなきゃと思いそうになります」
ユーリスがパンをかじる。
「俺も、普通に走るって言いすぎて、たまに普通が牢になる」
「普通が牢」
レオンが繰り返す。
「それ、かなり変な言葉だけど本当だな」
ユーリスは笑った。
「俺っぽいだろ」
「ああ」
アルトが言う。
「支援役も、役割です。でも、俺は支援しかしてはいけないわけじゃない」
フィーネが微笑む。
「はい。アルトさんは、支援役で、紙片を書いて、泣いて、笑って、食堂のスープをよくこぼしそうになる人です」
「最後の必要ですか?」
アルトが慌てる。
ユーリスが吹き出す。
「必要だろ」
「昨日だけです!」
「昨日だけ?」
レオンが聞く。
アルトが固まる。
フィーネが笑い、ユーリスが笑い、レオンも少し笑った。
役割に閉じ込められない。
それは、こういう小さなからかいの中にもあるのかもしれない。
◆
食後、エリシアが少しだけ席へ来た。
距離を保ちながら、微笑む。
「楽しそうですね」
「アルトがスープをこぼす話をしていた」
ユーリスが言う。
「こぼしてません!」
アルトが即座に返す。
フィーネが訂正する。
「こぼしそうになっただけです」
「それも言わなくていいです!」
エリシアが小さく笑った。
「アルト様は、支援役だけではないのですね」
「はい……そういう方向で広げられるとは思いませんでした」
アルトは少し赤くなる。
レオンはその様子を見ていた。
エリシアが笑っている。
フィーネが笑っている。
アルトが慌てている。
ユーリスが楽しそうにしている。
それは、家の条件を忘れた距離ではない。
でも、硬すぎる距離でもない。
普通に、丁寧に、笑っている。
◆
放課後。
中庭には、自然といつもの面々が集まった。
第五班。
エリシア。
カイル。
ハルト。
噴水の水音が、夕方の空気に溶けている。
空は橙に染まり始めていた。
ユーリスが言う。
「今日のテーマ、名前を急がない、だったな」
「ああ」
レオンは頷く。
フィーネが手帳を開く。
「名前を持ちながら、名前に使われない」
アルトも。
「役割は牢ではない」
エリシアも。
「立場だけで自分を閉じない」
カイルが静かに言う。
「名前は必要だ。だが、名前は省略でもある」
「省略?」
ユーリスが聞く。
「例えば、レイヴンを支援役と呼ぶ時、支援に関する情報は伝わる。しかし、支援以外の面は省略される」
カイルは続ける。
「省略であると自覚して使うなら便利だ。全てだと思えば危険だ」
ハルトが腕を組む。
「つまり、ユーリスを馬鹿と呼ぶのも省略か」
「おい」
ユーリスが即座に反応する。
カイルが淡々と言う。
「かなり粗い省略だな」
フィーネが笑いをこらえる。
アルトはこらえきれず笑った。
エリシアも口元を押さえている。
ユーリスはハルトを見る。
「じゃあハルトは不器用で省略するぞ」
「勝手にしろ」
「否定しないのか」
「省略だろ」
また笑いが広がる。
レオンはその笑いを聞きながら、胸の奥が静かに温まるのを感じた。
こういう日が、増えていくのだろうか。
増えていけばいい。
そう思った。
◆
笑いが落ち着いた後、エリシアが静かに言った。
「レオン様」
「ああ」
「私たちの関係にも、いつか名前がつくのでしょうか」
その問いに、空気が少し静かになる。
フィーネが手帳を閉じる。
アルトも顔を上げる。
ユーリスも軽口を止める。
カイルとハルトも黙った。
レオンは、エリシアを見る。
婚約。
家。
通常交流。
尊重。
条件。
見守り。
友人。
支え。
いくつもの言葉が頭に浮かぶ。
どれも違うわけではない。
だが、今すぐ一つに決めるには早い。
レオンは静かに答えた。
「いつか、つくかもしれない」
エリシアは頷く。
「はい」
「でも、今急いでつける必要はないと思う」
一拍。
「家のための名前も、学園のための名前も、俺たち自身の名前も、きっと全部同じではない」
エリシアの目が揺れる。
「はい」
「だから、今は……」
レオンは少しだけ言葉を探した。
「普通に、丁寧に、続けたい」
昨日、彼女が言った言葉。
それを返す。
エリシアは一瞬、目を見開いた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「はい」
その返事は、静かだった。
だが、とても大きかった。
ユーリスが小さく言う。
「いいな、それ」
フィーネも頷く。
「はい」
アルトも。
「名前を急がない関係」
カイルが静かに言う。
「現時点では、最も正確だ」
ハルトが短く言う。
「悪くない」
それは、ハルトにしてはかなりの肯定だった。
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは手帳を開いた。
第七十九話。
名前を急がない関係。
朝。
封書も呼び出しも公開評価もない普通の朝。
だが、胸には静かな問い。
第五班は続く。
エリシアとの通常交流も続く。
この関係に何と名前をつければいいのか。
仲間。
班員。
友人。
協力関係。
通常交流。
教育的協力関係。
どれも合っているが、どれも少し足りない。
大切な関係ほど、名前を急がない勇気がいる。
今はまだ、続けながら確かめる。
中庭。
フィーネ。
班員、仲間、友人、協力関係。
どれも合っているようで、全部ではない。
名前より続け方。
アルト。
支援役だけではない。
迷う人。
泣く人。
紙片なしで歩ける人。
役割の名前に閉じ込められすぎない。
ユーリス。
軽口係、普通に走るやつだけではない。
怖い時に格好つけそうになる。
標識を抱えて膝をつきかける。
でも離さない時もある。
名前は便利だが、雑に貼ると狭くなる。
エリシア。
ローゼンベルク家の娘。
生徒代表。
家同士の立場。
でも、それだけではない。
一緒に怖がり、一緒に聞き、一緒に安堵した人。
立場を忘れてはいけない。
でも、立場だけで自分を閉じたくもない。
レオン。
ヴォルツ家の者。
中心者。
判断責任を持つ者。
でも、それだけではない。
補正を受け取り、迷い、笑い、戻る人でもある。
終わりではなく、区切り。
教室。
カイル。
観察者という名前も正確ではない。
観察しているが、それだけではない。
所見も出した。
助言もする。
批判もする。
ハルト。
俺も観察者じゃない。
じゃあ何だ。
知らん。
名前を急がないんだろ。
笑い。
良い日常会話。
講義。
関係の命名。
名前は便利。
役割を明確にし、距離を測り、責任の所在を整理する。
だが、名前は時に関係を狭くする。
現在の第五班および関係生徒に必要なこと。
名前を急がないこと。
班員、仲間、協力関係、友人、支援役、中心者。
どれも間違いではない。
だが、どれか一つだけで説明できるわけではない。
名前で関係を固定しすぎず、続け方の中で確かめていく。
関係は、名前が先にあるのではない。
日々の振る舞いが積み重なり、後から名前に近づいていくこともある。
午前演習。
役割名に引かれすぎない確認。
フィーネ、報告係として完璧に言おうとする。
アルト、支援役だから支援しなきゃと思う。
ユーリス、普通に走る人と思われているのを意識する。
レオン、中心者の名前に引かれる。
全員、言語化して状況へ戻る。
評価、良。
名前を持ちながら、名前に使われなかった。
役割は必要。
だが、役割は牢ではない。
昼。
役割は牢ではない。
普通が牢になることもある。
支援役も役割。
でも、支援しかしてはいけないわけではない。
アルトは支援役で、紙片を書いて、泣いて、笑って、食堂のスープをこぼしそうになる人。
こぼしていない。
こぼしそうになっただけ。
笑い。
役割に閉じ込められない小さなからかい。
エリシア。
アルト様は支援役だけではないのですね。
普通に、丁寧に、笑っている。
放課後。
中庭。
第五班、エリシア、カイル、ハルト。
名前を急がない。
名前を持ちながら、名前に使われない。
役割は牢ではない。
立場だけで自分を閉じない。
名前は省略でもある。
省略であると自覚して使うなら便利。
全てだと思えば危険。
ユーリスを馬鹿と呼ぶのもかなり粗い省略。
ハルトは不器用で省略。
笑い。
エリシア。
私たちの関係にも、いつか名前がつくのでしょうか。
レオン。
いつか、つくかもしれない。
でも、今急いでつける必要はない。
家のための名前も、学園のための名前も、俺たち自身の名前も、きっと全部同じではない。
今は、普通に、丁寧に、続けたい。
エリシア、はい。
名前を急がない関係。
現時点では、最も正確。
悪くない。
レオンはペンを止めた。
名前を急がない関係。
それは、曖昧に逃げる言葉ではない。
むしろ、今の自分たちにとっては、とても正確な言葉だった。
第五班は、班だ。
協力関係だ。
仲間でもある。
友人に近いものもある。
けれど、そこに家の条件があり、学園の監督があり、公開評価の記録があり、エリシアの立場があり、レオンの家名がある。
単純な言葉では足りない。
だから、急がない。
名前をつけることを拒むのではない。
いつか、ふさわしい名前が見つかるかもしれない。
その時、きっとそれは、日々の振る舞いの後から来る。
今は、普通に、丁寧に、続ける。
フィーネは手帳を開く人で、開かない時間も選べる人になった。
アルトは支援役で、でも支援役だけではなくなった。
ユーリスは普通に走る人で、でも普通に縛られない人になった。
エリシアはローゼンベルク家の娘で、でも一緒に怖がり、一緒に安堵した人でもある。
カイルは観察者で、でも助言者でもあり、所見を残した人でもある。
ハルトは不器用で、でも逃げていないかを見てくれる人でもある。
そして自分は。
ヴォルツ家の者で。
中心者で。
判断責任を持つ者で。
でも、補正を受け取り、迷い、笑い、戻る人でもある。
レオンは最後に一行を書く。
名前を急がない関係。
その下に、もう一行。
関係は、名乗る前に積み重なる。だから今は、名づけるより先に、明日も普通に丁寧に続ける。
ペンを置く。
窓の外は夜だった。
星が静かに光っている。
明日。
明日も、普通の日になるかもしれない。
いや、きっと明日は、少し特別な普通になる。
そんな予感があった。
だが、レオンはその予感に名前をつけなかった。
ただ、手帳を閉じる。
灯りを落とす。
暗闇の中で、噴水の水音を思い出す。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
水は、自分の音に名前をつけない。
それでも、聞く者には確かに届く。
第五班も。
エリシアとの関係も。
今はまだ、名前より先に。
確かに、そこにある。




