第七十八話
翌朝。
王立グランセル魔導学園の空は、やわらかく晴れていた。
雲は薄く、白い布を引いたように青空の上を流れている。
朝日は強すぎず、校舎の石壁を淡く照らし、尖塔の影を中庭の芝へ長く伸ばしていた。
夜露はまだ残っている。
芝の先に小さく光り、風が通るたびに、ほんの少しだけ揺れた。
その風は、冷たくもなく、熱くもない。
ただ、朝の空気をゆっくり動かす程度だった。
噴水の水音は、今日も変わらない。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
特別な封書が届く日でもない。
公開評価課題の日でもない。
家からの返答を待つだけの日でもない。
ただの朝。
それなのに、その“ただ”が、レオン・ヴォルツには少し不思議に感じられた。
寮の部屋で手帳を開き、昨夜の最後の一文を見つめる。
条件を抱えたまま、考えすぎず、忘れすぎず、続けることが、これからの第五班の日常になる。
昨日、学園は正式に第五班の通常活動継続を共有した。
ただし、継続観察。
条件あり。
監督あり。
過度な依存、責任回避、対人距離の不適切な曖昧化が生じないよう確認。
それでも、通常活動継続は認められた。
教室は拍手ほど騒がなかった。
食堂では少し普通に座れた。
中庭では笑えた。
それだけのことが、昨日はとても大きかった。
今日からは、もっと普通の日が増えていくのだろう。
おそらく。
だが、普通に戻ることにも練習がいる。
大きな危機が去った後、人は急に力を抜けない。
条件を忘れて浮くこともある。
逆に、条件を意識しすぎて固まることもある。
笑う時にも、これでいいのかと考えてしまうかもしれない。
近づきすぎていないか。
依存に見えないか。
責任回避に見えないか。
支えすぎではないか。
受け取りすぎではないか。
考え出せば、日常のすべてが点検項目になってしまう。
それでは続かない。
レオンは手帳へ今日の最初の一文を書いた。
条件を抱えたまま笑うには、笑ってもいいと自分に許す練習がいる。
その下に、もう一行。
忘れるのではなく、抱えたまま軽くなる。
ペンを置く。
今日は、笑う練習の日かもしれない。
もちろん、ふざける日ではない。
条件を忘れる日でもない。
けれど、ずっと重い顔だけをしていることが責任ではない。
責任を持ったまま、少し笑う。
補正を受け取る器量を意識しながら、軽口にも笑う。
通常交流の距離を保ちながら、エリシアとも普通に話す。
それが、これから必要になる。
レオンは制服へ袖を通した。
灰色の布は、今日も同じ重さで肩に乗る。
鏡の中の自分を見る。
昨日より、少しだけ顔が柔らかい。
だが、まだ硬さは残っている。
それでいい。
完全に抜けきらないまま、朝へ出る。
◆
寮の廊下は、穏やかだった。
昨日までの緊張や、正式共有のざわめきは薄れ、学園の日常が戻ってきている。
生徒たちは朝の準備をしながら、授業の話や課題の話、食堂の献立の話をしていた。
その中に、第五班の話題も少しだけ混じる。
けれど、それはもう、鋭い噂のような形ではなかった。
「今日から普通に戻る感じかな」
「第五班、昨日も演習良だったらしいぞ」
「日常化の良だって」
「なんか先生の評価、最近いろいろあるな」
「良い良とか良い上とか日常化の良とか」
「でも、わかりやすいよな」
「第五班らしい」
第五班らしい。
その言葉を聞いて、レオンは少しだけ足を緩めた。
以前なら、第五班らしいという言葉は、弱さや問題の印だったかもしれない。
今は違う。
完全ではない。
崩れる。
でも戻る。
条件を抱えたまま続く。
そういう意味を含むようになっている。
少し不思議で、少しむずがゆい。
レオンは歩きながら、胸の内で確認する。
事実。
今日は通常日。
返答待ちではない。
公開評価でもない。
状態。
少し軽い。
軽いことが少し怖い。
行動。
軽さを隠さず、中庭へ行く。
◆
中庭には、フィーネ・ルークがいた。
噴水のそば。
今日は手帳を開いていない。
胸に抱えてもいない。
両手で持ってはいるが、少し下ろしている。
それだけで、昨日までより肩の力が抜けているように見えた。
レオンが近づくと、フィーネは顔を上げる。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
フィーネは少しだけ笑った。
「今日は、手帳を開かずに待ってみました」
「どうだった」
「少し落ち着きませんでした」
正直な答えだった。
「でも、開かなくても大丈夫でした」
「良いな」
フィーネは手帳を見下ろす。
「今日の共有です。手帳を開かないことを、怠けているように感じそうです」
「怠けている?」
「はい。ずっと状態を書いて、確認してきました。だから、開かない時間があると、油断しているのではないかと不安になります」
レオンは頷いた。
それも日常化の揺れだ。
記録することは大切だった。
だが、常に書いていなければ崩れるわけではない。
フィーネ自身も、その段階に来ているのかもしれない。
「書かない時間も、状態だ」
レオンが言うと、フィーネは少し目を開いた。
「書かない状態」
「ああ。必要な時に書けばいい。今書かないことも、選択だ」
フィーネはゆっくり頷いた。
「はい」
そして、今日は手帳を開かなかった。
◆
アルト・レイヴンは、少し明るい顔でやって来た。
手には紙片がない。
鞄も軽そうだ。
ただ、近づくにつれて、少し照れくさそうに視線を泳がせた。
「おはようございます」
「ああ」
「おはようございます、アルトさん」
フィーネが返す。
アルトは二人を見て、小さく言った。
「今日、支援の紙片を持ってきませんでした」
「そうか」
「はい」
彼は鞄を軽く叩く。
「一枚も、ではないです。授業用の手帳にはあります。でも、朝の共有用には持ってきませんでした」
「不安か」
レオンが聞くと、アルトは正直に頷いた。
「少し」
一拍。
「でも、今日の共有です。紙片がないと、支援できない気がして怖い。でも、紙片がなくても、必要になったら考えられるか試したいです」
フィーネが微笑む。
「いいですね」
アルトは少し照れる。
「でも、もし演習で慌てたら言います」
「それでいい」
レオンは頷いた。
アルトの支援も、少しずつ紙の外へ出ようとしている。
紙片は大切だった。
だが、永遠に紙片がなければ動けないままではない。
今日のアルトは、そこを一歩踏むのだろう。
◆
ユーリス・ベルクは、いつもより少し遅れて来た。
だが、遅刻というほどではない。
歩き方は軽い。
表情も、かなりいつもに近い。
それを見て、レオンは少しだけ安心した。
「おはよう」
「ああ」
「おはようございます」
「おはようございます、ユーリスさん」
ユーリスは三人を見ると、にやりと笑った。
「今日、俺、普通に寝坊しかけた」
フィーネが瞬きをする。
アルトが少し笑う。
レオンは聞く。
「寝坊しかけた?」
「うん。緊張で眠れないとかじゃなくて、普通に眠くて起きたくなかった」
ユーリスは胸を張る。
「かなり日常っぽくない?」
フィーネが笑った。
「確かに」
アルトも笑う。
「普通ですね」
レオンも少しだけ口元を緩める。
「今日の共有はそれか」
「そう。今日の共有。緊張じゃなくて普通に眠かった。これを油断か日常か判断しづらい」
ユーリスらしいが、重要な共有だった。
レオンは頷く。
「良い共有だ」
「だろ」
「今日は、眠気を隠すな」
「それ、ただの寝不足扱いじゃない?」
「日常だ」
また小さな笑いが生まれた。
◆
少しして、エリシア・フォン・ローゼンベルクが来た。
彼女も今日は少し表情が柔らかい。
昨日よりも自然に歩き、自然に距離を取って立った。
その距離が、誰にも説明されなくても、ちょうどいいと感じられる。
「おはようございます」
「おはようございます、エリシア様」
フィーネが返す。
レオンも頷く。
「ああ。おはよう」
エリシアは噴水を見て、少し笑った。
「今日は、少しだけ普通の朝に見えます」
「そうだな」
「でも、普通に見えることにも、少し緊張します」
「わかる」
レオンが答える。
エリシアは手帳を胸に抱えた。
「今日の共有です。普通に話せることが嬉しいです。でも、嬉しすぎると距離を忘れそうで怖いです」
フィーネが優しく頷く。
「嬉しさも、距離に影響しますね」
「はい」
ユーリスが言う。
「俺も浮くと距離近くなるタイプだから気をつける」
エリシアが少し笑う。
「ユーリス様は、わかりやすいです」
「褒められた?」
「はい。たぶん」
「たぶんか」
朝の空気に、柔らかい笑いが混ざった。
◆
五人は噴水のそばで、今日の状態を確認した。
フィーネ。
手帳を開かないことを、怠けているように感じそう。
必要な時に書く。
書かない時間も状態。
アルト。
朝の紙片を持ってこなかった。
紙片がなくても考えられるか試したい。
慌てたら言う。
ユーリス。
緊張ではなく普通に眠かった。
油断か日常か判断しづらい。
眠気を隠さない。
エリシア。
普通に話せることが嬉しい。
嬉しすぎて距離を忘れないようにする。
レオン。
今日が少し軽い。
軽いことが怖い。
だが、笑うことを過度に警戒しすぎない。
確認し終えると、レオンは言った。
「今日は、条件を忘れない」
全員が頷く。
「でも、笑うことを禁止しない」
ユーリスが笑う。
「いいね、それ」
フィーネも微笑む。
「はい」
アルトも。
「笑うことを禁止しない」
エリシアも静かに頷いた。
「大切ですね」
◆
東棟へ向かう道は、久しぶりに本当に普通の朝に近かった。
生徒たちは課題の話をしている。
昨夜の食堂の味の話をしている。
誰かが寝坊しかけたと騒いでいる。
誰かが教師の小テストを恐れている。
そこに第五班が通っても、視線は向くが、重くはない。
声をかける者もいる。
「おはよう」
「今日、演習あるんだっけ」
「第五班、普通に授業戻ったな」
「ユーリス、眠そうじゃない?」
「眠そうだぞ」
「普通だな」
普通だな。
ユーリスが小さく笑う。
「俺、今日の普通代表みたいになってる」
「眠気代表だろ」
レオンが言うと、ユーリスは肩をすくめた。
「厳しい補正だな」
「受け取るか?」
「保留する」
フィーネが思わず笑った。
アルトも笑う。
エリシアも口元に手を当てて笑った。
廊下で笑う。
小さく。
騒ぎすぎず。
でも、確かに。
レオンはその笑いを聞きながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
条件を抱えたままでも、笑える。
◆
教室に入ると、カイル・ローダンがこちらを見た。
いつも通り本を持っている。
ハルト・グレイナーは窓際で腕を組んでいた。
ユーリスが手を上げる。
「おはよう、観察者二名」
「またそれか」
ハルトが眉を寄せる。
カイルは淡々と返す。
「観察はしている」
「認めるのかよ」
ユーリスが笑う。
カイルはレオンたちを見て言った。
「今日は少し空気が軽いな」
「ああ」
レオンは答える。
「悪い軽さではない」
カイルは言う。
「ただし、軽さが続くと条件を忘れる可能性がある」
「わかっている」
ハルトがユーリスを見る。
「眠そうだな」
「普通に眠い」
「授業中に寝るなよ」
「補正として受け取る。でも言い方は雑」
ユーリスが言うと、ハルトが少し目を細める。
「お前が使うな」
フィーネが笑いをこらえる。
アルトは肩を震わせている。
レオンも少し笑った。
カイルが言う。
「今のは日常化している」
「どういう意味だ」
ユーリスが聞く。
「補正を特別な儀式にせず、会話の中で扱えている」
カイルは本を閉じる。
「良い傾向だ」
ユーリスは少し照れたように頭をかいた。
「カイルに褒められると落ち着かないな」
「褒めたのは傾向だ」
「人じゃないのかよ」
「人も含む」
「ややこしい」
また、少し笑いが生まれた。
◆
一限目。
教師は教室に入ると、黒板へ文字を書いた。
日常回復。
教室が静まる。
教師は生徒たちを見回し、淡々と言った。
「関係各家の返答、および学園側の正式共有が終わり、第五班は通常活動を継続する段階に入った」
その言葉は、昨日よりも少し日常の中に溶けて聞こえた。
「本日の主題は、日常回復である」
黒板に追加される。
緊張。
安堵。
軽さ。
反動。
「長期間の緊張状態を越えた後、人は反動を受ける。過度に気が抜ける者もいれば、気を抜くことを恐れる者もいる」
フィーネが少し頷く。
アルトも。
ユーリスは眠そうな顔を自覚したのか、背筋を伸ばした。
「ヴォルツ」
「はい」
レオンは立ち上がる。
「日常回復において、第五班が注意すべきことは何だ」
レオンは答えた。
「軽くなることを禁止しないことです」
教師は続きを待つ。
「条件や継続観察を忘れてはいけません。でも、常に重い顔でいることが責任ではありません」
一拍。
「笑うことや、少し気が抜けることも、日常へ戻るために必要です。ただし、その軽さで条件を忘れそうになったら共有します」
教師は頷いた。
「良い」
そして教室全体へ言った。
「責任とは、常に緊張した表情でいることではない。必要な時に思い出せる状態を保つことだ」
必要な時に思い出せる状態。
その言葉を、フィーネが今日は少し遅れて手帳に書いた。
書かなければ、と焦っていない。
必要だから書いている。
その変化が、レオンには見えた。
◆
午前の演習は、日常回復用の軽い課題だった。
標識一つ。
魔法人形一体。
障害壁なし。
護送対象なし。
久しぶりに、かなり単純な課題だった。
教師は言った。
「今日は速さや完成度ではなく、通常の会話と通常の判断を見る。過剰に意味をつけるな」
過剰に意味をつけるな。
それだけで、第五班全員が少し苦笑した。
最近は、すべてに意味をつけてきた。
それが必要な時期だった。
だが、今日は違う。
鐘が鳴る。
フィーネが報告する。
「敵、正面一。標識、奥。状態、報告を短くします」
レオンが指示する。
「俺前衛。ユーリス標識。アルト支援なし。フィーネ距離」
「はい」
「了解」
「はい」
ユーリスが走る。
途中で少し眠そうに首を振った。
「眠い。けど走れる」
アルトが思わず笑う。
「支援なしで大丈夫です」
フィーネも少し笑う。
「標識まで三歩」
レオンは前衛型を受け流す。
大きな緊張はない。
だが、気を抜きすぎてもいない。
ユーリスが標識を取り、台座へ置く。
鐘が鳴った。
短い。
本当に短い演習。
教師が近づく。
「評価、良」
いつもの良。
教師は続ける。
「日常回復として良。大きな崩れも、大きな成果もない。通常課題を通常として終えた」
大きな成果もない。
それを聞いて、アルトが少しだけ笑った。
以前なら、上でないことに不安を感じたかもしれない。
今は違う。
今日の良は、普通の良だ。
教師は最後に言った。
「普通の良を軽く扱うな。日常は、その積み重ねでできる」
普通の良。
レオンはその言葉を手帳へ書いた。
◆
昼休み。
食堂は賑やかだった。
試験前でもなく、大きな行事前でもない。
生徒たちは好きな席に座り、食事を取り、笑っている。
第五班も、いつもの席に座った。
エリシアは少し離れた席にいる。
カイルとハルトも、それぞれ別の場所で食事を取っている。
近すぎず。
遠すぎず。
見える位置にいる。
アルトが食事を前にして言った。
「今日、久しぶりに味がします」
フィーネが笑う。
「昨日まで味が薄かったですからね」
ユーリスがパンを頬張りながら言う。
「俺は昨日も味した」
「昨日は味が薄いと言っていた」
レオンが指摘すると、ユーリスは目を逸らした。
「細かいな」
「事実だ」
「補正?」
「記録確認だ」
フィーネが笑い、アルトも笑った。
ユーリスは肩をすくめる。
「レオン、だいぶ会話が柔らかくなったな」
「そうか」
「前なら“事実だ”で終わってた」
「今も言った」
「でも顔が違う」
レオンは少しだけ黙る。
フィーネも微笑んでいる。
アルトも頷いている。
「そうか」
レオンは小さく答えた。
自分ではわからない。
だが、そう見えるのなら、少しは変わったのかもしれない。
◆
食事の途中で、エリシアが一度こちらへ来た。
長くはない。
距離を保ち、少しだけ話す。
「皆様、今日の演習はいかがでしたか」
「普通の良だった」
レオンが答える。
「普通の良」
エリシアは微笑む。
「素敵ですね」
ユーリスが笑う。
「素敵か?」
「はい。普通を良いものとして受け取れるのは、素敵だと思います」
フィーネが手帳を開きかけ、少し考えて閉じた。
レオンはそれに気づいた。
「書かないのか」
フィーネは少し照れたように笑う。
「今は、聞いていたいので」
その言葉に、アルトが目を細める。
「いいですね」
エリシアも頷く。
「はい」
フィーネは手帳を閉じたまま、エリシアの言葉を胸で受け取った。
書かないことも、受け取り方の一つ。
その小さな変化が、今日の昼の光の中で静かに光った。
◆
放課後。
中庭には、自然と人が集まった。
第五班。
エリシア。
カイル。
ハルト。
誰が呼んだわけでもない。
ただ、いつもの場所に、いつものように。
噴水の水音が、夕方の空気の中でやわらかく響いている。
ユーリスが腕を伸ばす。
「あー、今日は平和だった」
ハルトが即座に言う。
「油断するな」
「早い」
「言うと思った」
ユーリスが笑う。
カイルは静かに言う。
「平和だった、という状態共有は悪くない」
「ほら、カイルはわかってる」
「ただし、平和だったから明日も平和とは限らない」
「結局そっちか」
また笑いが起きる。
フィーネが言う。
「でも、今日は平和だったと言えるのは、嬉しいです」
アルトも頷く。
「はい。大きな封書も、呼び出しもありませんでした」
エリシアが微笑む。
「普通に授業を受けて、普通に食事をして、普通に中庭へ来ました」
レオンはその言葉を受け取る。
普通に。
何度も繰り返してきた言葉。
今日は、その普通に少し笑いが混ざっている。
レオンは噴水を見る。
「条件は残っている」
「はい」
フィーネが頷く。
「継続観察もある」
アルトも。
「次回定期報告もあります」
ユーリスも。
「距離も気をつける」
エリシアも。
「対人距離、学業、判断」
カイルも。
「責任と補正」
ハルトも短く言う。
「逃げないこと」
レオンは頷いた。
「全部ある」
一拍。
「でも、今日は笑えた」
その言葉に、皆が少し黙った。
そして、静かに頷いた。
条件を消したわけではない。
忘れたわけでもない。
それでも笑えた。
そのことが、今日の一番大きな成果だった。
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは手帳を開いた。
第七十八話。
条件を抱えたまま笑う練習。
朝。
特別な封書が届く日でもない。
公開評価課題の日でもない。
家からの返答を待つだけの日でもない。
ただの朝。
条件を抱えたまま笑うには、笑ってもいいと自分に許す練習がいる。
忘れるのではなく、抱えたまま軽くなる。
今日は、笑う練習の日。
ずっと重い顔だけをしていることが責任ではない。
責任を持ったまま、少し笑う。
廊下。
第五班らしい。
完全ではない。
崩れる。
でも戻る。
条件を抱えたまま続く。
少し軽い。
軽いことが少し怖い。
中庭。
フィーネ。
手帳を開かずに待ってみた。
少し落ち着かない。
でも開かなくても大丈夫だった。
手帳を開かないことを怠けているように感じそう。
書かない時間も状態。
必要な時に書けばいい。
今書かないことも選択。
アルト。
朝の支援紙片を持ってこなかった。
紙片がないと支援できない気がして怖い。
でも、紙片がなくても必要になったら考えられるか試したい。
慌てたら言う。
ユーリス。
普通に寝坊しかけた。
緊張ではなく、普通に眠かった。
油断か日常か判断しづらい。
眠気を隠さない。
日常。
エリシア。
普通に話せることが嬉しい。
嬉しすぎると距離を忘れそうで怖い。
嬉しさも距離に影響する。
ユーリス様はわかりやすい。
朝に柔らかい笑い。
確認。
条件を忘れない。
でも、笑うことを禁止しない。
東棟への道。
普通だな。
ユーリス、眠気代表。
厳しい補正。
受け取るか。
保留する。
廊下で笑う。
条件を抱えたままでも、笑える。
教室。
カイル、今日は少し空気が軽い。
悪い軽さではない。
ただし軽さが続くと条件を忘れる可能性がある。
ハルト、授業中に寝るなよ。
ユーリス、補正として受け取る。でも言い方は雑。
ハルト、お前が使うな。
カイル、今のは日常化している。
補正を特別な儀式にせず、会話の中で扱えている。
良い傾向。
講義。
日常回復。
長期間の緊張状態を越えた後、人は反動を受ける。
過度に気が抜ける者もいれば、気を抜くことを恐れる者もいる。
日常回復で注意すべきこと。
軽くなることを禁止しないこと。
条件や継続観察を忘れてはいけない。
でも常に重い顔でいることが責任ではない。
笑うことや、少し気が抜けることも、日常へ戻るために必要。
ただし、その軽さで条件を忘れそうになったら共有する。
責任とは、常に緊張した表情でいることではない。
必要な時に思い出せる状態を保つこと。
午前演習。
日常回復用の軽い課題。
標識一つ。
魔法人形一体。
障害なし。
護送なし。
速さや完成度ではなく、通常の会話と通常の判断を見る。
過剰に意味をつけるな。
フィーネ、報告を短くします。
レオン、俺前衛。ユーリス標識。アルト支援なし。フィーネ距離。
ユーリス、眠い。けど走れる。
アルト、支援なしで大丈夫。
標識設置。
評価、良。
日常回復として良。
大きな崩れも、大きな成果もない。
通常課題を通常として終えた。
普通の良を軽く扱うな。
日常は、その積み重ねでできる。
昼。
食堂。
アルト、久しぶりに味がする。
ユーリス、昨日も味した。
レオン、昨日は味が薄いと言っていた。
記録確認。
レオン、会話が柔らかくなった。
前なら事実だで終わっていた。
今も言った。
でも顔が違う。
少し変わったのかもしれない。
エリシア。
普通の良は素敵。
普通を良いものとして受け取れるのは素敵。
フィーネ、手帳を開きかけて閉じる。
今は聞いていたいので。
書かないことも受け取り方の一つ。
放課後。
中庭。
第五班、エリシア、カイル、ハルト。
今日は平和だった。
平和だったという状態共有は悪くない。
ただし明日も平和とは限らない。
普通に授業を受けて、普通に食事をして、普通に中庭へ来た。
条件は残っている。
継続観察。
次回定期報告。
距離。
対人距離、学業、判断。
責任と補正。
逃げないこと。
全部ある。
でも、今日は笑えた。
条件を消したわけではない。
忘れたわけでもない。
それでも笑えた。
今日の一番大きな成果。
レオンはペンを止めた。
今日は、何も大きなことは起こらなかった。
封書も来なかった。
呼び出しもなかった。
公開評価もなかった。
大きな敵も、大きな障害もなかった。
それでも、今日は大事な日だった。
条件を抱えたまま、笑えた日。
手帳を開かない時間があった。
紙片を持たない朝があった。
普通に眠いと言える朝があった。
距離を忘れずに、でも嬉しそうに話せる時間があった。
廊下で笑った。
食堂で味がした。
中庭で、今日は平和だったと言えた。
そんな小さなことが、今はとても大きい。
責任とは、常に緊張した表情でいることではない。
必要な時に思い出せる状態を保つこと。
教師の言葉が、胸に残っている。
条件を忘れない。
でも、笑うことを禁止しない。
それが今日、少しだけできた。
レオンは最後に一行を書く。
条件を抱えたまま笑う練習。
その下に、もう一行。
重さを消さず、軽さを拒まず、その両方を持って笑えた時、第五班の日常は少しだけ戻ってくる。
ペンを置く。
窓の外は夜だった。
星が見える。
穏やかな夜だ。
明日も、きっと普通の日になる。
そう思いたい。
だが、普通の日が続く保証はない。
それでも、今日笑えたことは消えない。
普通の良。
日常回復の良。
平和だったという状態共有。
それらを、今日の記録として受け取る。
レオンは手帳を閉じた。
灯りを落とす。
暗闇の中で、噴水の水音を思い出す。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
水は、重さを持って落ちる。
けれど、落ちた先で跳ねる。
重いままでも、軽く跳ねることはできる。
第五班も、そうやって。
条件を抱えたまま。
少しずつ、笑う練習をしていく。




