第七十六話
翌朝。
王立グランセル魔導学園の空は、淡い青をしていた。
雲は少ない。
昨日よりも空は高く、朝日は校舎の石壁を柔らかく照らしている。
尖塔の影はまっすぐ中庭へ伸び、芝の上に細い線を引いていた。
夜露はまだ残っている。
小さな雫が、朝の光を受けて静かに光る。
風は穏やかだった。
冷たすぎず、温かすぎず、制服の袖をほんの少し揺らす程度。
噴水の水音は、今日も変わらなかった。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
その音を胸の奥で聞きながら、レオン・ヴォルツは寮の部屋で手帳を開いていた。
昨夜の最後の一文。
ならば俺は、判断責任を捨てず、第五班の声を受け取る器量を、これからの行動で答えていく。
ヴォルツ家からの再判断返答。
即時解消ではない。
正式承認ではない。
学園内における教育的協力関係として、継続観察を認める。
次回定期報告までは、第五班の通常活動継続に異議なし。
ただし、過度な依存および責任回避が生じないよう、学園側の監督を求める。
そして。
レオン・ヴォルツには、今後も家名を背負う者として、自身の判断責任を放棄せず、同時に他者の補正を受け取る器量を求める。
何度読み返しても、胸に残るのはその一文だった。
他者の補正を受け取る器量。
父は、許したわけではない。
認めたわけでもない。
だが、切らなかった。
そして、問いを置いた。
お前は、本当にそれができるのか。
責任を捨てずに。
他者の言葉を受け取り。
中心に立ちながら、分けることができるのか。
その問いに、昨日の時点で答えられるはずがない。
公開評価課題で一度示した。
だが、父はその一度だけで正式承認とはしなかった。
当然だ。
日々の中で続けられるか。
通常活動の中で、過度な依存にも責任回避にもならず、協力関係として機能し続けるか。
それが問われている。
レオンは手帳に今日の最初の一文を書いた。
問いに答える日は、昨日ではなく今日から始まる。
その下に、もう一行。
切られなかった安堵に甘えず、問われた重さで固まりすぎず、いつもの一歩を踏む。
ペンを置く。
手は昨日より震えていない。
だが、完全に落ち着いているわけでもない。
胸の奥に、静かな重りがある。
安堵。
怖さ。
責任。
そして、少しの熱。
父は問いを置いた。
なら、逃げない。
今日から答えていく。
手帳を鞄に入れ、レオンは制服の襟を整えた。
灰色の布が肩に乗る。
鏡の中の自分を見る。
昨日のような青ざめた硬さはない。
けれど、目は真剣だった。
今日も中庭へ行く。
フィーネがいる。
アルトがいる。
ユーリスがいる。
エリシアも、きっと来る。
その場所から、今日の答えを始める。
◆
寮の廊下へ出ると、空気は昨日より明るかった。
ヴォルツ家の返答が届いたことは、必要範囲で学園内に共有されているらしい。
すれ違う生徒たちの声は、昨日までの張り詰めたものではなく、少し緩んだものだった。
「ヴォルツ家、即時解消じゃなかったんだろ」
「正式承認じゃないけど、通常活動継続に異議なしって」
「継続観察か」
「でも切られなかったのは大きいよな」
「他者の補正を受け取る器量って言葉、すごいな」
「ヴォルツ家らしい硬さだな」
「でも、ちゃんと読んでる感じする」
ちゃんと読んでいる。
昨日、ユーリスが言った言葉。
それを別の生徒の口から聞いて、レオンは少しだけ足を緩めた。
父の返答は、厳しかった。
だが、雑ではなかった。
学園の生徒たちにも、その硬さと誠実さが少し伝わっているのかもしれない。
ただ、それを受け取るのは簡単ではない。
レオンは歩きながら、心の中で確認する。
事実。
通常活動継続に異議なし。
正式承認ではない。
継続観察。
監督あり。
問いは残る。
状態。
安堵している。
でも、問われた重さがある。
行動。
今日の第五班として動く。
◆
中庭には、フィーネ・ルークがいた。
噴水のそば。
彼女は手帳を開いていたが、書いてはいなかった。
ただ、ページを見つめている。
レオンが近づくと、フィーネはすぐに顔を上げた。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
フィーネの表情は、昨日より穏やかだった。
だが、その目にはまだ緊張がある。
「昨日の返答、何度も思い出しました」
「俺もだ」
「即時解消ではない」
「ああ」
「通常活動継続に異議なし」
「ああ」
「でも、正式承認ではない」
「そうだ」
フィーネは深く息を吐いた。
「今日の共有です。嬉しいです。でも、レオンさんに対して何か言うたびに、“補正を受け取る器量”という言葉を意識しすぎそうです」
「どういうことだ」
「私の言葉が、レオンさんを支えるものなのか、負担を増やすものなのか、考えすぎてしまいそうで」
レオンは静かに頷いた。
それは、あり得る。
父の言葉はレオンだけでなく、第五班全員に影響している。
他者の補正を受け取る器量。
その“他者”側も、自分たちの言葉を意識しすぎるかもしれない。
「良い共有だ」
レオンは言った。
「フィーネの言葉がすべて正しくなければいけないわけじゃない」
フィーネが顔を上げる。
「俺が受け取るか、判断する責任を持つ。だから、言葉を完璧にしようとしすぎなくていい」
フィーネは少し目を揺らし、それから頷いた。
「はい」
手帳に書く。
補正する側も完璧でなくていい。
受け取る側にも判断責任がある。
◆
アルト・レイヴンは、少し緊張した顔で来た。
しかし、昨日の泣きそうな顔ではない。
目元に疲れはあるが、表情には静かな強さがあった。
「おはようございます」
「ああ」
「おはようございます、アルトさん」
アルトは二人を見ると、すぐに言った。
「俺、昨日の“他者の補正”って言葉が、ずっと頭から離れません」
「俺もだ」
「嬉しかったです」
アルトは胸に手を当てる。
「俺たちの支援や言葉が、迷惑じゃないって言われた気がして」
一拍。
「でも、今日の共有です。俺、補正しなきゃって思いすぎて、レオンさんの全部を見張ろうとするかもしれません」
フィーネが少し目を開く。
レオンも、静かに受け取る。
「見張る」
「はい。レオンさんが一人で背負わないように、家へ飛ばないように、責任を抱え込みすぎないように……全部見てなきゃって」
アルトは手帳を握る。
「でも、それだと支えるじゃなくて、見張るになる気がします」
レオンは頷いた。
「良い共有だ」
アルトの支援は、優しい。
だが、その優しさが過剰になると、監視に近くなる。
それもまた、過度な依存や責任回避の反対側にある危うさかもしれない。
「全部見なくていい」
レオンは言った。
「見えた時に言ってくれればいい」
アルトは小さく息を吐いた。
「はい」
「俺も、自分で言う」
「はい」
アルトは書いた。
補正は見張りではない。
見えた時に言う。
全部を見ようとしない。
◆
ユーリス・ベルクは、今日は少し軽い顔で来た。
昨日の緊張が少し抜けたのだろう。
ただ、その軽さの中に、妙な慎重さもある。
「おはよう」
「ああ」
「おはようございます」
「おはようございます、ユーリスさん」
ユーリスは噴水の縁に片手を置き、ふっと息を吐いた。
「昨日の返答、硬すぎて三回くらい頭の中で噛んだ」
フィーネが少し笑う。
「わかります」
アルトも頷く。
「俺もです」
ユーリスはレオンを見る。
「でもさ、あの言葉、結構すごいよな」
「他者の補正を受け取る器量か」
「それ」
ユーリスは頷く。
「俺、今までレオンに軽口言う時、たまに“言いすぎかな”って思うことあったんだよ」
「そうなのか」
「あるよ。あるに決まってるだろ」
ユーリスは少し照れたように視線を逸らす。
「でも昨日の返答聞いて、俺の軽口も補正になる時があるのかなって思った」
「ある」
レオンは即答した。
ユーリスが少し驚く。
「あるのか」
「ああ」
「じゃあ今日の共有」
ユーリスは少し真面目な顔になる。
「軽口を補正だって言い訳にして、言いすぎるかもしれない」
フィーネが少し吹き出しそうになり、すぐ抑える。
アルトも笑いかける。
だが、内容は大事だった。
レオンも少し笑いながら頷いた。
「良い共有だ」
「だろ」
「言いすぎたら言う」
「頼む」
ユーリスは手帳ではなく、小さな紙片を出して書いた。
軽口は補正になる時もある。
でも言い訳にしない。
◆
少し遅れて、エリシア・フォン・ローゼンベルクが来た。
今日は表情が柔らかい。
ローゼンベルク家の返答と、ヴォルツ家の返答。
二つが一段落したことが、彼女の肩から少し重さを降ろしたのだろう。
それでも、完全に晴れた顔ではなかった。
「おはようございます」
「おはようございます、エリシア様」
フィーネが返す。
レオンも頷く。
「ああ。おはよう」
エリシアは四人を見て、静かに言った。
「昨日は、よかったです」
「ああ」
レオンは答える。
「でも、まだ終わりではありませんね」
「そうだ」
「継続観察。次回定期報告まで。監督付き」
「ああ」
エリシアは手帳を胸に抱える。
「今日の共有です。よかった、という気持ちが強いです。でも、そのよかったで、これからの条件を軽く見ないようにしたいです」
「良い共有だ」
レオンは頷いた。
エリシアは続ける。
「私の家も、レオン様の家も、完全な自由を出したわけではありません。けれど、通常交流と通常活動は続けられます」
一拍。
「だからこそ、普通を丁寧にしたいです」
普通を丁寧にする。
その言葉は、今日の朝にふさわしかった。
◆
五人は噴水のそばで、今日の状態を確認した。
フィーネ。
補正する側として、言葉を完璧にしようとしすぎるかもしれない。
アルト。
補正しなきゃと思いすぎて、レオンを見張ろうとするかもしれない。
ユーリス。
軽口を補正と言い訳にして、言いすぎるかもしれない。
エリシア。
よかったという安堵で、条件を軽く見ないようにしたい。
レオン。
他者の補正を受け取る器量という言葉を意識しすぎて、何でも受け取らなければならないと思うかもしれない。
確認し終えると、レオンは言った。
「補正は、命令じゃない」
フィーネが頷く。
「はい」
「支援は、監視じゃない」
アルトも頷く。
「はい」
「軽口は、言い訳じゃない」
ユーリスが苦笑する。
「はい」
「安堵は、条件の忘却じゃない」
エリシアも頷く。
「はい」
最後にレオンは、自分へ言うように続けた。
「受け取る器量は、全部を飲み込むことじゃない」
静かな朝の中で、その言葉が噴水の水音に混ざった。
◆
東棟へ向かう道では、昨日までとは違う視線があった。
好奇心。
安堵。
少しの敬意。
そして、落ち着いた見守り。
生徒たちは第五班を見ても、大声では騒がない。
ただ、小さく言葉を交わしている。
「第五班、続くんだな」
「正式承認ではないけど、活動継続」
「継続観察って大変そうだけど」
「でも切られなかったのは大きい」
「補正を受け取る器量って、なんか学園っぽい言葉になりそう」
「いや、ヴォルツ家の言葉だろ」
「でも、いい言葉だよな」
補正を受け取る器量。
その言葉が、もう生徒たちの間にも広がっている。
少し恥ずかしい。
だが、嫌ではない。
フィーネが小さく言う。
「言葉が広がっていますね」
「ああ」
アルトも。
「俺たちだけの言葉じゃなくなってる感じがします」
ユーリスが笑う。
「そのうち講義で出るぞ」
エリシアが微笑む。
「もう出そうですね」
レオンは静かに歩きながら、胸の中でその言葉を受け止めた。
父の問いが、学園の日常に少しずつ溶けていく。
それは不思議な感覚だった。
◆
教室に入ると、カイル・ローダンが本を閉じた。
ハルト・グレイナーは腕を組んで窓際に立っている。
レオンたちが席へ向かうと、カイルが静かに言った。
「ヴォルツ家の返答は、厳しいが良い返答だった」
「ああ」
レオンは頷く。
「ただし、今日からが本題だ」
「わかっている」
「本当にわかっているか」
カイルは淡々と問いかける。
レオンは少し考え、答えた。
「昨日の返答を守ろうとして、また形にしすぎる危険がある」
「そうだ」
カイルは頷いた。
「“補正を受け取る器量”という言葉は強い。だからこそ、第五班はそれを演じようとする危険がある」
フィーネが手帳を開く。
「演じる……」
「補正を受け取っているように見せる。支援しているように見せる。依存していないように見せる。責任回避していないように見せる」
カイルは一つずつ言う。
「見せようとした瞬間、また本質からずれる」
ハルトが低く言った。
「昨日と同じだ。見せるな。やれ」
短い。
しかし、深い。
ユーリスが小さく笑う。
「ハルト、今日もわかりやすい」
「うるさい」
レオンは手帳へ書いた。
補正を受け取る器量を演じない。
見せるな。
やれ。
◆
一限目。
教師は黒板へ文字を書いた。
問いへの日常回答。
教室が静まり返る。
「昨日、ヴォルツ家より再判断返答が届いた」
教師は言った。
「第五班の通常活動継続に異議なし。ただし、正式承認ではなく、継続観察。監督付きである」
生徒たちは静かに聞いている。
「返答の中で重要な一文があった」
黒板に書かれる。
判断責任を放棄せず、他者の補正を受け取る器量。
その文字が黒板に現れた瞬間、教室の空気が少し変わった。
レオンは胸の奥が熱くなるのを感じた。
教師は続ける。
「これは、第五班だけの課題ではない。協力関係にある者すべてに関わる」
一拍。
「他者の補正を受け取ることは、責任を捨てることではない。また、補正する側が相手を支配することでもない」
黒板にさらに書かれる。
責任。
補正。
選択。
「ヴォルツ」
「はい」
レオンは立ち上がる。
「今日から第五班が避けるべきことは何だ」
レオンは答えた。
「補正を受け取る器量を、形として演じることです」
教師は続きを待つ。
「父の返答は、問いでした。俺が今後、判断責任を放棄せず、他者の補正を受け取れるかを問われています」
一拍。
「だからといって、全ての言葉を受け入れればいいわけではありません。受け取るかどうかも判断する責任があります。また、班員の言葉も、完璧な補正である必要はありません」
教師は頷いた。
「良い」
レオンは続ける。
「第五班が今日からするべきことは、昨日の返答を見せることではなく、普段の中で、必要な時に言い、必要な時に受け取り、必要な時に選ぶことです」
教師は静かに頷いた。
「良い回答だ」
そして全体へ言った。
「強い言葉ほど、演技になりやすい。演じるな。日常に落とせ」
◆
午前の演習は、通常課題だった。
公開評価のような複雑なものではない。
標識二つ。
魔法人形二体。
障害壁一つ。
護送対象なし。
だが、今日の目的は、通常課題の中で補正と判断を自然に扱うことだった。
教師は言った。
「本日は、特別な公開評価ではない。通常演習である。第五班は、昨日の返答を意識しすぎず、必要な共有を行え」
鐘が鳴る。
フィーネが報告する。
「敵、正面前衛、右軽量。障害、中央。標識、奥と右奥。状態、報告を完璧にしようとしました。項目で戻します」
レオンが頷く。
「確認。ユーリス右奥。アルト右軽量。俺前衛。フィーネ障害」
「はい」
「了解」
「はい」
アルトが土を出す。
右軽量を止める。
少し低い。
慎重すぎる。
アルトがすぐ言う。
「見張りすぎて支援が弱くなりました。必要量へ上げます」
土が少し高くなる。
ちょうどいい。
ユーリスが走る。
「軽口言おうとして、補正って言い訳にしそうでした。今は走る」
フィーネが少し笑いながら報告する。
「右奥標識、ユーリスさん接近。中央障害、起動気配」
レオンは前衛型を受ける。
フィーネの報告。
アルトの支援。
ユーリスの声。
全部受け取らなければ。
そう思いかけた瞬間、自分で言う。
「全部受け取ろうとしました。必要分を選びます。障害優先」
フィーネが即座に補足する。
「中央障害、起動。奥標識への直進不可」
レオンが指示する。
「左回り。ユーリス、右奥継続。アルト、軽量維持」
「了解!」
「はい!」
課題は大きく崩れなかった。
ただ、小さな揺れがいくつもあった。
フィーネは報告を完璧にしようとした。
アルトは見張りすぎて支援が弱くなった。
ユーリスは軽口を言い訳にしそうになった。
レオンは全部受け取ろうとした。
そのたびに言った。
戻した。
標識二本を回収し、台座へ置く。
鐘が鳴った。
◆
教師が近づいてくる。
「第五班、評価、良」
上ではない。
だが、今日の良は必要だった。
「通常演習として良。大きな成果を示す場ではない。昨日の返答に引かれた小さな硬さを、各員が言語化した」
教師はレオンを見る。
「ヴォルツ。全ての補正を受け取ろうとしたな」
「はい」
「それは器量ではない。判断放棄に近づく」
胸に刺さる。
だが、必要な指摘だった。
「はい」
教師は続ける。
「補正を受け取るとは、全てを飲み込むことではない。必要なものを選び、不要なものを保留し、誤ったものは退けることも含む」
「はい」
「第五班全員に言う。補正する側も、相手を正そうとしすぎるな。言葉を渡すことと、相手を操作することは違う」
フィーネとアルトとユーリスが頷く。
「今日の良は、日常へ落とす良だ」
日常へ落とす良。
レオンはその言葉を胸に置いた。
◆
昼休み。
食堂の空気は、穏やかだった。
ローゼンベルク家とヴォルツ家。
二つの家からの返答が一段落したことで、学園全体にも少し安心が広がっている。
もちろん、継続観察や条件は残っている。
だが、第五班が即時解消されないことは、周囲にも伝わっていた。
「第五班、続くんだな」
「よかったな」
「正式承認じゃないけどな」
「でも、通常活動継続って大きいだろ」
「次回定期報告まで、か」
「それでも前進だよ」
前進。
その言葉を聞いて、アルトが少し笑った。
「前進、なんですね」
「そうだな」
レオンは答える。
ユーリスがパンをちぎりながら言う。
「完全勝利じゃないけど、前進」
フィーネが微笑む。
「私たちらしいですね」
「完全じゃないけど進む」
ユーリスが笑う。
「それ、第五班の説明っぽいな」
レオンも少しだけ口元を緩めた。
完全じゃない。
でも進む。
確かに、今の第五班らしい。
◆
放課後。
中庭には、エリシアがいた。
今日は輪の距離が自然だった。
昨日より近すぎず。
遠すぎず。
普通に立てている。
フィーネが言う。
「今日は、普通に話せている感じがします」
エリシアが微笑む。
「はい。少しだけ」
アルトも頷く。
「昨日は、距離を考えすぎました」
ユーリスが笑う。
「今日は、考えすぎをちょっとやめた」
「それも普通ですね」
エリシアが言う。
レオンはその様子を見て、胸が少し温かくなる。
普通。
昨日まで何度も難しいと言ってきた普通。
それが少しだけ戻ってきている。
ただし、以前の普通ではない。
何も知らない普通ではない。
尊重。
条件。
継続観察。
補正を受け取る器量。
そういう言葉を抱えた上での普通。
それでも、普通だった。
エリシアがレオンを見る。
「今日の演習は、どうでしたか」
「良だった」
「上ではなく?」
「ああ」
レオンは頷く。
「日常へ落とす良、だそうだ」
エリシアは少し考え、それから微笑んだ。
「良い言葉ですね」
「そうだな」
フィーネが手帳を開く。
「日常へ落とす良」
アルトも。
「完全じゃないけど進む」
ユーリスも。
「普通に話す」
エリシアも手帳へ書く。
「条件を抱えた普通」
それぞれが書く言葉は違う。
だが、同じ方向を向いていた。
◆
その時、少し離れた場所からカイルとハルトが歩いてきた。
カイルはいつものように静かで、ハルトは相変わらず腕を組んでいる。
ユーリスが手を上げる。
「お、観察者二名」
「勝手に呼ぶな」
ハルトが不機嫌そうに返す。
カイルはレオンを見る。
「今日の演習は良だったと聞いた」
「ああ」
「良でよかった」
その言葉に、アルトが少し驚く。
「上じゃなくても、ですか」
「今日は上を出す必要はない」
カイルは淡々と答える。
「昨日の返答を受けて、日常演習で過剰に力むことなく良を取れたなら十分だ」
ハルトも言う。
「毎日上を狙うな。疲れる」
ユーリスが笑う。
「実感こもってるな」
「うるさい」
ハルトはレオンを見る。
「お前、全部受け取ろうとしたらしいな」
「ああ」
「馬鹿か」
「そうだな」
レオンは素直に頷いた。
ハルトは少しだけ目を細める。
「素直すぎるのも変だな」
「補正を受け取った」
「全部受け取るなって話だろ」
ユーリスが笑う。
「今のも補正だな」
レオンは少しだけ笑った。
「受け取る。ただし、言い方は雑だと判断する」
ハルトが一瞬黙り、それから視線を逸らした。
「……それでいい」
カイルが小さく頷いた。
「今のは、良い例だ」
フィーネがすぐ手帳に書いた。
受け取る。
でも、言い方は雑だと判断する。
ユーリスが笑いをこらえきれず、肩を震わせた。
中庭に、久しぶりに軽い笑いが広がった。
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは手帳を開いた。
第七十六話。
問いに答える日は、昨日ではなく今日から始まる。
朝。
ヴォルツ家再判断返答の翌日。
即時解消ではない。
正式承認ではない。
教育的協力関係として継続観察を認める。
次回定期報告までは通常活動継続に異議なし。
他者の補正を受け取る器量。
父は許可したわけではない。
認めたわけでもない。
だが、切らなかった。
そして問いを置いた。
問いに答える日は、昨日ではなく今日から始まる。
切られなかった安堵に甘えず、問われた重さで固まりすぎず、いつもの一歩を踏む。
中庭。
フィーネ。
補正する側として、言葉を完璧にしようとしすぎるかもしれない。
補正する側も完璧でなくていい。
受け取る側にも判断責任がある。
アルト。
補正しなきゃと思いすぎて、レオンを見張ろうとするかもしれない。
補正は見張りではない。
見えた時に言う。
全部を見ようとしない。
ユーリス。
軽口も補正になる時があるかもしれない。
でも軽口を補正だと言い訳にして言いすぎるかもしれない。
軽口は補正になる時もある。
でも言い訳にしない。
エリシア。
よかったという気持ちが強い。
でも、そのよかったで条件を軽く見ないようにしたい。
普通を丁寧にしたい。
レオン。
他者の補正を受け取る器量を意識しすぎて、何でも受け取らなければならないと思うかもしれない。
補正は命令じゃない。
支援は監視じゃない。
軽口は言い訳じゃない。
安堵は条件の忘却じゃない。
受け取る器量は、全部を飲み込むことじゃない。
教室。
カイル。
ヴォルツ家の返答は厳しいが良い返答。
ただし今日からが本題。
補正を受け取る器量を演じようとする危険がある。
補正を受け取っているように見せる。
支援しているように見せる。
依存していないように見せる。
責任回避していないように見せる。
見せようとした瞬間、本質からずれる。
ハルト。
見せるな。やれ。
講義。
問いへの日常回答。
判断責任を放棄せず、他者の補正を受け取る器量。
他者の補正を受け取ることは、責任を捨てることではない。
補正する側が相手を支配することでもない。
責任。
補正。
選択。
避けるべきこと。
補正を受け取る器量を、形として演じること。
全ての言葉を受け入れればいいわけではない。
受け取るかどうかも判断する責任がある。
班員の言葉も、完璧な補正である必要はない。
昨日の返答を見せることではなく、普段の中で必要な時に言い、必要な時に受け取り、必要な時に選ぶ。
強い言葉ほど、演技になりやすい。
演じるな。日常に落とせ。
午前演習。
通常課題。
標識二つ。
魔法人形二体。
障害壁一つ。
フィーネ、報告を完璧にしようとして項目へ戻す。
アルト、見張りすぎて支援が弱くなる。必要量へ上げる。
ユーリス、軽口を補正の言い訳にしそうになる。今は走る。
レオン、全部受け取ろうとする。必要分を選ぶ。
評価、良。
日常へ落とす良。
補正を受け取るとは、全てを飲み込むことではない。
必要なものを選び、不要なものを保留し、誤ったものは退けることも含む。
補正する側も、相手を正そうとしすぎるな。
言葉を渡すことと、相手を操作することは違う。
昼。
第五班、続く。
正式承認ではない。
でも通常活動継続。
完全勝利ではないけど前進。
完全じゃないけど進む。
第五班らしい。
放課後。
中庭。
普通に話せている感じ。
通常交流。
特別に遠ざけることでも、特別に近づきすぎることでもない。
条件を抱えた普通。
日常へ落とす良。
完全じゃないけど進む。
普通に話す。
カイルとハルト。
今日の良でよかった。
毎日上を狙うな。疲れる。
ハルト、お前全部受け取ろうとしたらしいな。馬鹿か。
レオン、受け取る。ただし、言い方は雑だと判断する。
ハルト、それでいい。
カイル、良い例。
受け取る。
でも、言い方は雑だと判断する。
レオンはペンを止めた。
今日は、上ではなかった。
良だった。
けれど、その良が必要だった。
父の問いを受けて、すぐに完璧な答えを示す必要はない。
むしろ、完璧に見せようとすれば、またずれる。
補正を受け取る器量。
その言葉は強い。
強いからこそ、演じたくなる。
受け取っています。
支えられています。
依存していません。
責任回避していません。
そう見せようとした瞬間、きっと本質から離れる。
今日、レオンは全部を受け取ろうとした。
それは器量ではなかった。
判断放棄に近づく。
教師の言葉が痛かった。
だが、痛いからこそ必要だった。
受け取ることは、飲み込むことではない。
選ぶこと。
保留すること。
退けること。
それも含めて、器量。
ハルトの雑な言葉を受け取りながら、言い方は雑だと判断した。
それでいい、とハルトは言った。
カイルは、良い例だと言った。
小さなことだった。
けれど、父の問いに対する最初の小さな答えだった気がする。
レオンは最後に一行を書く。
問いに答える日は、昨日ではなく今日から始まる。
その下に、もう一行。
補正を受け取る器量とは、全てを飲み込むことではなく、責任を持って選びながら、それでも他者の声を拒まないことだ。
ペンを置く。
窓の外は夜だった。
星が見える。
ローゼンベルク家の返答。
ヴォルツ家の返答。
二つの家の言葉が届き、第五班は続くことになった。
正式承認ではない。
条件もある。
継続観察もある。
次回定期報告もある。
だが、明日も第五班として動ける。
エリシアとも、普通に話せる。
その普通は、以前より少し重く、少し丁寧だ。
レオンは手帳を閉じた。
灯りを落とす。
暗闇の中で、噴水の水音を思い出す。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
問いは、まだ胸にある。
答えは、一度で出すものではない。
明日も、また。
普通の一日の中で、少しずつ答えていく。




