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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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76/81

第七十六話 



 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、淡い青をしていた。


 雲は少ない。


 昨日よりも空は高く、朝日は校舎の石壁を柔らかく照らしている。


 尖塔の影はまっすぐ中庭へ伸び、芝の上に細い線を引いていた。


 夜露はまだ残っている。


 小さな雫が、朝の光を受けて静かに光る。


 風は穏やかだった。


 冷たすぎず、温かすぎず、制服の袖をほんの少し揺らす程度。


 噴水の水音は、今日も変わらなかった。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 その音を胸の奥で聞きながら、レオン・ヴォルツは寮の部屋で手帳を開いていた。


 昨夜の最後の一文。


 ならば俺は、判断責任を捨てず、第五班の声を受け取る器量を、これからの行動で答えていく。


 ヴォルツ家からの再判断返答。


 即時解消ではない。


 正式承認ではない。


 学園内における教育的協力関係として、継続観察を認める。


 次回定期報告までは、第五班の通常活動継続に異議なし。


 ただし、過度な依存および責任回避が生じないよう、学園側の監督を求める。


 そして。


 レオン・ヴォルツには、今後も家名を背負う者として、自身の判断責任を放棄せず、同時に他者の補正を受け取る器量を求める。


 何度読み返しても、胸に残るのはその一文だった。


 他者の補正を受け取る器量。


 父は、許したわけではない。


 認めたわけでもない。


 だが、切らなかった。


 そして、問いを置いた。


 お前は、本当にそれができるのか。


 責任を捨てずに。


 他者の言葉を受け取り。


 中心に立ちながら、分けることができるのか。


 その問いに、昨日の時点で答えられるはずがない。


 公開評価課題で一度示した。


 だが、父はその一度だけで正式承認とはしなかった。


 当然だ。


 日々の中で続けられるか。


 通常活動の中で、過度な依存にも責任回避にもならず、協力関係として機能し続けるか。


 それが問われている。


 レオンは手帳に今日の最初の一文を書いた。


 問いに答える日は、昨日ではなく今日から始まる。


 その下に、もう一行。


 切られなかった安堵に甘えず、問われた重さで固まりすぎず、いつもの一歩を踏む。


 ペンを置く。


 手は昨日より震えていない。


 だが、完全に落ち着いているわけでもない。


 胸の奥に、静かな重りがある。


 安堵。


 怖さ。


 責任。


 そして、少しの熱。


 父は問いを置いた。


 なら、逃げない。


 今日から答えていく。


 手帳を鞄に入れ、レオンは制服の襟を整えた。


 灰色の布が肩に乗る。


 鏡の中の自分を見る。


 昨日のような青ざめた硬さはない。


 けれど、目は真剣だった。


 今日も中庭へ行く。


 フィーネがいる。


 アルトがいる。


 ユーリスがいる。


 エリシアも、きっと来る。


 その場所から、今日の答えを始める。


    ◆


 寮の廊下へ出ると、空気は昨日より明るかった。


 ヴォルツ家の返答が届いたことは、必要範囲で学園内に共有されているらしい。


 すれ違う生徒たちの声は、昨日までの張り詰めたものではなく、少し緩んだものだった。


「ヴォルツ家、即時解消じゃなかったんだろ」

「正式承認じゃないけど、通常活動継続に異議なしって」

「継続観察か」

「でも切られなかったのは大きいよな」

「他者の補正を受け取る器量って言葉、すごいな」

「ヴォルツ家らしい硬さだな」

「でも、ちゃんと読んでる感じする」


 ちゃんと読んでいる。


 昨日、ユーリスが言った言葉。


 それを別の生徒の口から聞いて、レオンは少しだけ足を緩めた。


 父の返答は、厳しかった。


 だが、雑ではなかった。


 学園の生徒たちにも、その硬さと誠実さが少し伝わっているのかもしれない。


 ただ、それを受け取るのは簡単ではない。


 レオンは歩きながら、心の中で確認する。


 事実。


 通常活動継続に異議なし。


 正式承認ではない。


 継続観察。


 監督あり。


 問いは残る。


 状態。


 安堵している。


 でも、問われた重さがある。


 行動。


 今日の第五班として動く。


    ◆


 中庭には、フィーネ・ルークがいた。


 噴水のそば。


 彼女は手帳を開いていたが、書いてはいなかった。


 ただ、ページを見つめている。


 レオンが近づくと、フィーネはすぐに顔を上げた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


 フィーネの表情は、昨日より穏やかだった。


 だが、その目にはまだ緊張がある。


「昨日の返答、何度も思い出しました」


「俺もだ」


「即時解消ではない」


「ああ」


「通常活動継続に異議なし」


「ああ」


「でも、正式承認ではない」


「そうだ」


 フィーネは深く息を吐いた。


「今日の共有です。嬉しいです。でも、レオンさんに対して何か言うたびに、“補正を受け取る器量”という言葉を意識しすぎそうです」


「どういうことだ」


「私の言葉が、レオンさんを支えるものなのか、負担を増やすものなのか、考えすぎてしまいそうで」


 レオンは静かに頷いた。


 それは、あり得る。


 父の言葉はレオンだけでなく、第五班全員に影響している。


 他者の補正を受け取る器量。


 その“他者”側も、自分たちの言葉を意識しすぎるかもしれない。


「良い共有だ」


 レオンは言った。


「フィーネの言葉がすべて正しくなければいけないわけじゃない」


 フィーネが顔を上げる。


「俺が受け取るか、判断する責任を持つ。だから、言葉を完璧にしようとしすぎなくていい」


 フィーネは少し目を揺らし、それから頷いた。


「はい」


 手帳に書く。


 補正する側も完璧でなくていい。

 受け取る側にも判断責任がある。


    ◆


 アルト・レイヴンは、少し緊張した顔で来た。


 しかし、昨日の泣きそうな顔ではない。


 目元に疲れはあるが、表情には静かな強さがあった。


「おはようございます」


「ああ」


「おはようございます、アルトさん」


 アルトは二人を見ると、すぐに言った。


「俺、昨日の“他者の補正”って言葉が、ずっと頭から離れません」


「俺もだ」


「嬉しかったです」


 アルトは胸に手を当てる。


「俺たちの支援や言葉が、迷惑じゃないって言われた気がして」


 一拍。


「でも、今日の共有です。俺、補正しなきゃって思いすぎて、レオンさんの全部を見張ろうとするかもしれません」


 フィーネが少し目を開く。


 レオンも、静かに受け取る。


「見張る」


「はい。レオンさんが一人で背負わないように、家へ飛ばないように、責任を抱え込みすぎないように……全部見てなきゃって」


 アルトは手帳を握る。


「でも、それだと支えるじゃなくて、見張るになる気がします」


 レオンは頷いた。


「良い共有だ」


 アルトの支援は、優しい。


 だが、その優しさが過剰になると、監視に近くなる。


 それもまた、過度な依存や責任回避の反対側にある危うさかもしれない。


「全部見なくていい」


 レオンは言った。


「見えた時に言ってくれればいい」


 アルトは小さく息を吐いた。


「はい」


「俺も、自分で言う」


「はい」


 アルトは書いた。


 補正は見張りではない。

 見えた時に言う。

 全部を見ようとしない。


    ◆


 ユーリス・ベルクは、今日は少し軽い顔で来た。


 昨日の緊張が少し抜けたのだろう。


 ただ、その軽さの中に、妙な慎重さもある。


「おはよう」


「ああ」


「おはようございます」


「おはようございます、ユーリスさん」


 ユーリスは噴水の縁に片手を置き、ふっと息を吐いた。


「昨日の返答、硬すぎて三回くらい頭の中で噛んだ」


 フィーネが少し笑う。


「わかります」


 アルトも頷く。


「俺もです」


 ユーリスはレオンを見る。


「でもさ、あの言葉、結構すごいよな」


「他者の補正を受け取る器量か」


「それ」


 ユーリスは頷く。


「俺、今までレオンに軽口言う時、たまに“言いすぎかな”って思うことあったんだよ」


「そうなのか」


「あるよ。あるに決まってるだろ」


 ユーリスは少し照れたように視線を逸らす。


「でも昨日の返答聞いて、俺の軽口も補正になる時があるのかなって思った」


「ある」


 レオンは即答した。


 ユーリスが少し驚く。


「あるのか」


「ああ」


「じゃあ今日の共有」


 ユーリスは少し真面目な顔になる。


「軽口を補正だって言い訳にして、言いすぎるかもしれない」


 フィーネが少し吹き出しそうになり、すぐ抑える。


 アルトも笑いかける。


 だが、内容は大事だった。


 レオンも少し笑いながら頷いた。


「良い共有だ」


「だろ」


「言いすぎたら言う」


「頼む」


 ユーリスは手帳ではなく、小さな紙片を出して書いた。


 軽口は補正になる時もある。

 でも言い訳にしない。


    ◆


 少し遅れて、エリシア・フォン・ローゼンベルクが来た。


 今日は表情が柔らかい。


 ローゼンベルク家の返答と、ヴォルツ家の返答。


 二つが一段落したことが、彼女の肩から少し重さを降ろしたのだろう。


 それでも、完全に晴れた顔ではなかった。


「おはようございます」


「おはようございます、エリシア様」


 フィーネが返す。


 レオンも頷く。


「ああ。おはよう」


 エリシアは四人を見て、静かに言った。


「昨日は、よかったです」


「ああ」


 レオンは答える。


「でも、まだ終わりではありませんね」


「そうだ」


「継続観察。次回定期報告まで。監督付き」


「ああ」


 エリシアは手帳を胸に抱える。


「今日の共有です。よかった、という気持ちが強いです。でも、そのよかったで、これからの条件を軽く見ないようにしたいです」


「良い共有だ」


 レオンは頷いた。


 エリシアは続ける。


「私の家も、レオン様の家も、完全な自由を出したわけではありません。けれど、通常交流と通常活動は続けられます」


 一拍。


「だからこそ、普通を丁寧にしたいです」


 普通を丁寧にする。


 その言葉は、今日の朝にふさわしかった。


    ◆


 五人は噴水のそばで、今日の状態を確認した。


 フィーネ。


 補正する側として、言葉を完璧にしようとしすぎるかもしれない。


 アルト。


 補正しなきゃと思いすぎて、レオンを見張ろうとするかもしれない。


 ユーリス。


 軽口を補正と言い訳にして、言いすぎるかもしれない。


 エリシア。


 よかったという安堵で、条件を軽く見ないようにしたい。


 レオン。


 他者の補正を受け取る器量という言葉を意識しすぎて、何でも受け取らなければならないと思うかもしれない。


 確認し終えると、レオンは言った。


「補正は、命令じゃない」


 フィーネが頷く。


「はい」


「支援は、監視じゃない」


 アルトも頷く。


「はい」


「軽口は、言い訳じゃない」


 ユーリスが苦笑する。


「はい」


「安堵は、条件の忘却じゃない」


 エリシアも頷く。


「はい」


 最後にレオンは、自分へ言うように続けた。


「受け取る器量は、全部を飲み込むことじゃない」


 静かな朝の中で、その言葉が噴水の水音に混ざった。


    ◆


 東棟へ向かう道では、昨日までとは違う視線があった。


 好奇心。


 安堵。


 少しの敬意。


 そして、落ち着いた見守り。


 生徒たちは第五班を見ても、大声では騒がない。


 ただ、小さく言葉を交わしている。


「第五班、続くんだな」

「正式承認ではないけど、活動継続」

「継続観察って大変そうだけど」

「でも切られなかったのは大きい」

「補正を受け取る器量って、なんか学園っぽい言葉になりそう」

「いや、ヴォルツ家の言葉だろ」

「でも、いい言葉だよな」


 補正を受け取る器量。


 その言葉が、もう生徒たちの間にも広がっている。


 少し恥ずかしい。


 だが、嫌ではない。


 フィーネが小さく言う。


「言葉が広がっていますね」


「ああ」


 アルトも。


「俺たちだけの言葉じゃなくなってる感じがします」


 ユーリスが笑う。


「そのうち講義で出るぞ」


 エリシアが微笑む。


「もう出そうですね」


 レオンは静かに歩きながら、胸の中でその言葉を受け止めた。


 父の問いが、学園の日常に少しずつ溶けていく。


 それは不思議な感覚だった。


    ◆


 教室に入ると、カイル・ローダンが本を閉じた。


 ハルト・グレイナーは腕を組んで窓際に立っている。


 レオンたちが席へ向かうと、カイルが静かに言った。


「ヴォルツ家の返答は、厳しいが良い返答だった」


「ああ」


 レオンは頷く。


「ただし、今日からが本題だ」


「わかっている」


「本当にわかっているか」


 カイルは淡々と問いかける。


 レオンは少し考え、答えた。


「昨日の返答を守ろうとして、また形にしすぎる危険がある」


「そうだ」


 カイルは頷いた。


「“補正を受け取る器量”という言葉は強い。だからこそ、第五班はそれを演じようとする危険がある」


 フィーネが手帳を開く。


「演じる……」


「補正を受け取っているように見せる。支援しているように見せる。依存していないように見せる。責任回避していないように見せる」


 カイルは一つずつ言う。


「見せようとした瞬間、また本質からずれる」


 ハルトが低く言った。


「昨日と同じだ。見せるな。やれ」


 短い。


 しかし、深い。


 ユーリスが小さく笑う。


「ハルト、今日もわかりやすい」


「うるさい」


 レオンは手帳へ書いた。


 補正を受け取る器量を演じない。

 見せるな。

 やれ。


    ◆


 一限目。


 教師は黒板へ文字を書いた。


 問いへの日常回答。


 教室が静まり返る。


「昨日、ヴォルツ家より再判断返答が届いた」


 教師は言った。


「第五班の通常活動継続に異議なし。ただし、正式承認ではなく、継続観察。監督付きである」


 生徒たちは静かに聞いている。


「返答の中で重要な一文があった」


 黒板に書かれる。


 判断責任を放棄せず、他者の補正を受け取る器量。


 その文字が黒板に現れた瞬間、教室の空気が少し変わった。


 レオンは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 教師は続ける。


「これは、第五班だけの課題ではない。協力関係にある者すべてに関わる」


 一拍。


「他者の補正を受け取ることは、責任を捨てることではない。また、補正する側が相手を支配することでもない」


 黒板にさらに書かれる。


 責任。

 補正。

 選択。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立ち上がる。


「今日から第五班が避けるべきことは何だ」


 レオンは答えた。


「補正を受け取る器量を、形として演じることです」


 教師は続きを待つ。


「父の返答は、問いでした。俺が今後、判断責任を放棄せず、他者の補正を受け取れるかを問われています」


 一拍。


「だからといって、全ての言葉を受け入れればいいわけではありません。受け取るかどうかも判断する責任があります。また、班員の言葉も、完璧な補正である必要はありません」


 教師は頷いた。


「良い」


 レオンは続ける。


「第五班が今日からするべきことは、昨日の返答を見せることではなく、普段の中で、必要な時に言い、必要な時に受け取り、必要な時に選ぶことです」


 教師は静かに頷いた。


「良い回答だ」


 そして全体へ言った。


「強い言葉ほど、演技になりやすい。演じるな。日常に落とせ」


    ◆


 午前の演習は、通常課題だった。


 公開評価のような複雑なものではない。


 標識二つ。


 魔法人形二体。


 障害壁一つ。


 護送対象なし。


 だが、今日の目的は、通常課題の中で補正と判断を自然に扱うことだった。


 教師は言った。


「本日は、特別な公開評価ではない。通常演習である。第五班は、昨日の返答を意識しすぎず、必要な共有を行え」


 鐘が鳴る。


 フィーネが報告する。


「敵、正面前衛、右軽量。障害、中央。標識、奥と右奥。状態、報告を完璧にしようとしました。項目で戻します」


 レオンが頷く。


「確認。ユーリス右奥。アルト右軽量。俺前衛。フィーネ障害」


「はい」

「了解」

「はい」


 アルトが土を出す。


 右軽量を止める。


 少し低い。


 慎重すぎる。


 アルトがすぐ言う。


「見張りすぎて支援が弱くなりました。必要量へ上げます」


 土が少し高くなる。


 ちょうどいい。


 ユーリスが走る。


「軽口言おうとして、補正って言い訳にしそうでした。今は走る」


 フィーネが少し笑いながら報告する。


「右奥標識、ユーリスさん接近。中央障害、起動気配」


 レオンは前衛型を受ける。


 フィーネの報告。


 アルトの支援。


 ユーリスの声。


 全部受け取らなければ。


 そう思いかけた瞬間、自分で言う。


「全部受け取ろうとしました。必要分を選びます。障害優先」


 フィーネが即座に補足する。


「中央障害、起動。奥標識への直進不可」


 レオンが指示する。


「左回り。ユーリス、右奥継続。アルト、軽量維持」


「了解!」

「はい!」


 課題は大きく崩れなかった。


 ただ、小さな揺れがいくつもあった。


 フィーネは報告を完璧にしようとした。


 アルトは見張りすぎて支援が弱くなった。


 ユーリスは軽口を言い訳にしそうになった。


 レオンは全部受け取ろうとした。


 そのたびに言った。


 戻した。


 標識二本を回収し、台座へ置く。


 鐘が鳴った。


    ◆


 教師が近づいてくる。


「第五班、評価、良」


 上ではない。


 だが、今日の良は必要だった。


「通常演習として良。大きな成果を示す場ではない。昨日の返答に引かれた小さな硬さを、各員が言語化した」


 教師はレオンを見る。


「ヴォルツ。全ての補正を受け取ろうとしたな」


「はい」


「それは器量ではない。判断放棄に近づく」


 胸に刺さる。


 だが、必要な指摘だった。


「はい」


 教師は続ける。


「補正を受け取るとは、全てを飲み込むことではない。必要なものを選び、不要なものを保留し、誤ったものは退けることも含む」


「はい」


「第五班全員に言う。補正する側も、相手を正そうとしすぎるな。言葉を渡すことと、相手を操作することは違う」


 フィーネとアルトとユーリスが頷く。


「今日の良は、日常へ落とす良だ」


 日常へ落とす良。


 レオンはその言葉を胸に置いた。


    ◆


 昼休み。


 食堂の空気は、穏やかだった。


 ローゼンベルク家とヴォルツ家。


 二つの家からの返答が一段落したことで、学園全体にも少し安心が広がっている。


 もちろん、継続観察や条件は残っている。


 だが、第五班が即時解消されないことは、周囲にも伝わっていた。


「第五班、続くんだな」

「よかったな」

「正式承認じゃないけどな」

「でも、通常活動継続って大きいだろ」

「次回定期報告まで、か」

「それでも前進だよ」


 前進。


 その言葉を聞いて、アルトが少し笑った。


「前進、なんですね」


「そうだな」


 レオンは答える。


 ユーリスがパンをちぎりながら言う。


「完全勝利じゃないけど、前進」


 フィーネが微笑む。


「私たちらしいですね」


「完全じゃないけど進む」


 ユーリスが笑う。


「それ、第五班の説明っぽいな」


 レオンも少しだけ口元を緩めた。


 完全じゃない。


 でも進む。


 確かに、今の第五班らしい。


    ◆


 放課後。


 中庭には、エリシアがいた。


 今日は輪の距離が自然だった。


 昨日より近すぎず。


 遠すぎず。


 普通に立てている。


 フィーネが言う。


「今日は、普通に話せている感じがします」


 エリシアが微笑む。


「はい。少しだけ」


 アルトも頷く。


「昨日は、距離を考えすぎました」


 ユーリスが笑う。


「今日は、考えすぎをちょっとやめた」


「それも普通ですね」


 エリシアが言う。


 レオンはその様子を見て、胸が少し温かくなる。


 普通。


 昨日まで何度も難しいと言ってきた普通。


 それが少しだけ戻ってきている。


 ただし、以前の普通ではない。


 何も知らない普通ではない。


 尊重。


 条件。


 継続観察。


 補正を受け取る器量。


 そういう言葉を抱えた上での普通。


 それでも、普通だった。


 エリシアがレオンを見る。


「今日の演習は、どうでしたか」


「良だった」


「上ではなく?」


「ああ」


 レオンは頷く。


「日常へ落とす良、だそうだ」


 エリシアは少し考え、それから微笑んだ。


「良い言葉ですね」


「そうだな」


 フィーネが手帳を開く。


「日常へ落とす良」


 アルトも。


「完全じゃないけど進む」


 ユーリスも。


「普通に話す」


 エリシアも手帳へ書く。


「条件を抱えた普通」


 それぞれが書く言葉は違う。


 だが、同じ方向を向いていた。


    ◆


 その時、少し離れた場所からカイルとハルトが歩いてきた。


 カイルはいつものように静かで、ハルトは相変わらず腕を組んでいる。


 ユーリスが手を上げる。


「お、観察者二名」


「勝手に呼ぶな」


 ハルトが不機嫌そうに返す。


 カイルはレオンを見る。


「今日の演習は良だったと聞いた」


「ああ」


「良でよかった」


 その言葉に、アルトが少し驚く。


「上じゃなくても、ですか」


「今日は上を出す必要はない」


 カイルは淡々と答える。


「昨日の返答を受けて、日常演習で過剰に力むことなく良を取れたなら十分だ」


 ハルトも言う。


「毎日上を狙うな。疲れる」


 ユーリスが笑う。


「実感こもってるな」


「うるさい」


 ハルトはレオンを見る。


「お前、全部受け取ろうとしたらしいな」


「ああ」


「馬鹿か」


「そうだな」


 レオンは素直に頷いた。


 ハルトは少しだけ目を細める。


「素直すぎるのも変だな」


「補正を受け取った」


「全部受け取るなって話だろ」


 ユーリスが笑う。


「今のも補正だな」


 レオンは少しだけ笑った。


「受け取る。ただし、言い方は雑だと判断する」


 ハルトが一瞬黙り、それから視線を逸らした。


「……それでいい」


 カイルが小さく頷いた。


「今のは、良い例だ」


 フィーネがすぐ手帳に書いた。


 受け取る。

 でも、言い方は雑だと判断する。


 ユーリスが笑いをこらえきれず、肩を震わせた。


 中庭に、久しぶりに軽い笑いが広がった。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 第七十六話。


 問いに答える日は、昨日ではなく今日から始まる。


 朝。

 ヴォルツ家再判断返答の翌日。

 即時解消ではない。

 正式承認ではない。

 教育的協力関係として継続観察を認める。

 次回定期報告までは通常活動継続に異議なし。

 他者の補正を受け取る器量。

 父は許可したわけではない。

 認めたわけでもない。

 だが、切らなかった。

 そして問いを置いた。

 問いに答える日は、昨日ではなく今日から始まる。

 切られなかった安堵に甘えず、問われた重さで固まりすぎず、いつもの一歩を踏む。


 中庭。

 フィーネ。

 補正する側として、言葉を完璧にしようとしすぎるかもしれない。

 補正する側も完璧でなくていい。

 受け取る側にも判断責任がある。

 アルト。

 補正しなきゃと思いすぎて、レオンを見張ろうとするかもしれない。

 補正は見張りではない。

 見えた時に言う。

 全部を見ようとしない。

 ユーリス。

 軽口も補正になる時があるかもしれない。

 でも軽口を補正だと言い訳にして言いすぎるかもしれない。

 軽口は補正になる時もある。

 でも言い訳にしない。

 エリシア。

 よかったという気持ちが強い。

 でも、そのよかったで条件を軽く見ないようにしたい。

 普通を丁寧にしたい。

 レオン。

 他者の補正を受け取る器量を意識しすぎて、何でも受け取らなければならないと思うかもしれない。

 補正は命令じゃない。

 支援は監視じゃない。

 軽口は言い訳じゃない。

 安堵は条件の忘却じゃない。

 受け取る器量は、全部を飲み込むことじゃない。


 教室。

 カイル。

 ヴォルツ家の返答は厳しいが良い返答。

 ただし今日からが本題。

 補正を受け取る器量を演じようとする危険がある。

 補正を受け取っているように見せる。

 支援しているように見せる。

 依存していないように見せる。

 責任回避していないように見せる。

 見せようとした瞬間、本質からずれる。

 ハルト。

 見せるな。やれ。


 講義。

 問いへの日常回答。

 判断責任を放棄せず、他者の補正を受け取る器量。

 他者の補正を受け取ることは、責任を捨てることではない。

 補正する側が相手を支配することでもない。

 責任。

 補正。

 選択。

 避けるべきこと。

 補正を受け取る器量を、形として演じること。

 全ての言葉を受け入れればいいわけではない。

 受け取るかどうかも判断する責任がある。

 班員の言葉も、完璧な補正である必要はない。

 昨日の返答を見せることではなく、普段の中で必要な時に言い、必要な時に受け取り、必要な時に選ぶ。

 強い言葉ほど、演技になりやすい。

 演じるな。日常に落とせ。


 午前演習。

 通常課題。

 標識二つ。

 魔法人形二体。

 障害壁一つ。

 フィーネ、報告を完璧にしようとして項目へ戻す。

 アルト、見張りすぎて支援が弱くなる。必要量へ上げる。

 ユーリス、軽口を補正の言い訳にしそうになる。今は走る。

 レオン、全部受け取ろうとする。必要分を選ぶ。

 評価、良。

 日常へ落とす良。

 補正を受け取るとは、全てを飲み込むことではない。

 必要なものを選び、不要なものを保留し、誤ったものは退けることも含む。

 補正する側も、相手を正そうとしすぎるな。

 言葉を渡すことと、相手を操作することは違う。


 昼。

 第五班、続く。

 正式承認ではない。

 でも通常活動継続。

 完全勝利ではないけど前進。

 完全じゃないけど進む。

 第五班らしい。


 放課後。

 中庭。

 普通に話せている感じ。

 通常交流。

 特別に遠ざけることでも、特別に近づきすぎることでもない。

 条件を抱えた普通。

 日常へ落とす良。

 完全じゃないけど進む。

 普通に話す。

 カイルとハルト。

 今日の良でよかった。

 毎日上を狙うな。疲れる。

 ハルト、お前全部受け取ろうとしたらしいな。馬鹿か。

 レオン、受け取る。ただし、言い方は雑だと判断する。

 ハルト、それでいい。

 カイル、良い例。

 受け取る。

 でも、言い方は雑だと判断する。


 レオンはペンを止めた。


 今日は、上ではなかった。


 良だった。


 けれど、その良が必要だった。


 父の問いを受けて、すぐに完璧な答えを示す必要はない。


 むしろ、完璧に見せようとすれば、またずれる。


 補正を受け取る器量。


 その言葉は強い。


 強いからこそ、演じたくなる。


 受け取っています。


 支えられています。


 依存していません。


 責任回避していません。


 そう見せようとした瞬間、きっと本質から離れる。


 今日、レオンは全部を受け取ろうとした。


 それは器量ではなかった。


 判断放棄に近づく。


 教師の言葉が痛かった。


 だが、痛いからこそ必要だった。


 受け取ることは、飲み込むことではない。


 選ぶこと。


 保留すること。


 退けること。


 それも含めて、器量。


 ハルトの雑な言葉を受け取りながら、言い方は雑だと判断した。


 それでいい、とハルトは言った。


 カイルは、良い例だと言った。


 小さなことだった。


 けれど、父の問いに対する最初の小さな答えだった気がする。


 レオンは最後に一行を書く。


 問いに答える日は、昨日ではなく今日から始まる。


 その下に、もう一行。


 補正を受け取る器量とは、全てを飲み込むことではなく、責任を持って選びながら、それでも他者の声を拒まないことだ。


 ペンを置く。


 窓の外は夜だった。


 星が見える。


 ローゼンベルク家の返答。


 ヴォルツ家の返答。


 二つの家の言葉が届き、第五班は続くことになった。


 正式承認ではない。


 条件もある。


 継続観察もある。


 次回定期報告もある。


 だが、明日も第五班として動ける。


 エリシアとも、普通に話せる。


 その普通は、以前より少し重く、少し丁寧だ。


 レオンは手帳を閉じた。


 灯りを落とす。


 暗闇の中で、噴水の水音を思い出す。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 問いは、まだ胸にある。


 答えは、一度で出すものではない。


 明日も、また。


 普通の一日の中で、少しずつ答えていく。

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