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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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第七十三話


 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、淡く晴れていた。


 雲は残っている。


 けれど、昨日のように低く重く垂れ込めてはいない。


 薄い白が青の上をゆっくり流れ、朝日は校舎の石壁へ静かに落ちていた。


 中庭の芝には夜露が残っている。


 光を受けた雫は、小さく、控えめに光っていた。


 風は弱い。


 噴水の水面をほんの少しだけ揺らし、水音は今日も変わらず響いている。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 レオン・ヴォルツは、寮の部屋で手帳を開いていた。


 昨日の最後の一文。


 それでも、沈黙の中で待っていることを隠さなければ、待つことも第五班の行動になる。


 正式報告書は、すでに出ていった。


 ヴォルツ家へ。


 ローゼンベルク家へ。


 昨日は何も来なかった。


 封書も、職員も、呼び出しも。


 何も来なかった。


 けれど、何も来ないことを失敗扱いしない。


 送った。


 届く。


 読まれる。


 返る。


 その四段階は、こちらの意思で速められない。


 教師の言葉が胸に残っている。


 待つことは、消極的行動ではない。


 条件によっては、最も難しい維持行動である。


 昨日、第五班は待った。


 待っていることを隠さなかった。


 足音に反応した。


 扉を見た。


 事務棟の方を何度も見た。


 それでも、余計なことを足さなかった。


 今日も、おそらく待つ日だ。


 そう思っていた。


 けれど、胸の奥には、別の予感もあった。


 ローゼンベルク家。


 最初に一次返答をくれた家。


 エリシア本人の認識を尊重すると言った家。


 通常活動継続に異議なし。


 即時班変更要求ではない。


 けれど、詳細返答は後日。


 その後日が、そろそろ来てもおかしくない。


 ヴォルツ家より先か。


 後か。


 同時か。


 わからない。


 だが、正式報告書を受け取った後、ローゼンベルク家がどう動くか。


 それは、今日からの大きな焦点になる。


 レオンは手帳に今日の最初の一文を書いた。


 尊重という言葉は、届くまで形がわからない。


 その下に、もう一行。


 優しい言葉でも、家の封で届けば重さを持つ。


 ペンを置く。


 エリシアはどうしているだろう。


 彼女も、自分の家からの詳細返答を待っている。


 しかも、自分の所見が添付された報告書を家が読む。


 その重さは、レオンとは違う形で彼女に乗っているはずだ。


 今日は、彼女のためにも段階を飛ばさない。


 ローゼンベルク家だから大丈夫と決めつけない。


 厳しい内容だと決めつけもしない。


 読むまで、聞くまで、判断しない。


 レオンは制服へ袖を通した。


 そして、いつもの場所へ向かった。


    ◆


 寮の廊下は、昨日より少しだけ明るい空気だった。


 何も来なかった翌日。


 学園全体も、待つ空気に少し慣れたのかもしれない。


 声は低いが、沈みすぎてはいない。


「昨日は何もなかったんだろ」

「今日もすぐには来ないんじゃない?」

「でもローゼンベルク家は早そうじゃないか」

「一次返答も早かったしな」

「エリシア様の所見、家がどう読むかだよな」

「尊重するって言ってたけど、詳細はまだだもんな」


 尊重する。


 その言葉が廊下に浮かぶ。


 レオンは歩きながら、胸の中でそれを受け止めた。


 尊重。


 優しい言葉。


 けれど、家が使う時、それは簡単な許可とは限らない。


 条件付きの尊重かもしれない。


 観察を伴う尊重かもしれない。


 本人の意思は認めるが、家としての線は引く。


 そういう形もある。


 レオンは自分に言い聞かせる。


 まだ不明。


 まだ未着。


 中庭へ向かう。


    ◆


 中庭には、フィーネ・ルークがいた。


 噴水のそば。


 今日は手帳を開かず、胸に抱えている。


 レオンが近づくと、彼女はすぐに顔を上げた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


 フィーネは少しだけ噴水へ視線を移した。


「今日は、ローゼンベルク家のことを考えていました」


「俺もだ」


「エリシア様、大丈夫でしょうか」


「わからない」


 レオンは正直に答える。


 フィーネは頷いた。


「はい。わからない、ですね」


 一拍。


「でも、心配です」


「俺もだ」


 フィーネは手帳を開く。


 エリシア様が心配。

 でも、ローゼンベルク家の返答内容は未着。

 心配と事実を分ける。


「今日の共有です」


「良い」


 レオンは頷いた。


「俺も、ローゼンベルク家なら良い返答だろうと先取りしそうになる」


「はい。私もです」


「でも、読むまでわからない」


「はい」


    ◆


 アルト・レイヴンは、少し急ぎ足で来た。


 昨日より顔色はいい。


 だが、落ち着かない様子だった。


「おはようございます」


「ああ」


「おはようございます、アルトさん」


 アルトは二人の前で息を整えると、すぐに言った。


「俺、今日、エリシア様のことを考えすぎています」


「なぜ」


 レオンが聞く。


「ローゼンベルク家が、エリシア様の所見をどう読むかが気になって」


 彼は手帳を握る。


「エリシア様は、俺たちの関係を尊重したいって言ってくれました。でも、それを家がどう受け止めるかは別ですよね」


「ああ」


「もし、当事者として距離が近すぎると読まれたらどうしようって」


 その不安は、鋭かった。


 エリシアの所見は温かかった。


 だが、家が読む時、その温かさをどう解釈するか。


 冷静な所見として受け止めるか。


 感情的な関与として警戒するか。


 それはわからない。


 アルトは続ける。


「今日の共有です。エリシア様の言葉が、逆にエリシア様を苦しめないか怖い」


 フィーネが静かに息を吸う。


 レオンは頷いた。


「良い共有だ」


 それは、誰も言いにくかった不安だった。


 アルトが言ってくれた。


    ◆


 ユーリス・ベルクは、今日はいつもより真面目な顔で来た。


 手を上げる動作も小さい。


「おはよう」


「ああ」


「おはようございます」


「おはようございます、ユーリスさん」


 ユーリスは三人を見て、すぐに言った。


「今日、エリシア様に会ったら、変に励ましそうで怖い」


「励ますことが?」


「うん。大丈夫ですよ、とか、きっと平気ですよ、とか言いそうになる」


 フィーネが頷く。


「言いたくなりますね」


「でも、平気かどうかはまだわからないだろ」


「ああ」


 レオンは答える。


「だから、今日の共有。安心させたくて、まだわからないことを大丈夫って言いそうになる」


「良い共有だ」


 レオンは頷いた。


 ユーリスは少しだけ息を吐く。


「今日は、大丈夫って言うより、一緒に待つ、だな」


「そうだ」


 レオンは答えた。


    ◆


 四人は噴水のそばで、今日の確認をした。


 フィーネ。


 エリシアが心配。


 でもローゼンベルク家の返答内容は未着。


 心配と事実を分ける。


 アルト。


 エリシアの所見が、家に感情的関与として読まれ、彼女を苦しめないか怖い。


 ユーリス。


 安心させたくて、まだわからないことを大丈夫と言いそうになる。


 レオン。


 ローゼンベルク家なら良い返答だろうと先取りしそうになる。


 確認を終えると、レオンは言った。


「今日は、エリシアに会っても大丈夫とは言わない」


 フィーネが頷く。


「心配です、と言う」


 アルトも。


「一緒に待ちます、と言う」


 ユーリスも。


「変に軽くしない」


「それでいい」


    ◆


 東棟へ向かう道は、昨日より少しざわついていた。


 ローゼンベルク家の詳細返答が近いのではないか。


 その話題が、生徒たちの間にも出ている。


「ローゼンベルク家って、今日あたり返しそうじゃない?」

「早かったしな」

「エリシア様の所見、家に届いたんだろ」

「本人の意思を尊重するって言ってたけど」

「詳細返答でどうなるかだよな」

「第五班より、エリシア様が大変そう」


 エリシア様が大変そう。


 それは、第五班の中でも感じていることだった。


 レオンは歩きながら、胸の奥で確認する。


 エリシアを心配する。


 だが、エリシアの代わりに判断しない。


 ローゼンベルク家の返答を先取りしない。


 段階を守る。


    ◆


 教室に入ると、カイルとハルトがいた。


 カイルは本を閉じ、レオンたちを見る。


「今日はローゼンベルク家の詳細返答が来る可能性がある」


 やはり。


 レオンは静かに頷いた。


「根拠は」


「昨日送付された正式報告書を、ローゼンベルク家が早期確認する可能性が高い。一次返答時の速度から見て、学園への連絡も早いと考えられる」


「可能性だな」


「ああ。確定ではない」


 カイルは続ける。


「今日の危険は、ローゼンベルク家を“味方”として固定しすぎることだ」


 フィーネが手帳を開く。


「味方として固定……」


「一次返答が比較的好意的だったため、詳細返答も好意的だと先取りする可能性がある。しかし家の判断は単純な味方、敵ではない」


 ハルトが言う。


「家は家だ」


 短い。


 だが、核心だった。


 ローゼンベルク家はエリシアを守る家でもある。


 だから、第五班にとって都合のいい返答だけをするとは限らない。


 ユーリスが頷く。


「大丈夫って言わない方がいいな」


「そうだ」


 カイルが答える。


「大丈夫ではなく、まだ不明。だが、一次返答と公開評価記録は材料としてある。それが事実だ」


 レオンは手帳へ書いた。


 味方として固定しない。

 家は家。

 まだ不明。

 材料はある。


    ◆


 一限目。


 教師は黒板へ文字を書いた。


 他家判断。


 教室が静まる。


「昨日、正式報告書は関係各家へ送付された。本日以降、各家からの返答が届く可能性がある」


 教師は淡々としている。


「本日は、ローゼンベルク家について扱う」


 その言葉に、教室の空気が少し変わった。


 エリシアはこの場にいない。


 だが、彼女の名前が、見えない形で教室に入ってくる。


「ローゼンベルク家は、一次返答において、即時班変更要求を行わず、エリシア本人の認識を尊重すると示した」


 レオンは静かに聞く。


「しかし、尊重とは、無条件の承認と同義ではない」


 黒板に書かれる。


 尊重。

 確認。

 条件。


「本人の意思を尊重することと、家として条件を示すことは両立する」


 フィーネの手が少し動く。


 アルトの表情も硬くなる。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立ち上がる。


「ローゼンベルク家の返答を待つ上で、第五班が注意すべきことは何だ」


 レオンは答えた。


「好意的に先取りしすぎないことです」


 教師は続きを待つ。


「一次返答が比較的穏当だったため、詳細返答もこちらに都合のよいものだと決めつける危険があります」


 一拍。


「ですが、ローゼンベルク家はエリシア様を守る家でもあります。本人の認識を尊重することと、条件や距離を求めることは両立します。だから、読むまで判断しないことが必要です」


 教師は頷いた。


「良い」


 そして全体へ言った。


「他者の家を、自分に都合よく味方化するな。相手にも守るものがある」


 相手にも守るものがある。


 その言葉は、レオンの胸に深く残った。


    ◆


 午前の演習は短かった。


 待機と通常課題を組み合わせたもの。


 だが、第五班の意識はどうしてもローゼンベルク家へ向いた。


 標識一つ。


 魔法人形一体。


 護送対象一体。


 難度は低い。


 フィーネの報告は少し遅れた。


「エリシア様のことを考えました。報告一拍遅れ。敵、正面一。護送、左黄色。標識、奥」


 アルトも支援が弱くなる。


「エリシア様を心配して、支援に集中が遅れました。土、出します」


 ユーリスも。


「大丈夫って言いたくなったの思い出した。戻る。普通に走る」


 レオンも。


「ローゼンベルク家を味方として考えた。戻る。護送優先」


 課題そのものは問題なく終わった。


 評価は、良。


 教師は言った。


「良。意識の逸れはあったが、全員が言語化した。今日はそれでよい」


 今日はそれでよい。


 ローゼンベルク家を待つ日。


 エリシアを心配する日。


 それでも、課題へ戻る日。


    ◆


 昼休み。


 食堂では、エリシアの姿は見えなかった。


 それだけで、第五班の空気が少し沈む。


 ユーリスが小さく言う。


「いないな」


「ああ」


 フィーネが手帳を見つめる。


「何かあったのでしょうか」


「わからない」


 レオンは答える。


「授業の都合かもしれない。呼び出しかもしれない。体調かもしれない。返答かもしれない」


 アルトが頷く。


「全部、可能性ですね」


「ああ」


 事実は、食堂にいないことだけ。


 その意味は未確認。


 フィーネが深く息を吐いた。


「心配です」


「俺もだ」


 それ以上は言わない。


 大丈夫とは言わない。


 ただ、心配だと共有する。


    ◆


 午後。


 授業の終わり頃だった。


 事務職員が教室の扉を叩いた。


 空気が止まる。


 レオンの胸が鳴る。


 フィーネの手が止まる。


 アルトの背筋が伸びる。


 ユーリスが息を吸う。


 教師が扉を開ける。


 職員は一礼し、教師へ封書を渡した。


 白い封書。


 淡い金の封蝋。


 ローゼンベルク家の紋章。


 花を抱く盾。


 見間違えるはずがない。


 ローゼンベルク家からの返答だった。


 教室中の空気が変わる。


 教師は封書を受け取り、静かに言った。


「授業後、第五班および関係生徒は第二面談室へ」


 関係生徒。


 エリシアも含まれる。


 レオンは頷いた。


「はい」


 授業の残り時間は、ほとんど頭に入らなかった。


 だが、四人は誰も大きく崩れなかった。


 フィーネが小さく言う。


「封書は事実」


 アルトが続ける。


「内容は未確認」


 ユーリスも。


「ローゼンベルク家から」


 レオンも。


「読むまで判断しない」


 四人は、それだけを確認した。


    ◆


 第二面談室。


 扉の前には、エリシアがいた。


 彼女はすでに呼ばれていたのだろう。


 手帳を胸に抱え、静かに立っている。


 顔色は少し白い。


 だが、目は伏せていない。


 レオンたちが近づくと、エリシアは小さく会釈した。


「皆様」


「エリシア様」


 フィーネが返す。


 レオンは彼女を見る。


「大丈夫とは言わない」


 エリシアの目が少し揺れる。


「はい」


「心配している」


 一拍。


「一緒に聞く」


 エリシアは、ゆっくり頷いた。


「ありがとうございます」


 ユーリスも言う。


「俺も、大丈夫って言いそうだったけど、やめる」


 エリシアが少しだけ笑う。


「はい」


 アルトも。


「一緒に聞きます」


「はい」


 その時、扉が開いた。


 担当教師が中から顔を出す。


「入れ」


    ◆


 第二面談室の空気は、静かだった。


 机の上に、ローゼンベルク家の封書が置かれている。


 白い封筒。


 淡い金の封蝋は、すでに開かれていた。


 教師が内容を確認済みなのだろう。


 レオンたちは席に着く。


 エリシアは、レオンたちと向かい合う位置ではなく、少し横に座った。


 当事者。


 生徒代表。


 婚約関係に近い立場。


 いくつもの位置が、彼女を取り囲んでいる。


 教師は書面を持ち、静かに言った。


「ローゼンベルク家より、正式報告書に対する詳細返答が届いた」


 全員が息を止めかける。


「まず、事実確認だ。これはローゼンベルク家の詳細返答である。内容はこれから読み上げる。読む前に意味を決めるな」


「はい」


 レオンが答える。


 フィーネ、アルト、ユーリス、エリシアも頷く。


 教師は書面へ目を落とした。


「第一。学園より提出された公開評価課題正式報告書、教師所見、記録担当記録、生徒代表所見を受領した」


 紙の音が小さく鳴る。


「第二。公開評価課題における第五班の協力関係について、ローゼンベルク家は、学園所見を尊重する」


 フィーネが小さく息を吸う。


 尊重。


 その言葉が、正式に出た。


 教師は続ける。


「第三。エリシア・フォン・ローゼンベルク本人が生徒代表として述べた所見について、当家は、本人の観察および判断能力が学園生活において適切に育成されているものと受け止める」


 エリシアの手が震えた。


 本人の観察および判断能力。


 適切に育成。


 感情的すぎるとは読まれなかった。


 所見は、判断として受け止められた。


 アルトが目を潤ませる。


 フィーネも胸に手を当てる。


 教師はさらに読む。


「第四。第五班との関係が、エリシア本人の冷静な判断を損なっているとは、現時点では判断しない」


 エリシアが目を閉じた。


 大きな安堵が、彼女の肩から落ちるのがわかった。


「第五。ただし、当家は今後も、本人の学業、判断、対人距離が適切に保たれているかを確認する。過度な感情的関与、または本人の立場を曖昧にする行動が見られた場合、学園と協議する」


 条件。


 やはり、無条件ではない。


 尊重。


 確認。


 条件。


 講義で言われた通りだった。


「第六。現時点において、エリシア本人が第五班および関係生徒との通常交流を継続することに、当家は異議を唱えない」


 通常交流継続。


 異議なし。


 その言葉で、空気が少し緩んだ。


 しかし、教師は最後の項目へ移る。


「第七。ローゼンベルク家は、エリシア本人の意思と学園所見を尊重しつつ、今後の成長を見守る」


 読み上げが終わった。


 部屋は静かだった。


    ◆


 エリシアは、しばらく動かなかった。


 手帳を胸に抱えたまま、目を閉じている。


 レオンは声をかけなかった。


 今は、彼女が受け取る時間だ。


 フィーネも黙っている。


 アルトは涙をこらえている。


 ユーリスも、軽口を言わない。


 やがて、エリシアが小さく息を吐いた。


「……私の所見を、判断として受け取ってくれたのですね」


 教師が頷く。


「そう読める」


 エリシアの声が震える。


「感情的すぎるとは、書かれていない」


「書かれていない」


「第五班との関係が、私の冷静な判断を損なっているとは、現時点では判断しない」


「そうだ」


 エリシアの目から、涙が一粒落ちた。


 彼女はそれを隠さなかった。


「よかった……」


 小さな声だった。


 だが、部屋全体に届いた。


 フィーネも涙を浮かべる。


「エリシア様」


「はい」


「よかったです」


 それ以上の言葉は、いらなかった。


 アルトも深く息を吐く。


「エリシア様の言葉が、ちゃんと届いたんですね」


 ユーリスが静かに言う。


「大丈夫って言わなくてよかったな」


 エリシアは少し泣きながら笑った。


「はい」


 レオンは、ようやく口を開いた。


「尊重は、条件付きだった」


「はい」


 エリシアは頷く。


「でも、尊重でした」


「ああ」


 尊重。


 確認。


 条件。


 その三つが、今ここに届いた。


 無条件の解放ではない。


 だが、否定ではない。


 エリシアの判断が認められた。


 第五班との通常交流継続にも異議なし。


 それは、大きな一歩だった。


    ◆


 教師は書面を閉じた。


「以上がローゼンベルク家の詳細返答である。要点を確認する」


 レオンたちは姿勢を整える。


「ローゼンベルク家は、学園所見を尊重する」


「はい」


「エリシア本人の所見を、観察および判断能力の育成として受け止める」


「はい」


「第五班との関係が、本人の冷静な判断を損なっているとは、現時点では判断しない」


「はい」


「通常交流継続に異議なし」


「はい」


「ただし、今後も確認は継続。過度な感情的関与や立場を曖昧にする行動があれば、学園と協議する」


「はい」


 条件も、きちんと受け取る。


 良い部分だけを抜き取らない。


 それが、今日の段階確認だった。


 教師は最後に言った。


「この返答により、ローゼンベルク家側の詳細確認は一段落したと見てよい。ただし、ヴォルツ家の再判断は未着である」


 その言葉で、レオンの胸にまた重さが戻る。


 そうだ。


 ローゼンベルク家は一段落。


 だが、ヴォルツ家はまだ。


 父の返答は、まだ来ていない。


 エリシアがレオンを見る。


「今度は、レオン様の番ですね」


「ああ」


 レオンは頷いた。


 怖い。


 けれど、今はエリシアの安堵を消したくなかった。


「今日は、ローゼンベルク家の返答を受け取る日だ」


 エリシアは静かに頷いた。


「はい」


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 第七十三話。


 尊重という言葉が、家の封で届く日。


 朝。

 ローゼンベルク家の詳細返答が近いかもしれない。

 尊重という言葉は、届くまで形がわからない。

 優しい言葉でも、家の封で届けば重さを持つ。

 ローゼンベルク家なら良い返答だろうと先取りしない。

 厳しい内容だと決めつけもしない。

 読むまで、聞くまで、判断しない。


 フィーネ。

 エリシア様が心配。

 でも、ローゼンベルク家の返答内容は未着。

 心配と事実を分ける。


 アルト。

 エリシア様の所見が、家に感情的関与として読まれ、彼女を苦しめないか怖い。

 言いにくい不安。

 でも大事な共有。


 ユーリス。

 安心させたくて、まだわからないことを大丈夫と言いそうになる。

 今日は、大丈夫ではなく、一緒に待つ。


 カイル。

 ローゼンベルク家の詳細返答が来る可能性。

 一次返答時の速度から見て、学園への連絡も早いと考えられる。

 今日の危険は、ローゼンベルク家を味方として固定しすぎること。

 家は単純な味方、敵ではない。

 ハルト。

 家は家。


 講義。

 他家判断。

 ローゼンベルク家は、一次返答で即時班変更要求を行わず、エリシア本人の認識を尊重すると示した。

 しかし、尊重とは無条件の承認と同義ではない。

 尊重。

 確認。

 条件。

 本人の意思を尊重することと、家として条件を示すことは両立する。

 他者の家を、自分に都合よく味方化するな。

 相手にも守るものがある。


 午前演習。

 エリシア様への意識で全員少し遅れる。

 フィーネ、エリシア様を考え報告一拍遅れ。

 アルト、心配で支援集中が遅れる。

 ユーリス、大丈夫って言いたくなったのを思い出す。

 レオン、ローゼンベルク家を味方として考えた。

 評価、良。

 意識の逸れを言語化。


 昼。

 食堂にエリシア様がいない。

 事実は、食堂にいないことだけ。

 意味は未確認。

 心配。

 でも大丈夫とは言わない。


 午後。

 事務職員。

 白い封書。

 淡い金の封蝋。

 ローゼンベルク家の紋章。

 授業後、第五班および関係生徒は第二面談室へ。

 封書は事実。

 内容は未確認。

 ローゼンベルク家から。

 読むまで判断しない。


 第二面談室前。

 エリシア様。

 顔色が少し白い。

 レオン、大丈夫とは言わない。

 心配している。

 一緒に聞く。

 ユーリスも、大丈夫と言いそうだったがやめる。

 アルト、一緒に聞きます。


 ローゼンベルク家詳細返答。

 正式報告書、教師所見、記録担当記録、生徒代表所見を受領。

 公開評価課題における第五班の協力関係について、ローゼンベルク家は学園所見を尊重する。

 エリシア本人が生徒代表として述べた所見について、当家は本人の観察および判断能力が学園生活において適切に育成されているものと受け止める。

 第五班との関係が、エリシア本人の冷静な判断を損なっているとは、現時点では判断しない。

 ただし、今後も本人の学業、判断、対人距離が適切に保たれているかを確認する。

 過度な感情的関与、または本人の立場を曖昧にする行動が見られた場合、学園と協議する。

 現時点において、エリシア本人が第五班および関係生徒との通常交流を継続することに、当家は異議を唱えない。

 ローゼンベルク家は、エリシア本人の意思と学園所見を尊重しつつ、今後の成長を見守る。


 エリシア様。

 私の所見を、判断として受け取ってくれたのですね。

 感情的すぎるとは書かれていない。

 第五班との関係が、私の冷静な判断を損なっているとは、現時点では判断しない。

 よかった。

 涙。

 尊重は条件付きだった。

 でも、尊重だった。


 要点確認。

 ローゼンベルク家は学園所見を尊重。

 エリシア本人の所見を観察および判断能力の育成として受け止める。

 第五班との関係が本人の冷静な判断を損なっているとは現時点では判断しない。

 通常交流継続に異議なし。

 ただし確認は継続。

 過度な感情的関与や立場を曖昧にする行動があれば学園と協議。

 ローゼンベルク家側の詳細確認は一段落。

 ヴォルツ家の再判断は未着。


 レオンはペンを止めた。


 ローゼンベルク家の返答は、優しかった。


 だが、甘くはなかった。


 尊重。


 確認。


 条件。


 その三つが、きちんと入っていた。


 エリシアの意思は尊重された。


 彼女の所見は、感情的な関与ではなく、観察と判断として受け止められた。


 第五班との関係が、彼女の冷静な判断を損なっているとは、現時点では判断されなかった。


 通常交流継続にも異議なし。


 それは、大きな安堵だった。


 エリシアが泣いた。


 よかった、と言った。


 その声を、レオンは忘れないと思った。


 けれど、条件もあった。


 今後も確認する。


 過度な感情的関与。


 本人の立場を曖昧にする行動。


 それが見られれば、学園と協議する。


 家は、家だった。


 守るものがある。


 だから、尊重は無条件の放任ではない。


 だが、それでも尊重だった。


 レオンは最後に一行を書く。


 尊重という言葉が、家の封で届く日。


 その下に、もう一行。


 条件付きでも、確認付きでも、エリシアの判断が判断として受け取られたことは、確かな一歩だった。


 ペンを置く。


 窓の外は夜だった。


 雲は少し晴れ、星がいくつか見える。


 ローゼンベルク家は一段落。


 次は、ヴォルツ家。


 父の再判断。


 レオンの胸は、また少し冷える。


 だが、今日はエリシアの安堵がある。


 それを消さずに受け取る。


 怖さと安堵は、同じ胸に残る。


 レオンは手帳を閉じた。


 灯りを落とす。


 暗闇の中で、噴水の水音を思い出す。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 尊重は、優しいだけの水ではなかった。


 流れを見守りながら、岸を示すものだった。


 それでも、水は流れる。


 エリシアの声も。


 第五班の声も。


 ひとつ、家へ届いた。


 次は、自分の家だ。

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