第六十四話
翌朝。
王立グランセル魔導学園の空は、薄い雲に覆われていた。
雨の気配はない。
けれど、青は遠く、朝日は雲の膜を通して淡く広がっている。
校舎の石壁は白く光るというより、静かに息を潜めているようだった。
中庭の芝は夜露を含み、葉先に小さな雫を抱えていた。
風が通るたび、その雫が細かく揺れる。
噴水の水音は、今日も変わらない。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
レオン・ヴォルツは、寮の部屋で手帳を開いていた。
昨日の最後の一文。
誰に見られるかが決まった日、視線は形を持った。
だからこそ、見られることを消そうとせず、見た、揺れた、戻る、と声にして進む。
公開評価課題の形式が決まった。
三日後。
第三訓練場。
担当教師団三名。
記録担当二名。
生徒代表三名。
上位クラス代表、カイル・ローダン。
上位クラス代表、ハルト・グレイナー。
同学年一般代表、エリシア・フォン・ローゼンベルク。
外部者の直接観覧はなし。
ローゼンベルク家とヴォルツ家へは、学園より記録報告。
課題形式は、救援護送、標識移送、複数障害の複合型。
詳細は当日直前まで非公開。
事実は整理できている。
昨日、何度も書いた。
決まった事実を数えることで、不安は少し輪郭を持つ。
けれど、輪郭を持った不安は、別の重さを生む。
カイルが見る。
ハルトが見る。
エリシアが見る。
教師が見る。
記録担当が記す。
その先で、父が読む。
名前のない視線は、霧のようだった。
だが、名前のある視線は違う。
それぞれ、重さが違う。
カイルは冷静に見るだろう。
細かな判断の遅れも、支援の過不足も、報告の意味も、見落とさない。
ハルトは正面から見るだろう。
逃げやごまかしがあれば、たぶんすぐに顔へ出る。
エリシアは見守ると言った。
だが、彼女が見ているという事実は、優しさだけではない重さを持つ。
彼女に心配させたくない。
良いところを見せたい。
安心させたい。
そう思えば、また動きが外向きになる。
レオンは手帳へ今日の最初の一文を書く。
名前のある視線は、無名の視線よりも動きを奪う。
その下に、もう一行。
だから、誰が見るかを消すのではなく、誰を意識したかを言葉にして戻る。
ペンを置く。
今日から、第三訓練場での適応が本格化する。
昨日は広さ、反響、観覧席の圧を知った。
今日は、名前のある視線を意識した状態で、どこが崩れるかを確認する日になるだろう。
レオンは制服へ袖を通した。
灰色の布が肩に乗る。
鏡の中の自分を見る。
顔は落ち着いている。
だが、目の奥は少し硬い。
それを隠さない。
見た。
揺れた。
戻る。
その順番を持って、部屋を出た。
◆
寮の廊下では、昨日より具体的な声が行き交っていた。
形式が決まったからだ。
もう、漠然とした公開評価ではない。
日程も場所も、観覧者もわかっている。
生徒たちは、具体的な名前を口にしている。
「生徒代表、カイルとハルトだって」
「上位クラスの二人か」
「一般代表がエリシア様って、当事者じゃない?」
「だからこそ見るんじゃないの」
「カイルに見られるの、きつそう」
「ハルトも怖いぞ」
「エリシア様が見るなら、第五班も変に力入るだろうな」
変に力が入る。
その通りだった。
レオンは廊下を歩きながら、視線をまっすぐ前へ置く。
カイル。
ハルト。
エリシア。
その三つの名前が、足元に影のようについてくる。
事実。
生徒代表は三名。
状態。
名前を聞くたびに胸が少し重くなる。
行動。
中庭へ向かう。
◆
中庭には、フィーネ・ルークがいた。
噴水のそば。
彼女は手帳を開き、何かを書いていた。
レオンが近づくと、すぐに顔を上げる。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
フィーネは少しだけ手帳を閉じる。
「今日は、名前が頭から離れません」
「生徒代表か」
「はい」
彼女は小さく頷いた。
「カイルさんが見るなら、報告の正確さを気にします。ハルトさんが見るなら、迷いを見せたくないと思います。エリシア様が見るなら、心配させたくないと思います」
一つずつ、言葉にする。
それだけで、彼女の胸の中が見えるようだった。
「その三つが重なると?」
レオンが聞く。
フィーネは少し困ったように笑った。
「報告が固まります」
「だろうな」
「はい」
彼女は手帳を開く。
カイルさん。
正確さを気にする。
ハルトさん。
迷いを見せたくない。
エリシア様。
心配させたくない。
結果、報告が固まる。
「今日の共有です」
「良い」
レオンは頷いた。
「なら、報告が固まったら?」
「誰を意識したか言います」
「それでいい」
フィーネは深く頷いた。
◆
アルト・レイヴンは、三枚の紙片を持って来た。
昨日と同じ、土、水、風。
増やしていない。
しかし、今日はその紙片とは別に、手帳の端へ小さく何かを書いていた。
「おはようございます」
「ああ」
「おはようございます、アルトさん」
フィーネが返す。
アルトは少し緊張した顔で言った。
「俺も、名前で考えてしまいました」
「誰を」
「カイルさんが見るなら、支援の判断を間違えられない。ハルトさんが見るなら、弱く見られたくない。エリシア様が見るなら……」
そこで少し言葉に詰まる。
「俺が第五班を支える側になれているところを見せたいです」
それは正直な言葉だった。
アルトにとって、エリシアは外から第五班を見てきた重要な当事者でもある。
彼女に、守られるだけの自分ではなく、支える側になろうとしている自分を見てほしい。
それは自然な願いだった。
だが、願いは時に硬さになる。
「見せたいと思うのは悪くない」
レオンは言った。
アルトが顔を上げる。
「でも、見せようとして支援を強くしすぎるな」
「はい」
「支えられているところは、強い支援だけじゃない。弱めることも支えることだ」
アルトはその言葉を手帳に書いた。
弱めることも支えること。
書き終えると、小さく息を吐いた。
「今日の共有です。エリシア様に支えているところを見せたい気持ちで、支援が強くなるかもしれない」
「良い共有だ」
◆
ユーリス・ベルクは、今日は少し肩を回しながらやって来た。
緊張をごまかしているようにも見える。
近づくと、彼はすぐに言った。
「おはよう。俺、ハルトが見るの結構嫌だ」
唐突だった。
フィーネが少し目を丸くする。
「ハルトさんが?」
「うん。カイルはまあ、見られると細かそうだなって感じ。でもハルトは、こう……真正面から見てくるだろ」
「ああ」
レオンは頷いた。
ハルトは不器用だが、見る時は逃げない。
それがユーリスには少し重いのだろう。
「エリシア様には格好つけそう。カイルには賢く見せようとしそう。ハルトには逃げてないって見せようとしそう」
ユーリスは指を折りながら言う。
「結果、俺が俺じゃなくなる」
「かなり明確だな」
「昨日の夜、考えた」
ユーリスは少し笑った。
「今日の共有。カイルには賢く、ハルトには強く、エリシア様には格好よく見せようとするかもしれない」
アルトが小さく笑う。
「全部ですね」
「全部だな」
ユーリスは肩をすくめる。
「だから、全部やめる。普通に走る」
その言葉に、フィーネが微笑んだ。
「昨日の紙片ですね」
「大事な紙片だからな」
◆
四人は噴水のそばで確認した。
カイルの視線。
正確さ。
判断。
細部。
ハルトの視線。
正面。
逃げないこと。
弱く見られたくない気持ち。
エリシアの視線。
安心させたい。
心配させたくない。
支える側を見せたい。
格好よく見せたい。
レオンは三人を見る。
「名前がある視線は、まとめて“見られている”では足りない」
フィーネが頷く。
「誰を意識したか、言う」
アルトも。
「その人向けに動きが変わったら言う」
ユーリスも。
「普通に走る」
「それは毎回言うな」
「毎回必要だからな」
少し笑いが生まれる。
その笑いで、朝の空気が少し柔らかくなった。
◆
東棟へ向かう道では、生徒代表の話が広がっていた。
昨日の掲示が効いている。
カイル、ハルト、エリシア。
その名前は、学園内でも十分に注目を集める組み合わせだった。
「カイルが代表なら評価かなり厳しそう」
「ハルトは意外だな」
「いや、見届け役としては合ってるんじゃない?」
「エリシア様が見るの、かなり意味あるよな」
「第五班、やりにくいだろうな」
「でも、あの三人ならちゃんと見そう」
ちゃんと見る。
その言葉は、ありがたくもあり、重くもある。
レオンは歩きながら、胸の奥に小さな熱を感じた。
見られるなら、示す。
だが、示そうとして形を崩すな。
フィーネが小さく言う。
「今、カイルさんの名前で報告の正確さを考えました」
アルトが続く。
「俺は、ハルトさんで強さを考えました」
ユーリスも。
「俺はエリシア様で格好つけを考えた」
レオンは頷く。
「俺は、三人全員を父へ繋げて考えた」
三人が静かに見る。
「観覧者が見て、記録になって、家へ行く。そこまで一気に考えた」
フィーネが言う。
「段階が飛びましたね」
「ああ」
レオンは認めた。
「戻る」
短く言う。
三人が頷いた。
◆
教室に入ると、カイルとハルトがいた。
昨日から、二人は生徒代表としての立場も持っている。
それが、空気を少し変えていた。
カイルはいつも通り席に座っている。
ハルトは窓際に立っている。
だが、第五班が入った瞬間、二人の視線がわずかに向いた。
その視線だけで、レオンの背筋が少し伸びる。
カイルが口を開いた。
「今日から、私たちの名前を意識するだろう」
「している」
レオンは答えた。
「なら言っておく。私は、お前たちの見栄えを見るつもりはない」
カイルは淡々と続ける。
「判断の根拠、修正の速度、共有の意味を見る」
フィーネが小さく頷く。
「はい」
ハルトも口を開く。
「俺は、逃げてるかどうかを見る」
ユーリスの肩が少し動く。
ハルトはそれに気づいたように、まっすぐユーリスを見た。
「別に、失敗したら逃げたって言うわけじゃない。失敗しても戻るなら、それは逃げじゃない」
ユーリスは少しだけ目を見開いた。
「……了解」
ハルトは次にアルトを見る。
「弱い支援が悪いとも思わない。必要なら弱くしろ」
アルトも驚く。
「はい」
最後に、ハルトはレオンを見た。
「一人で背負おうとしたら、逃げだと思う」
その言葉は、鋭かった。
レオンは息を吸う。
「わかった」
カイルが静かに続ける。
「エリシア様も、おそらく見張るためには見ない。だから、君たちが勝手に見張られている形に変換するな」
フィーネが手帳に書いた。
勝手に見張られている形に変換しない。
それは今日、大切な言葉だった。
◆
一限目。
教師は黒板へ文字を書いた。
名のある視線。
教室が静まる。
「公開評価課題の生徒代表が告知された」
教師は言った。
「名前が出たことで、第五班の意識は変化しているはずだ」
一拍。
「無名の観覧者より、名前のある観覧者の方が心身へ影響する」
レオンは静かに聞いた。
朝の手帳と同じことを、教師が言葉にする。
「特定の相手に良く見せようとすると、動きは相手向けになる。だが、課題は観覧者のために動くものではない」
黒板に書かれる。
相手向け。
課題向け。
「ヴォルツ」
「はい」
レオンは立ち上がる。
「名のある視線に対して、第五班が行うべき確認は何だ」
レオンは答えた。
「誰を意識したかを言葉にすることです」
教師は頷く。
「続けろ」
「カイルなら、正確さを見せようとする。ハルトなら、逃げていないところを見せようとする。エリシア様なら、安心させようとする。それぞれで動きが変わります」
一拍。
「だから、“見られている”でまとめず、誰を意識したかを共有し、課題へ戻す必要があります」
教師は頷いた。
「良い」
そして全体へ言った。
「誰かに見せようとするな。誰かが見ている中で、課題へ向かえ」
◆
第三訓練場。
今日は昨日より空気が重く感じた。
観覧席は同じく空席。
だが、もう空ではない。
レオンたちの頭の中では、そこにカイル、ハルト、エリシアの姿がある。
教師はそれをわかっているように言った。
「本日の環境適応演習では、観覧席に仮想名札を置く」
観覧席の三か所に札が置かれた。
カイル。
ハルト。
エリシア。
ただの札。
紙。
それだけなのに、空気が変わる。
アルトの手が震える。
フィーネの目が札へ吸われる。
ユーリスが小さく笑いかけて、やめる。
レオンも、胸の奥が重くなる。
教師は言った。
「これは本番ではない。名前のある視線に対し、どのような変化が出るかを確認する」
鐘が鳴る。
◆
課題は、昨日より少し難度が上がった。
標識一つ。
護送対象一体。
魔法人形二体。
障害壁一つ。
第三訓練場の広さと反響はそのまま。
フィーネが初期報告を出そうとする。
その視線が一瞬、カイルの名札へ向かった。
「カイルさんを意識しました。報告、正確さに寄りすぎそうです」
言えた。
すぐに戻る。
「正面前衛、右軽量。護送対象左、状態黄色。障害壁中央。標識奥」
必要十分。
レオンが指示する。
「護送優先。ユーリス左。アルト右軽量。俺は前衛。フィーネ、障害壁」
「はい」
「了解」
「はい」
アルトが土を出す。
その瞬間、ハルトの名札が視界に入ったのだろう。
土が強く出た。
「ハルトさんを意識しました。強く見せようとしました。弱めます!」
土が低くなる。
右軽量を止めるには十分。
ユーリスが護送対象へ向かう。
エリシアの名札を見た。
足が少し格好よく伸びる。
だが、すぐに言う。
「エリシア様を意識した。格好つけ走り。普通に走る!」
姿勢が崩れる。
速くなる。
護送対象へ到達。
「護送黄色。揺れあり。支えすぎず行く」
レオンは前衛型を受ける。
観覧席の三つの名札が視界の端にある。
カイル。
ハルト。
エリシア。
その先に、父。
指示が少し重くなる。
フィーネが声を出す。
「レオンさん、観覧席から家へ意識が飛んでいます!」
胸を突かれたようだった。
だが、戻る。
「戻る。今は前衛。標識は後」
前衛型を流す。
障害壁が起動。
フィーネが叫ぶ。
「障害壁中央、起動! 左通路狭い!」
アルトが風を入れる。
「風、弱支援。護送揺れを見ます」
ユーリスが返す。
「受ける。少し弱いけど、このままでいい」
標識へ向かう。
レオンが短く指示。
「標識、ユーリス。護送維持。アルト、軽量足止め継続」
「了解!」
「はい!」
標識確保。
戻り。
カイルの名札が視界に入る。
フィーネの声が一瞬硬くなる。
「カイルさんを意識。報告を整えすぎそう。戻します。台座まで五歩、右軽量足止め中」
良い。
ハルトの名札を見て、アルトの土がまた少し強くなりかける。
「強くしそうでした。維持します」
エリシアの名札を見て、ユーリスが笑いかける。
「格好つけそう。今は標識」
台座へ。
護送対象、安定。
標識設置。
鐘が鳴った。
◆
教師が近づく。
「第五班、評価、上」
四人が一瞬、息を止めた。
上。
公開準備に入ってから、初めての上だった。
教師は続ける。
「名のある視線に対する反応は全員に出た。だが、誰を意識したかを即時に言語化し、課題へ戻した」
「はい」
「ルーク、カイル名札による報告硬化を自覚し補正。良」
「はい」
「レイヴン、ハルト名札による支援強化を自覚し弱めた。良」
「はい」
「ベルク、エリシア名札による動作の外向きを自覚し戻した。良」
「はい」
「ヴォルツ、観覧席から家へ意識が飛んだが、指摘で戻った。良」
「はい」
教師は言った。
「今日は、良い上である」
良い上。
その言葉に、四人の空気が少しだけ変わった。
「形が整ったから上なのではない。視線に揺れながらも、戻り方が成果へ繋がったから上だ」
レオンは静かに息を吐いた。
良い上。
初めて、その言葉が胸に入った。
◆
訓練後。
四人は観覧席の下へ集まった。
見上げると、三つの名札が見える。
カイル。
ハルト。
エリシア。
ただの紙なのに、確かに心を揺らした。
フィーネが言う。
「カイルさんの名前を見ると、言葉をきれいにしようとしました」
アルトも。
「ハルトさんの名前で、強く出そうとしました」
ユーリスも。
「エリシア様の名前で、格好つけました」
レオンも言う。
「俺は、三人から父へ飛んだ」
四人は少し黙った。
そして、ユーリスがぽつりと言う。
「でも、言えたな」
「ああ」
レオンは頷いた。
「言えた」
フィーネが手帳を開く。
誰を意識したか言う。
言えば戻れる。
アルトも書く。
弱めることも支える。
ハルトさんに強く見せなくていい。
ユーリスも。
エリシア様に格好つけるより、普通に走る。
レオンも手帳に書いた。
観覧席から家へ飛ぶ。
飛んだら言う。
今の敵へ戻る。
◆
昼休み。
食堂では、第五班が上評価を取ったという話がすぐに広がっていた。
「第五班、第三訓練場で上だって」
「公開準備入ってから初?」
「名札置いてやったらしいぞ」
「名札?」
「生徒代表の名前」
「それだけで圧すごそう」
「誰を意識したか言って戻ったんだって」
「良い上って先生が言ったらしい」
良い上。
その言葉が、食堂の中を小さく渡っていく。
良い良とは違う。
上だから良いのではない。
戻り方が成果へ繋がったから、良い上。
第五班の席でも、四人はその言葉を噛みしめていた。
アルトが言う。
「上評価、久しぶりにちゃんと嬉しいです」
「ちゃんと?」
ユーリスが聞く。
「はい。前は、上じゃないと不安でした。でも今日は、上が嬉しいです」
フィーネが微笑む。
「わかります」
レオンも頷いた。
「良い上だった」
ユーリスが少し笑う。
「良い良の次は、良い上か。忙しいな」
「でも、大事です」
フィーネが言う。
「評価の名前より、何が良かったのか」
その通りだった。
◆
放課後。
中庭には、エリシア・フォン・ローゼンベルクがいた。
今日は少し緊張した顔で噴水のそばに立っている。
レオンたちを見ると、すぐに会釈した。
「皆様」
「エリシア様」
フィーネが返す。
エリシアは少しだけ申し訳なさそうに言った。
「今日、私の名前の名札を置いて演習したと聞きました」
「ああ」
レオンは頷く。
「置かれた」
エリシアは手帳を持つ手に力を入れる。
「重くありませんでしたか」
その問いに、ユーリスがすぐ答えた。
「重かったです」
フィーネとアルトが少し驚く。
だが、ユーリスは続けた。
「でも、見張られてる重さじゃなかったです。格好つけたくなる重さでした」
エリシアは目を丸くする。
「格好つけたくなる……」
「はい。俺はそうでした」
アルトも言う。
「俺は、エリシア様に支える側になれているところを見せたいと思いました」
フィーネも。
「私は、心配させたくないと思いました」
レオンも言った。
「俺は、あなたの視線を支えとしても感じた。でも同時に、家への記録へ繋げて考えた」
エリシアは、四人の言葉を一つずつ受け取った。
そして、小さく息を吐く。
「私の名前も、皆様を揺らすのですね」
「揺れる」
レオンは答えた。
「でも、揺れたことを言えた」
フィーネが微笑む。
「今日は、上評価でした」
エリシアの目が明るくなる。
「本当ですか」
「はい」
アルトが少し嬉しそうに言う。
「良い上、です」
エリシアはその言葉を繰り返した。
「良い上」
そして、手帳を開いた。
私の名前も、皆様を揺らす。
でも、揺れたことを言えた。
良い上。
書き終えると、彼女は顔を上げた。
「私も、本番で皆様を見守る時、自分が皆様を揺らす存在でもあることを忘れないようにします」
その言葉は、静かだった。
だが、とても大事だった。
見守る側にも、責任がある。
見られる側だけではない。
「お願いします」
レオンが言うと、エリシアは深く頷いた。
「はい」
◆
少し離れたところで、ハルトが歩いていた。
どうやら中庭を通りかかったらしい。
ユーリスが気づいて、軽く手を上げる。
「ハルト」
「何だ」
ハルトは不機嫌そうに立ち止まった。
ユーリスは少し迷ってから言った。
「今日、お前の名札で強く見せようとしたやつがいた」
「誰だ」
アルトがぎくりとする。
ハルトの視線がアルトへ向く。
アルトは少し慌てながらも、正直に言った。
「俺です」
ハルトは数秒黙った。
そして言った。
「馬鹿か」
「す、すみません」
「謝るな。弱める必要があるなら弱めろと言っただろ」
「はい」
ハルトは腕を組む。
「俺に強く見せる必要はない。必要な支援をしろ」
その言葉は、乱暴だった。
だが、アルトには届いた。
「はい」
アルトの返事は、さっきより少し強かった。
ハルトは次にユーリスを見た。
「お前は逃げてなかったのか」
ユーリスは少し笑う。
「今日は逃げずに、格好つけそうって言った」
「ならいい」
短い。
だが、ハルトらしい。
彼はそれだけ言うと、歩いていった。
ユーリスが小さく言う。
「やっぱ重いな、ハルト」
フィーネが少し笑う。
「でも、見張ってはいませんね」
「だな」
レオンは去っていくハルトの背中を見た。
不器用な見守り。
それも、確かにある。
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは手帳を開いた。
第六十四話。
名前のある視線に、動きは少しずつ奪われる。
朝。
名のある視線。
カイル。
ハルト。
エリシア。
教師。
記録担当。
その先の父。
名前のない視線は霧。
名前のある視線は重さが違う。
名前のある視線は、無名の視線よりも動きを奪う。
誰が見るかを消すのではなく、誰を意識したかを言葉にして戻る。
フィーネ。
カイルさんが見るなら正確さ。
ハルトさんが見るなら迷いを見せたくない。
エリシア様が見るなら心配させたくない。
結果、報告が固まる。
誰を意識したか言う。
アルト。
カイルさんが見るなら支援の判断を間違えられない。
ハルトさんが見るなら弱く見られたくない。
エリシア様が見るなら、支える側になれているところを見せたい。
エリシア様に支えているところを見せたい気持ちで、支援が強くなるかもしれない。
弱めることも支えること。
ユーリス。
カイルには賢く。
ハルトには強く。
エリシア様には格好よく。
結果、俺が俺じゃなくなる。
全部やめる。
普通に走る。
カイル。
見栄えを見るつもりはない。
判断の根拠、修正の速度、共有の意味を見る。
エリシア様も見張るためには見ない。
勝手に見張られている形に変換するな。
ハルト。
俺は逃げてるかどうかを見る。
失敗しても戻るなら、それは逃げじゃない。
弱い支援が悪いとも思わない。
必要なら弱くしろ。
一人で背負おうとしたら、逃げだと思う。
講義。
名のある視線。
無名の観覧者より、名前のある観覧者の方が心身へ影響する。
特定の相手に良く見せようとすると、動きは相手向けになる。
課題は観覧者のために動くものではない。
誰かに見せようとするな。
誰かが見ている中で、課題へ向かえ。
第三訓練場。
仮想名札。
カイル。
ハルト。
エリシア。
ただの紙なのに空気が変わる。
フィーネ、カイル名札で報告の正確さに寄りすぎそうになる。
アルト、ハルト名札で土を強く出す。
ユーリス、エリシア名札で格好つけ走り。
レオン、観覧席から家へ意識が飛ぶ。
全員、誰を意識したか言語化。
課題へ戻る。
評価、上。
良い上。
形が整ったから上なのではない。
視線に揺れながらも、戻り方が成果へ繋がったから上。
昼。
良い上。
上が嬉しい。
前は上じゃないと不安だった。
今日は上が嬉しい。
評価の名前より、何が良かったのか。
放課後。
エリシア。
私の名前も、皆様を揺らすのですね。
重かった。
でも見張られている重さではない。
格好つけたくなる重さ。
支える側を見せたい。
心配させたくない。
視線を支えとして感じた。
でも家への記録へ繋げて考えた。
私も、本番で皆様を見守る時、自分が皆様を揺らす存在でもあることを忘れないようにします。
ハルト。
アルトへ。
俺に強く見せる必要はない。
必要な支援をしろ。
ユーリスへ。
逃げずに格好つけそうと言えたならいい。
不器用な見守り。
レオンはペンを止めた。
今日は、名前の重さを知る日だった。
カイル。
ハルト。
エリシア。
ただの名札でも、身体は反応した。
フィーネは正確に報告しようとした。
アルトは強く支援しようとした。
ユーリスは格好よく走ろうとした。
レオンは、観覧席から父へ意識を飛ばした。
名前があるだけで、動きは相手へ向こうとする。
だが、今日は戻れた。
誰を意識したか言えた。
カイルを意識した。
ハルトを意識した。
エリシアを意識した。
家へ飛んだ。
言葉にできたから、課題へ戻れた。
それが、今日の上だった。
良い上。
上評価が、久しぶりに素直に嬉しかった。
上だから安心したのではない。
戻り方が成果へ繋がったとわかったから嬉しかった。
レオンは最後に一行を書く。
名前のある視線に、動きは少しずつ奪われる。
その下に、もう一行。
だから奪われた瞬間を隠さず、誰を意識したかを言い、課題へ返していく。
ペンを置く。
窓の外は夜だった。
星は薄く、雲の向こうに少しだけ見える。
公開評価課題まで、あと二日。
今日、良い上を取った。
だからといって、もう大丈夫ではない。
でも、道は見えた。
誰かを見る。
揺れる。
言う。
戻る。
その繰り返しが、成果へ繋がる。
レオンは手帳を閉じた。
灯りを落とす。
暗闇の中で、ハルトの乱暴な声を思い出す。
必要な支援をしろ。
カイルの静かな声も。
判断の根拠、修正の速度、共有の意味を見る。
エリシアの柔らかな声も。
見守る時、自分が皆様を揺らす存在でもあることを忘れないようにします。
それぞれの視線がある。
それぞれの重さがある。
けれど、それらを見張りに変えるか、見守りとして受け取るかは、自分たちにもかかっている。
噴水の水音を思い出す。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
誰に見られても。
水は、いつも通り落ちる。
自分たちも。
揺れながら、戻る。




