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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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65/81

第六十五話 


 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、澄んでいた。


 雲は少ない。


 薄い白が遠くに流れているだけで、青はいつもより広く見えた。


 校舎の石壁は朝日を受け、柔らかく明るい色を帯びている。


 尖塔の影は中庭の芝へ細く伸び、その端で夜露が静かに光っていた。


 風は弱い。


 旗は少しだけ揺れ、噴水の水面もわずかに波打っている。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 変わらない水音。


 けれど、レオン・ヴォルツの胸の中は、昨日より少しだけ違っていた。


 公開評価課題まで、あと二日。


 いや、今日が終われば、あと一日。


 明日を越えれば、本番。


 その事実が、朝の空気よりも先に胸へ入ってくる。


 レオンは寮の部屋で手帳を開いていた。


 昨日の最後の言葉。


 名前のある視線に、動きは少しずつ奪われる。


 だから奪われた瞬間を隠さず、誰を意識したかを言い、課題へ返していく。


 昨日、第三訓練場で仮想名札を使った。


 カイル。


 ハルト。


 エリシア。


 ただの紙。


 それだけなのに、全員が揺れた。


 フィーネはカイルを意識して報告を整えようとした。


 アルトはハルトを意識して支援を強めようとした。


 ユーリスはエリシアを意識して格好つけようとした。


 レオンは観覧席から父へ意識を飛ばした。


 けれど、全員が言えた。


 誰を意識したか。


 どう揺れたか。


 どう戻るか。


 評価は、上。


 良い上。


 その言葉は、昨日から第五班の胸に静かに残っている。


 上評価が嬉しかった。


 だが、その嬉しさは危うさも持っている。


 昨日できた。


 だから今日もできる。


 本番も大丈夫。


 そう思いすぎると、足元が浮く。


 逆に、昨日できたのだから明日も失敗してはいけないと思えば、また硬くなる。


 良い上の後には、良い上の後の揺れがある。


 レオンは手帳に今日の最初の一文を書いた。


 上手くいった翌日ほど、失敗を隠したくなる。


 その下に、もう一行。


 本番前に必要なのは、自信ではなく、崩れても戻れる確認。


 ペンを置く。


 昨日の上は、大事にしていい。


 だが、それを守ろうとしてはいけない。


 本番で示すべきなのは、昨日の再現ではない。


 明日の課題の中で崩れ、戻り、成果へ繋げること。


 なら、今日は。


 本番前日に近い今日こそ、あえて崩れる練習が必要になる。


 レオンは制服へ袖を通した。


 灰色の布が肩に乗る。


 鏡の中の自分を見る。


 顔色は悪くない。


 だが、目の奥には、昨日の上評価を守りたい気持ちが少しある。


 それも状態だ。


 隠さない。


 レオンは手帳を鞄へ入れ、部屋を出た。


    ◆


 廊下へ出ると、学園の空気は昨日より少し浮いていた。


 第五班が第三訓練場で上評価を取ったことが広がっている。


 良い上。


 その言葉も、もう一部の生徒たちに伝わっていた。


「第五班、昨日上だったんだろ」

「名札置いた演習で上ってすごくない?」

「公開評価、いけるんじゃないか?」

「いや、本番は別だろ」

「でも流れ来てるよな」

「良い上って先生が言ったらしいぞ」

「良い良から良い上か。なんか成長してる感あるな」


 成長している。


 流れが来ている。


 いけるんじゃないか。


 その言葉は、悪意ではない。


 むしろ期待だ。


 けれど、期待もまた視線になる。


 昨日の重い視線とは少し違う。


 温かい。


 だが、温かい視線にも、動きは奪われる。


 応えたいと思う。


 期待を裏切りたくないと思う。


 レオンは歩きながら、心の中で整理する。


 事実。


 昨日、上評価を得た。


 公開評価はまだ。


 状態。


 期待に応えたい。


 昨日の良い上を守りたい。


 行動。


 今日も状態共有。


 昨日の再現ではなく、今日の課題へ向かう。


    ◆


 中庭には、フィーネ・ルークがいた。


 噴水のそば。


 今日は手帳を開いていない。


 胸に抱えたまま、水面を見ていた。


 レオンが近づくと、彼女は振り返る。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


 フィーネの表情は落ち着いている。


 だが、少しだけ硬い。


 昨日までの不安とは別の硬さだ。


「昨日、上評価でしたね」


「ああ」


「嬉しかったです」


「俺もだ」


 フィーネは小さく頷いた。


「でも今朝、怖くなりました」


「何が」


「昨日上だったから、今日は崩れたくないと思ってしまって」


 レオンは静かに頷いた。


 やはり同じだった。


「昨日の良い上を守りたい」


「はい」


 フィーネは手帳を開く。


 そこには短く書かれていた。


 昨日できた。

 今日もできなければならない。

 そう思うと、報告が硬くなる。


「今日の共有です」


「良い共有だ」


 レオンは答えた。


「俺も、昨日の上を守りたい気持ちがある」


「レオンさんも」


「ああ」


 フィーネは少し安心したように息を吐いた。


「では今日は、守る日ではありませんね」


「違う」


「確認する日」


「ああ」


 レオンは噴水を見る。


「崩れても戻れるかを確認する日だ」


    ◆


 アルト・レイヴンは、三枚の紙片を持って来た。


 昨日と同じ、土、水、風。


 増えていない。


 そのことに、まずレオンは安心した。


 だが、アルトの表情は少し緊張していた。


「おはようございます」


「ああ」


「おはようございます、アルトさん」


 フィーネが返す。


 アルトは紙片を握りながら言った。


「昨日、上評価を取れました」


「ああ」


「嬉しかったです。すごく」


「そうだな」


「でも、今朝から……次も上じゃなきゃって思っています」


 正直な言葉だった。


 アルトは続ける。


「良い上だったから、それを崩したら駄目だって。昨日の俺より悪くなったら、やっぱり支える側なんて無理だって思われるんじゃないかって」


 フィーネが少し悲しそうに見る。


 レオンはすぐに言った。


「昨日より悪くなる日もある」


 アルトが顔を上げる。


「ありますか」


「ある」


「でも」


「それで戻れるかを見る」


 レオンは続けた。


「第五班は、毎日上を並べるためにあるわけではない。崩れた日にも戻るためにある」


 アルトは唇を結び、ゆっくり頷いた。


「今日の共有です。上を守ろうとして、支援が慎重になりすぎるかもしれない」


「良い」


 レオンは頷いた。


「慎重になりすぎたら言え」


「はい」


    ◆


 ユーリス・ベルクは、今日は少し軽い顔でやって来た。


 昨日の良い上が嬉しかったのだろう。


 だが、その軽さも、どこか浮いている。


「おはよう」


「ああ」


「おはようございます」


「おはようございます、ユーリスさん」


 ユーリスは三人を見ると、すぐに両手を上げた。


「正直に言う。俺、ちょっと調子乗ってる」


 フィーネが目を瞬く。


 アルトが少し笑いそうになる。


 レオンは頷いた。


「見えていた」


「やっぱり?」


「ああ」


 ユーリスは苦笑した。


「昨日、良い上だっただろ。名札で揺れても戻れた。だから俺、少し大丈夫じゃんって思ってる」


「悪いことではない」


「うん。でも、このまま本番行ったら、たぶん足元すくわれる」


 ユーリスは自分で言った。


「今日の共有。昨日の上で少し浮いてる。軽さが油断になるかもしれない」


「良い共有だ」


 フィーネが微笑む。


「ユーリスさん、自分で言えるの本当に強いです」


「強いっていうか、言っとかないと怖い」


 ユーリスは肩をすくめる。


「俺、調子乗る時は本当に乗るから」


 少し笑いが生まれた。


    ◆


 四人は噴水のそばで、今日の状態を確認した。


 フィーネ。


 昨日の上を守りたい。


 今日崩れたくない。


 アルト。


 次も上じゃなきゃと思う。


 支援が慎重になりすぎるかもしれない。


 ユーリス。


 昨日の上で少し浮いている。


 軽さが油断になるかもしれない。


 レオン。


 良い上を父への材料として守ろうとするかもしれない。


 レオンは三人を見た。


「今日は、昨日を再現する日ではない」


 フィーネが頷く。


「今日崩れるところを見る日」


 アルトも。


「崩れても、戻る」


 ユーリスも。


「調子乗ったら言う」


「それで行く」


 朝の確認が終わると、四人は東棟へ向かった。


    ◆


 東棟へ向かう道では、期待の声が増えていた。


 昨日の上評価が、学園内の空気を少し変えたのだろう。


「第五班、公開評価いけるかもな」

「カイルたちの名札で上なら、本番もいけるんじゃない?」

「レオン、やっぱり本番に強そう」

「フィーネの報告も安定してるらしい」

「アルトも支援良くなってるって」

「ユーリスは……普通に走るらしい」

「何それ」

「でも大事らしいぞ」


 普通に走る。


 その言葉に、ユーリスが小さく笑った。


「俺の目標、広まってるな」


「良いことだ」


 レオンが言うと、ユーリスは少し照れたように肩をすくめる。


 フィーネが小さく言う。


「期待されると、嬉しいですね」


「ああ」


 アルトも頷く。


「でも怖いです」


「両方だな」


 レオンは答えた。


 期待は嬉しい。


 怖い。


 その両方を持って、歩く。


    ◆


 教室に入ると、カイル・ローダンとハルト・グレイナーがいた。


 昨日から、生徒代表としての存在感がより強くなっている。


 カイルはいつも通り本を閉じた。


「昨日の上評価で、今日は危ない」


 開口一番だった。


 ユーリスが笑う。


「朝から刺してくるな」


「必要だからだ」


 カイルは淡々と続けた。


「上評価の後、人は二方向に揺れる。守ろうとして硬くなるか、できると思って浮くか」


 フィーネとアルトとユーリスが、それぞれ少し反応した。


 全員、当たっている。


 ハルトも言う。


「昨日の上は昨日の上だ。今日は関係ない」


「関係ないことはないだろ」


 ユーリスが言う。


「積み上げとしては関係ある。だが、今日の課題を保証しない」


 カイルが補足した。


「そういうことだ」


 ハルトは頷く。


「本番前に一回崩れておけ」


 その言葉に、アルトが目を丸くした。


「崩れておく?」


「崩れ方を知らないまま本番に行く方が怖い」


 ハルトはまっすぐ言った。


「戻れるなら、崩れるのは無駄じゃない」


 レオンはその言葉を受け取った。


 本番前に崩れておく。


 今日の課題は、やはりそこだ。


    ◆


 一限目。


 教師は黒板へ文字を書いた。


 崩す。


 教室が静まり返る。


 公開評価課題を控えた第五班にとって、その言葉はあまりに直接的だった。


 教師は振り返る。


「昨日、第五班は第三訓練場で上評価を得た」


 教室の視線が第五班へ向く。


 レオンはその視線を感じながら、前を見た。


「良い上であった。名のある視線に揺れながらも、戻り方が成果へ繋がった」


 一拍。


「だが、本日はあえて崩す」


 教室の空気が少し動く。


 教師は続けた。


「本番前に避けるべきなのは、失敗そのものではない。失敗を恐れて、失敗しない形だけを作ることだ」


 黒板に追加される。


 崩れる。

 隠す。

 戻る。


「崩れることは起こる。問題は、隠すか、戻るかだ」


 レオンは静かに聞いていた。


 その言葉は、第五班の中心にある。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立ち上がる。


「本番前日の準備として、第五班が今日確認すべきことは何だ」


「崩れた時に隠さず言えるかです」


 教師は頷く。


「続けろ」


「昨日上評価だったことで、俺たちはその形を守ろうとするかもしれません。あるいは、昨日できたから大丈夫だと油断するかもしれません」


 一拍。


「だから今日は、あえて小さく崩れた時に、評価を守ろうとせず、すぐ言えるかを確認する必要があります」


 教師は頷いた。


「良い」


 そして教室全体へ言った。


「成功の後に崩れる練習をできる班は強い。失敗を避けるのではなく、失敗から戻る速度を上げろ」


    ◆


 第三訓練場。


 今日の空気は、昨日とは違っていた。


 観覧席には、昨日と同じ仮想名札が置かれている。


 カイル。


 ハルト。


 エリシア。


 さらに今日は、教師団、記録担当という札も追加された。


 空席なのに、ほとんど本番のようだった。


 教師は言った。


「本日は崩し込み演習を行う」


 その言葉に、アルトが少し緊張する。


「崩し込み……」


「演習中、意図的に小さな乱れが発生する。報告の遅れ、支援条件変更、移送経路変更、護送対象の状態変化などだ。第五班は、それらを隠さず共有し、復帰する」


 教師は四人を見る。


「評価を守ろうとするな。崩れを隠すな」


 レオンは頷いた。


「はい」


 鐘が鳴る。


    ◆


 初期配置。


 標識は中央奥。


 護送対象は左。


 魔法人形三体。


 障害壁二つ。


 昨日より少し難しい。


 フィーネが報告する。


「正面前衛、右軽量、奥魔法型。護送対象左、状態黄色。障害壁中央と右。標識奥」


 声は安定している。


 だが、次の瞬間、魔法装置が小さな妨害音を鳴らした。


 フィーネの言葉が一瞬途切れる。


 昨日の上を守りたい気持ちが、彼女の顔に浮かぶ。


 遅れを隠して続けようとする。


 だが、すぐに言った。


「報告、妨害音で一拍遅れました!」


 レオンが即座に返す。


「共有確認。続けて」


「魔法型、詠唱準備なし。右軽量、接近」


 レオンが指示する。


「俺は前衛。ユーリス護送。アルト右軽量。フィーネ障害壁」


「はい!」

「了解!」

「はい!」


 アルトが土を出す。


 だが、魔法装置が支援条件を変える。


『右軽量、跳躍型へ移行』


 土の足止めが少し効きにくい。


 アルトは昨日の上を守りたくて、無理に土で止めようとしかける。


 しかし、言った。


「土で止め切ろうとしました! 条件変更、風へ切替!」


 風が軽量型の跳躍をずらす。


 フィーネが補足。


「右軽量、跳躍ずれ。接近速度低下」


 ユーリスは護送対象へ向かう。


 昨日の上で少し浮いている。


 その軽さが、足の速度に出る。


 護送対象へ近づきすぎた。


「俺、浮いて接近しすぎた! 距離戻す!」


 自分で一歩引く。


 護送対象の状態札が黄色から橙へ変わる。


「護送、橙! 揺れ強い。支えすぎ注意」


 ユーリスが声を出す。


 レオンは前衛型を受ける。


 全員が崩れを言えている。


 なら、ここで自分が整えなければ。


 そう思った瞬間、中心者として全部をまとめようとした。


 指示が長くなりそうになる。


 フィーネが言った。


「レオンさん、まとめすぎようとしています!」


 刺さる。


 だが、戻る。


「戻る。短く行く。護送優先。標識後」


 前衛を流す。


 魔法型が詠唱開始。


 アルトが水へ切り替える。


「水、詠唱妨害!」


 詠唱が乱れる。


 ユーリスが護送対象を支え、揺れを返す。


「橙、揺れ大。速度落とす」


 レオンが判断。


「標識は遅らせる。護送安定」


 昨日なら、見栄えを気にして標識も急いだかもしれない。


 今日は違う。


 崩れを隠さない。


 護送対象が黄色へ戻る。


 フィーネが叫ぶ。


「護送、黄色へ戻りました!」


「標識へ」


 レオンが指示する。


 ユーリスが標識へ向かう。


 アルトが風を弱く入れる。


「風弱。強めません」


 標識確保。


 障害壁が中央を閉じる。


 フィーネが報告。


「中央閉鎖。右は半開。右抜け可能、ただし狭い!」


 レオンが判断する。


「右。速度落とす」


「了解!」


 標識と護送対象を運ぶ。


 台座へ。


 設置。


 鐘が鳴った。


    ◆


 鐘の音が、第三訓練場に長く響いた。


 四人はしばらく息を整えた。


 全員、崩れた。


 だが、隠さなかった。


 教師が近づいてくる。


「第五班、評価、上」


 上。


 だが、教師はすぐに続けた。


「昨日とは違う上だ」


 四人が顔を上げる。


「本日は崩し込み演習である。各員に明確な乱れが出た。ルーク、報告遅延。レイヴン、支援条件への固執。ベルク、浮きによる接近過多。ヴォルツ、全体をまとめすぎる傾向」


「はい」


「しかし、全員が隠さず言語化し、復帰した」


 一拍。


「本番前に必要な上である」


 レオンは胸の奥で息を吐いた。


 本番前に必要な上。


 良い上とはまた違う。


 崩れても上。


 隠さず戻ったから上。


 教師は言う。


「覚えておけ。本番で崩れない保証はない。だが、今日、お前たちは崩れを成果へ戻した」


    ◆


 訓練後。


 四人は観覧席の下へ集まった。


 フィーネは少し疲れた顔で、でも目はしっかりしていた。


「報告が遅れた時、一瞬隠そうとしました」


「言えた」


 レオンが言う。


「はい。言えました」


 アルトも紙片を見ながら言う。


「俺も土で止め切ろうとしました。昨日の上を守りたくて」


「風に切り替えた」


「はい」


 ユーリスは頭をかく。


「俺、調子乗って近づきすぎた」


「言えた」


「言えたけど、恥ずかしいな」


 フィーネが微笑む。


「でも、言えたから戻れました」


 ユーリスは少し照れたように笑う。


「だな」


 三人がレオンを見る。


 レオンも言う。


「俺は、全員の崩れをまとめようとした」


「中心者として?」


 アルトが聞く。


「ああ。全員が崩れているなら、自分が整えなければと思った」


 ユーリスが言う。


「それ、前のレオンに戻りかけてたな」


「そうだな」


 レオンは認めた。


「でも、フィーネが言ってくれた」


 フィーネは少しだけ頬を赤くした。


「見えたので」


「助かった」


 短い言葉。


 だが、本心だった。


    ◆


 昼休み。


 食堂では、今日の演習結果がまた広がっていた。


「第五班、今日も上だって」

「また良い上?」

「今日は崩し込みで上らしい」

「何それ」

「あえて崩して、戻る練習」

「本番前にそれやるの怖くない?」

「でも強いな」

「崩れても上ってことか」


 崩れても上。


 その言葉が、食堂の空気に混ざる。


 第五班の席では、アルトが少し不思議そうに言った。


「崩れても上って、前なら信じられなかったです」


「俺もです」


 フィーネが静かに頷く。


「上は、崩れないことだと思っていました」


 ユーリスがパンをちぎる。


「今は、崩れて戻っても上になる」


「戻り方が成果へ繋がればな」


 レオンが言う。


 アルトは手帳に書く。


 崩れない上。

 崩れて戻る上。

 今の第五班は、後者。


 フィーネも書く。


 遅れたら、遅れたと言う。

 そこから戻る。


 ユーリスも紙片に書く。


 調子乗ったら、調子乗ったと言う。


 レオンも手帳に書いた。


 まとめすぎようとしたら、短く戻す。


    ◆


 放課後。


 中庭には、エリシア・フォン・ローゼンベルクがいた。


 今日は、少し急いで来たようだった。


 レオンたちを見ると、すぐに近づいてくる。


「皆様、今日も上評価だったと聞きました」


「ああ」


 レオンは頷く。


「ただし、かなり崩れた」


 エリシアは少し驚く。


「崩れたのに、上なのですか」


「はい」


 フィーネが答える。


「崩れを隠さず、戻れたので」


 アルトも。


「俺、支援に固執しました。でも言って切り替えました」


 ユーリスも。


「俺、調子乗って近づきすぎました」


 エリシアが思わず目を瞬く。


「調子乗って……」


「言いました」


 ユーリスは胸を張る。


「言えたので上です」


 その言い方に、エリシアは少し笑った。


 レオンも言う。


「俺は、全員の崩れをまとめようとした」


「それは……」


 エリシアはすぐに理解したようだった。


「一人で整えようとしたのですね」


「ああ」


「でも、戻れた」


「フィーネが言ってくれた」


 エリシアはフィーネを見る。


 フィーネは少し恥ずかしそうに手帳を抱える。


「見えたので」


 エリシアは柔らかく微笑んだ。


「本番でも、そういう上で良いのですね」


 その言葉に、四人は少し黙った。


 本番でも、崩れて戻る上。


 それでいいのか。


 完璧にやりたい気持ちはある。


 失敗したくない。


 記録に残る。


 家へ行く。


 それでも。


「そういう上を示す」


 レオンは言った。


 エリシアは頷いた。


「はい」


 そして手帳を開く。


 本番でも、崩れて戻る上で良い。

 完璧ではなく、戻る力を見る。


 書き終えた彼女は、少しだけ顔を上げた。


「私も、見る側として覚えておきます。崩れた瞬間だけで判断しない。戻るところを見る」


 レオンは静かに頷いた。


「お願いします」


    ◆


 その時、カイルとハルトが中庭へやって来た。


 二人が揃っているのは珍しい。


 どうやら教師に呼ばれた帰りらしい。


 カイルは第五班を見ると、静かに言った。


「今日の演習結果は聞いた」


「早いな」


 ユーリスが言う。


「生徒代表だからな」


 カイルは淡々と返す。


 ハルトは腕を組み、少し不機嫌そうに言った。


「崩したらしいな」


「ああ」


 レオンは頷く。


「戻ったのか」


「戻った」


「ならいい」


 短い。


 だが、その言葉には重さがあった。


 カイルが続ける。


「本番で崩れた場合、私たちは崩れそのものだけでなく、戻り方を見る」


 エリシアも静かに頷く。


「私もです」


 ハルトはユーリスを見る。


「お前が調子乗ったら、顔に出るだろうな」


「たぶん出る」


「出たら戻れ」


「了解」


 アルトには。


「固執するな」


「はい」


 フィーネには。


「遅れたら言え」


「はい」


 レオンには。


「一人で整えようとするな」


「わかっている」


 ハルトは少し目を細めた。


「本番で忘れるなよ」


「ああ」


 カイルは静かに言う。


「本番前に、良い崩れを経験できたのは大きい。明日は最終調整だ。新しいことを増やさない方がいい」


 レオンは頷いた。


「わかった」


 新しいことを増やさない。


 明日は最終調整。


 いよいよ、本番が近い。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 第六十五話。


 本番前日に、あえて崩れる練習をする。


 朝。

 昨日、良い上。

 上手くいった翌日ほど、失敗を隠したくなる。

 本番前に必要なのは、自信ではなく、崩れても戻れる確認。

 昨日の上を守ろうとしない。

 今日の課題を見る。


 フィーネ。

 昨日できた。

 今日もできなければならない。

 そう思うと、報告が硬くなる。

 昨日の良い上を守りたい。

 今日は守る日ではなく、確認する日。


 アルト。

 次も上じゃなきゃと思う。

 昨日より悪くなったら、支える側なんて無理だと思われるのではないか。

 昨日より悪くなる日もある。

 それで戻れるかを見る。

 上を守ろうとして、支援が慎重になりすぎるかもしれない。


 ユーリス。

 昨日の上で少し調子に乗っている。

 少し大丈夫じゃんと思っている。

 軽さが油断になるかもしれない。


 カイル。

 上評価の後、人は二方向に揺れる。

 守ろうとして硬くなるか、できると思って浮くか。

 昨日の上は、今日の課題を保証しない。


 ハルト。

 本番前に一回崩れておけ。

 崩れ方を知らないまま本番に行く方が怖い。

 戻れるなら、崩れるのは無駄じゃない。


 講義。

 崩す。

 良い上の翌日。

 あえて崩す。

 失敗を恐れて、失敗しない形だけを作ることを避ける。

 崩れる。

 隠す。

 戻る。

 崩れることは起こる。

 問題は、隠すか、戻るか。

 成功の後に崩れる練習をできる班は強い。

 失敗を避けるのではなく、失敗から戻る速度を上げろ。


 第三訓練場。

 崩し込み演習。

 教師団、記録担当、カイル、ハルト、エリシアの札。

 報告の遅れ。

 支援条件変更。

 移送経路変更。

 護送対象の状態変化。

 評価を守ろうとするな。

 崩れを隠すな。


 演習。

 フィーネ、妨害音で報告が一拍遅れる。

 一瞬隠そうとする。

 報告、妨害音で一拍遅れました。

 アルト、跳躍型へ変わった右軽量を土で止め切ろうとする。

 土で止め切ろうとしました。風へ切替。

 ユーリス、昨日の上で浮き、護送対象へ近づきすぎる。

 俺、浮いて接近しすぎた。距離戻す。

 レオン、全員の崩れをまとめようとする。

 フィーネが指摘。

 レオンさん、まとめすぎようとしています。

 戻る。短く行く。護送優先。標識後。

 評価、上。

 昨日とは違う上。

 本番前に必要な上。

 崩れを隠さず言語化し、復帰した。

 本番で崩れない保証はない。

 だが、今日、崩れを成果へ戻した。


 昼。

 崩れても上。

 前なら信じられなかった。

 上は崩れないことだと思っていた。

 今は、崩れて戻っても上になる。

 崩れない上。

 崩れて戻る上。

 今の第五班は後者。


 放課後。

 エリシア。

 崩れたのに上なのですか。

 本番でも、そういう上で良いのですね。

 本番でも、崩れて戻る上で良い。

 完璧ではなく、戻る力を見る。

 崩れた瞬間だけで判断しない。

 戻るところを見る。


 カイル、ハルト。

 生徒代表として結果を聞いていた。

 ハルト。

 崩したらしいな。

 戻ったのか。

 ならいい。

 フィーネ、遅れたら言え。

 アルト、固執するな。

 ユーリス、調子乗ったら戻れ。

 レオン、一人で整えようとするな。

 カイル。

 本番前に、良い崩れを経験できたのは大きい。

 明日は最終調整。

 新しいことを増やさない方がいい。


 レオンはペンを止めた。


 今日は、崩れた。


 全員、はっきり崩れた。


 フィーネは報告が遅れた。


 アルトは土に固執した。


 ユーリスは浮いて近づきすぎた。


 レオンは全員をまとめようとした。


 それぞれ、昨日の良い上が影響していた。


 守りたい。


 続けたい。


 大丈夫だと思いたい。


 その気持ちが、形を変えて出た。


 けれど、隠さなかった。


 遅れました。


 固執しました。


 浮きました。


 まとめすぎようとしました。


 言った。


 言えた。


 だから戻れた。


 今日の上は、昨日とは違う上だった。


 本番前に必要な上。


 崩れても戻る上。


 レオンは最後に一行を書く。


 本番前日に、あえて崩れる練習をする。


 その下に、もう一行。


 崩れないことより、崩れた瞬間を隠さず言えることが、第五班の本番の武器になる。


 ペンを置く。


 窓の外は夜だった。


 星は薄く、雲が少し流れている。


 公開評価課題まで、あと一日。


 明日は最終調整。


 新しいことを増やさない。


 整えすぎない。


 守りすぎない。


 浮きすぎない。


 崩れたら、言う。


 戻る。


 それだけを、磨く。


 レオンは手帳を閉じた。


 灯りを落とす。


 暗闇の中で、ハルトの声を思い出す。


 一人で整えようとするな。


 カイルの声も。


 明日は最終調整。新しいことを増やさない方がいい。


 エリシアの声も。


 崩れた瞬間だけで判断しない。戻るところを見る。


 見守る者たちも、戻るところを見ようとしている。


 なら、自分たちは戻るところを隠してはいけない。


 噴水の水音を思い出す。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 落ちることは、終わりではない。


 また跳ねる。


 第五班も、そう示す。

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